田村隆 「隠し包丁」読了
筆者は、「つきじ田村」という料亭の3代目。ホームページで検索してみると、コース料理のお値段が、八千円から五万円となっていたから相当な料亭のようで、僕にはまったく縁がない世界だが本は読める。
そこの亭主である著者が、創業者である祖父との思い出を織り交ぜながら料理に対する姿勢みたいなものを綴っている。
最初のほうに、祖父が著者にこういう質問をする。「人は生きるために食べるのか、それとも食べるために生きるのか。」 著者は、「それはきっと、人は食べないと死ぬからやっぱり生きるために食べるのではないか。」と答えるが、それに対して、「生きるために食べるのならそれは動物と同じじゃないか、寂しくなった時、うまいもん食べたいと思うんや。うれしい時、おいしいもん食べよと思うんや。だから人は食べるために生きるんやとわしは思うがな。」と答える。
この本のすべてはここから始まっている。料理はどうすれば美味しく食べられるのか、それを食べる側、作る側、両方からさりげなく書いている。料亭と家庭はまた違うだろうけれども、暖かいものは暖かいままで、冷たいものは冷たく。甘いものは甘く、辛いものは辛く。また素材をどう生かすか、食べてもらいやすい配置や雰囲気、タイミング、食べる側でもその作法や作る側への思いやりなどなど。すべてはお互いの呼吸の合わせ方なのである。
よく考えるとこれは料理だけに限ったことではない。人との関係のなかではすべてにおいてそういえるのではないだろうか。
ともすると、食べる側が偉くて食べてもらう側がいつもこびへつらっていなくてはならないのだみたいな風潮がある。食べることだけではない。僕は小売の世界で生きているけれども、そこにでも同じことが言えるのだと思うのは不遜なことだろうか。まあ、僕の立場も変なところにあるのでよけいにそう見えるのだが、僕が相手にするような人というのは、100%、「カッテヤッテルヒトサマニムカッテオマエタチハハムカウコトナノデキナイノダ。」的な態度の人たちばかりだ。
その祖父は、「料理人ほどよい仕事はない。好きな料理を作ってお金をもらえて、おまけに美味しかった、ありがとうとお礼まで言ってくれるのだから。」ともいっているけれども、僕はそんなことを一度も思ったことがない。今度、こういう人に聞いてみようかしら、「あなたはひょっとして生きるために食べる人なのですか?」と。「食事は燃料補給だ。」というような答えが返ってくるのだろうか?
人は悲しい生き物だ、多分に、他人を思いどおりにしたい。そうじゃないと自分がないがしろにされている気がするというような気持ちを持っている。じつはそういう気持ちを溶かしてくれるのが食べるということなのであろうが、悲しいかな、セ○ンイレ○ンの惣菜が家庭料理だと勘違いされている時代だ。唯一の望みも消えてしまったというところか。
しかし、あの会社のCMはいつ見ても違和感がある。
対極として著者は、土産土法がいいのだと書いている。意味はそのままで、その土地でとれたものはその土地で、そこの伝来の調理法で食するのがいちばんいいという意味だけれども、どこの誰が獲ってきてくれて、誰が作ってくれたかがわかるもの、それが人と人とのきれいな間合いを作っていくように思うのだ。
外食で美味しいものをたべることなどはめったにないけれども、まあ、釣ってきた魚と叔父さんの家からもらう野菜をいつも食べることができるというのはまさしく土産土法である。春には山菜も食べることができる。これはこれでいいのかもしれない。
そんなことを考えていると、休日にはなんだか食べるための行動しかしていないような感じがしてくる。スポーツをするでもなく、観光地に行くでもなく、心の安らぎのために芸術に浸るわけでもない・・・。
たしかに食べるために生きている・・・・。
「隠し包丁」というタイトルであるけれども料理のコツのようなものはほぼ出てこない。その心はきっと、隠し包丁を入れるように相手に気遣いをしながら生きなさいということなのであろう。
