浜本龍蔵「Tengu 天狗」読了
和歌山県日高郡由良町に興国寺というお寺がある。臨済宗妙心寺派の総本山であるが、金山寺味噌の発祥の地というほうが有名である。金山寺味噌から漏れてきた汁が醤油の元になっているのだから、醤油の発祥の地ともいえるかもしれない。そして、時代劇に暗殺者なんかのコスチュームで登場する虚無僧もこのお寺が発祥だそうだ。
もう、2年ほど前になるけれども、先代のイレグイ号のラストランのときの折り返し地点がこのお寺だった。このお寺のことは知っていたけれども、あのときはじめて訪ねることとなった。
そして、金堂の横に大きな天狗の顔を祀ったお堂があったのを覚えていた。天狗様のお顔があまりにもリアルなのでなんだか由緒正しきものを感じなかったのだが、この本を読んだ後で調べてみると、このお寺には“天狗伝説”というものがあって、秀吉の紀州攻めのときに荒廃してしまったお寺のお堂を一夜にして天狗がやってのけたというのがその伝説である。
多分、著者はその伝説にインスピレーションを得てこの小説を書き始めたのであろう。その天狗というのが白崎海岸に流れ着いたイギリス人であった。というのがこの物語の中心である。
どうやってそこまでたどり着いたか、そしてもうひとり仲間がいるのだが、その仲間とどうやって再び出会うことになったのかというのはここでは書かないでおこう。
図書館では郷土資料の書架に入っていたのだが、パラパラめくってみると外国人の名前が出てきたので、よくある、東南アジアの植民地からやってきた外国人が戦国時代に大活躍するというような内容なのかと思いながら借りたのであるがそれとはかなり趣が違っていた。
主人公が何かを成し遂げるというような物語ではなく、運命を受け止めながら生きていくという勇ましさも何もないところがこの小説のいいところのように思う。
著者はサラリーマンをしながら小説を書いている人らしい。そんな夢のない世界(そう思っているのは僕だけかもしれないが・・)で生きているからこそ、素直に運命を受け止めるというようなシチュエーションのドラマを描くことができたのではないかとそんな思いがよぎった。
そういう生活の中では取材時間もそう取れるわけではなかったのかもしれないが、物語の中ではどうもそれはおかしいと思える部分が数か所あった。
いくつか挙げると、
・あの地方の方言で、「海から上がっただか?」という、“だか?”といういい方があったのだろうか。
・雑賀衆の宗派が根来寺の真言宗(新義真言宗)だと言っているのは雑賀衆のなかにもそんな人がいたとしてもあきらかに主流ではなかったのではなかろうか。
・登場人物のひとりが高野山の天台密教の僧に入門したことになっているが、それはきっと真言宗の間違いだろう。
・主人公たちは紀伊山地を逃げ延びてゆくのだが、そのルートの中に西に天川村を見て東に高野山を見ることができる場所というのが出てくるのだが、そんな場所は存在しないのではないのだろうか。
・あの当時、由良に温泉があったのだろうか?今はみちしおの湯というのがあるけれども。
などなど、まあ、物語自体が空想の物語だからそういうところはわざとそう書いているのかもしれないがそこはリアルに書いても誰も文句は言わなかったのではないだろうかなどと小さなツッコミを入れながら読み終わったのであった。
和歌山県日高郡由良町に興国寺というお寺がある。臨済宗妙心寺派の総本山であるが、金山寺味噌の発祥の地というほうが有名である。金山寺味噌から漏れてきた汁が醤油の元になっているのだから、醤油の発祥の地ともいえるかもしれない。そして、時代劇に暗殺者なんかのコスチュームで登場する虚無僧もこのお寺が発祥だそうだ。
もう、2年ほど前になるけれども、先代のイレグイ号のラストランのときの折り返し地点がこのお寺だった。このお寺のことは知っていたけれども、あのときはじめて訪ねることとなった。
そして、金堂の横に大きな天狗の顔を祀ったお堂があったのを覚えていた。天狗様のお顔があまりにもリアルなのでなんだか由緒正しきものを感じなかったのだが、この本を読んだ後で調べてみると、このお寺には“天狗伝説”というものがあって、秀吉の紀州攻めのときに荒廃してしまったお寺のお堂を一夜にして天狗がやってのけたというのがその伝説である。
多分、著者はその伝説にインスピレーションを得てこの小説を書き始めたのであろう。その天狗というのが白崎海岸に流れ着いたイギリス人であった。というのがこの物語の中心である。
どうやってそこまでたどり着いたか、そしてもうひとり仲間がいるのだが、その仲間とどうやって再び出会うことになったのかというのはここでは書かないでおこう。
図書館では郷土資料の書架に入っていたのだが、パラパラめくってみると外国人の名前が出てきたので、よくある、東南アジアの植民地からやってきた外国人が戦国時代に大活躍するというような内容なのかと思いながら借りたのであるがそれとはかなり趣が違っていた。
主人公が何かを成し遂げるというような物語ではなく、運命を受け止めながら生きていくという勇ましさも何もないところがこの小説のいいところのように思う。
著者はサラリーマンをしながら小説を書いている人らしい。そんな夢のない世界(そう思っているのは僕だけかもしれないが・・)で生きているからこそ、素直に運命を受け止めるというようなシチュエーションのドラマを描くことができたのではないかとそんな思いがよぎった。
そういう生活の中では取材時間もそう取れるわけではなかったのかもしれないが、物語の中ではどうもそれはおかしいと思える部分が数か所あった。
いくつか挙げると、
・あの地方の方言で、「海から上がっただか?」という、“だか?”といういい方があったのだろうか。
・雑賀衆の宗派が根来寺の真言宗(新義真言宗)だと言っているのは雑賀衆のなかにもそんな人がいたとしてもあきらかに主流ではなかったのではなかろうか。
・登場人物のひとりが高野山の天台密教の僧に入門したことになっているが、それはきっと真言宗の間違いだろう。
・主人公たちは紀伊山地を逃げ延びてゆくのだが、そのルートの中に西に天川村を見て東に高野山を見ることができる場所というのが出てくるのだが、そんな場所は存在しないのではないのだろうか。
・あの当時、由良に温泉があったのだろうか?今はみちしおの湯というのがあるけれども。
などなど、まあ、物語自体が空想の物語だからそういうところはわざとそう書いているのかもしれないがそこはリアルに書いても誰も文句は言わなかったのではないだろうかなどと小さなツッコミを入れながら読み終わったのであった。