筆者は、「つきじ田村」という料亭の3代目。ホームページで検索してみると、コース料理のお値段が、八千円から五万円となっていたから相当な料亭のようで、僕にはまったく縁がない世界だが本は読める。
そこの亭主である著者が、創業者である祖父との思い出を織り交ぜながら料理に対する姿勢みたいなものを綴っている。
最初のほうに、祖父が著者にこういう質問をする。「人は生きるために食べるのか、それとも食べるために生きるのか。」 著者は、「それはきっと、人は食べないと死ぬからやっぱり生きるために食べるのではないか。」と答えるが、それに対して、「生きるために食べるのならそれは動物と同じじゃないか、寂しくなった時、うまいもん食べたいと思うんや。うれしい時、おいしいもん食べよと思うんや。だから人は食べるために生きるんやとわしは思うがな。」と答える。
この本のすべてはここから始まっている。料理はどうすれば美味しく食べられるのか、それを食べる側、作る側、両方からさりげなく書いている。料亭と家庭はまた違うだろうけれども、暖かいものは暖かいままで、冷たいものは冷たく。甘いものは甘く、辛いものは辛く。また素材をどう生かすか、食べてもらいやすい配置や雰囲気、タイミング、食べる側でもその作法や作る側への思いやりなどなど。すべてはお互いの呼吸の合わせ方なのである。
よく考えるとこれは料理だけに限ったことではない。人との関係のなかではすべてにおいてそういえるのではないだろうか。
ともすると、食べる側が偉くて食べてもらう側がいつもこびへつらっていなくてはならないのだみたいな風潮がある。食べることだけではない。僕は小売の世界で生きているけれども、そこにでも同じことが言えるのだと思うのは不遜なことだろうか。まあ、僕の立場も変なところにあるのでよけいにそう見えるのだが、僕が相手にするような人というのは、100%、「カッテヤッテルヒトサマニムカッテオマエタチハハムカウコトナノデキナイノダ。」的な態度の人たちばかりだ。
その祖父は、「料理人ほどよい仕事はない。好きな料理を作ってお金をもらえて、おまけに美味しかった、ありがとうとお礼まで言ってくれるのだから。」ともいっているけれども、僕はそんなことを一度も思ったことがない。今度、こういう人に聞いてみようかしら、「あなたはひょっとして生きるために食べる人なのですか?」と。「食事は燃料補給だ。」というような答えが返ってくるのだろうか?
人は悲しい生き物だ、多分に、他人を思いどおりにしたい。そうじゃないと自分がないがしろにされている気がするというような気持ちを持っている。じつはそういう気持ちを溶かしてくれるのが食べるということなのであろうが、悲しいかな、セ○ンイレ○ンの惣菜が家庭料理だと勘違いされている時代だ。唯一の望みも消えてしまったというところか。
しかし、あの会社のCMはいつ見ても違和感がある。
対極として著者は、土産土法がいいのだと書いている。意味はそのままで、その土地でとれたものはその土地で、そこの伝来の調理法で食するのがいちばんいいという意味だけれども、どこの誰が獲ってきてくれて、誰が作ってくれたかがわかるもの、それが人と人とのきれいな間合いを作っていくように思うのだ。
外食で美味しいものをたべることなどはめったにないけれども、まあ、釣ってきた魚と叔父さんの家からもらう野菜をいつも食べることができるというのはまさしく土産土法である。春には山菜も食べることができる。これはこれでいいのかもしれない。
そんなことを考えていると、休日にはなんだか食べるための行動しかしていないような感じがしてくる。スポーツをするでもなく、観光地に行くでもなく、心の安らぎのために芸術に浸るわけでもない・・・。
たしかに食べるために生きている・・・・。
「隠し包丁」というタイトルであるけれども料理のコツのようなものはほぼ出てこない。その心はきっと、隠し包丁を入れるように相手に気遣いをしながら生きなさいということなのであろう。