由良弥生 「眠れないほど面白い 空海の生涯: 1200年前の巨人の日常が甦る!」読了
連休中に高野山へ行こうと考えていたのでその前に、空海についての本を2冊借りていた。1冊は梅原猛先生の著作で、もう1冊はこの本であった。梅原先生の本は硬派だが、こっちはタイトルが軟派な感じだったのでまあ、対照的な本を読んでみようという考えであった。
軟派なタイトルだが、僕みたいな知識のない人間にはよくわかる構成と解説であった。ひとつはかなりの文字にルビをふってくれていたこと、ひとつはよくわからない語句が出てくるたびにすぐに本文中で解説を入れてくれていたことが大きい。それに著者は、素人はこういうことがきっとわからないのだろうなというツボをよくわかってくれているようだ。
構成は小説仕立てになっており、当時の社会背景、とくに天皇家にまつわる出来事が空海の布教活動にどういった影響を及ぼしたか(どちらかというと、利用したかではあるが・・)ということを軸に書かれている。たしかに空海の生涯というと、ちょっと興味のあるひとならなんとなくあらましは知っているので新しく書こうとするとこんな切り口が必要なのだろう。
そして、重要な仮説として、一沙門が空海に教えたという、「虚空蔵求聞持法」について、その一沙門が女性であったとしている。
実際、記録の中にはその沙門がどんな人物であったかということは残っていないそうで、そこはどう想像しても小説仕立ての著作のなかでは自由なのだろうがあまりにも斬新だ。
真言宗が重要とする経典は3つある。ふたつは両界曼荼羅に象徴される、大日経と金剛頂経である。そしてもうひとつは理趣経である。これは、普通の仏教では禁じられている、愛欲を清浄なものであるとするもので、文章だけを読んでいるとそうとうエロチックでそんなことまでやっていいの?というものだが、真言宗の説く即身成仏という考えの源のひとつではないかとも思うのである。
著者は多分、そこのところを汲み取って女性を登場させたのだろうけれども、空海よりも5歳年上のその善導尼と生涯にわたり逢瀬を重ねながら修行を続けたとういう設定なのである。
空海が高野山に入ってから、善導尼は寺務所としていた慈尊院で近事女として空海を見守ったということになっているけれども、そこはちょっと無理がありそうだ。ここは空海の母上が暮らしたところとなっているからその人たちが同居していたとなると嫁と姑のいさかいがおこって空海も月に9回も来る気になれなかったのではないだろうか。と思うのは僕の心が荒んでいるからなのかもしれない。
普通、空海というと当然だが密教の象徴として清廉潔白、修行一筋というイメージでどんな本も書かれているし、お山に行けばこんなことを言うと袋叩きに遭いそうだけれども、確かに空海は遣唐使の一行として唐に渡った時も普通なら認められないところを巧みに策を弄し、20年の年季をたった2年で帰ってくるという強引なこともやっている。
高野山の創建や都での布教のためには権力者を利用したというところもある。
そういうことを考えると、そうとう策略家でもあり、自分の欲望には素直に従うという面もわかるような気がする。もちろん、それは真言密教を広めて衆生を救済するという目的なのであるが、愛欲の面にも素直に従ったというのもあながち荒唐無稽な設定とも言えないのではないだろうか。
そういう意味では、小説としては完全ではないが空海を非常に人間的な人として描いている。うれしいことには喜びをあらわにし、悲しいことに出会うととことん悲しむ。裏表のない人柄がたくさんの人を引き付けて大事業を成し遂げた。それはそれで空海の正しい見方なのかもしれないとなぜだか納得してしまった。
高野山では、空海が主人公の大河ドラマを誘致したいと考えているようで署名活動をやっていたけれども、こういう人間的な面をクローズアップすれば、舞台も四国、中国、京都、高野山と多彩だ。伝説というと全国にある。最澄との軋轢も物語としては興味深い。恋物語は当の真言宗から批判されるだろうし、一宗教の開祖が主人公では他の教団から反対されるだろうけれども、日本のお大師様だからみんな許してはくれないだろうか・・。僕は見てみたい。
空海役は誰がいいだろうか。あんまり思い浮かばないが、生きていたら三浦春馬だろうか・・。
最後にこの本で知ったあらたな知識をまとめておきたい。
高雄山寺
空海が東寺を賜るまで京都での真言密教の拠点となったところであるが、もとは和気清麻呂が奉行として建立した。その後、最澄が灌頂壇を作ったから最澄専用の居住用の部屋もあったらしい。空海が唐から戻り入京を許されたときここに住まうことになった。高野山と東寺に拠点が移ったあとも空海が別当として管理した。
金剛峯寺の名前の由来
「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」という経典から取られている。
瑜伽とは心を統一することによって絶対者(大日如来)と融合してひとつになった境地で、瑜祇とはその修行をするものを意味し、大日如来と一体となるための修行を積む者たちが暮らす場所という意味。
三密と三業
大日経に説明されている。三業とは人間の身体の行為である身業(動作)、言語表現である口業(言葉)、心のはたらきである意業(意思)の三つの行為のこと。三密とは仏の身(身体)、口(言葉)、意(心)によって行われる三つの行為のこと。
人間の三業は仏の三密そのものであるから即身成仏できるというのが大日経である。そしてそれは胎蔵界を表す。
しかし、それは人間の理解を超えているから修行を積まなければそのつながりを感じることができない。
金剛頂経
「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(こんごうちょうゆがいっさいにょらいしんじつしょうだいじょうげんしょうだいきょうおうきょう)」という。即身成仏するための修法を説いている実践のための経典である。
泰範
もともとは最澄の愛弟子であったが最澄から密教の修行のために空海の元にきた。最澄は相当溺愛してたようだがそのまま空海の弟子となり最澄の元にはもどらなかったために空海と最澄の断絶のきっかけを作ったひとだ。しかし、意外と最初から最澄と距離をとっていたとこの本には書かれていた。理由は書かれていないが、他の資料では比叡山での人間関係が原因であったらしい。最澄が思っているほど泰範は最澄のことを慕っていなかったのだとしたらちょっと悲しい。
両部不二
密教は金剛界と胎蔵界の二つの世界観で構成されているが、空海の師である恵果はそのふたつを統合する教えを作り出した。これが真言密教につながるあたらしい密教観となってゆく。
連休中に高野山へ行こうと考えていたのでその前に、空海についての本を2冊借りていた。1冊は梅原猛先生の著作で、もう1冊はこの本であった。梅原先生の本は硬派だが、こっちはタイトルが軟派な感じだったのでまあ、対照的な本を読んでみようという考えであった。
軟派なタイトルだが、僕みたいな知識のない人間にはよくわかる構成と解説であった。ひとつはかなりの文字にルビをふってくれていたこと、ひとつはよくわからない語句が出てくるたびにすぐに本文中で解説を入れてくれていたことが大きい。それに著者は、素人はこういうことがきっとわからないのだろうなというツボをよくわかってくれているようだ。
構成は小説仕立てになっており、当時の社会背景、とくに天皇家にまつわる出来事が空海の布教活動にどういった影響を及ぼしたか(どちらかというと、利用したかではあるが・・)ということを軸に書かれている。たしかに空海の生涯というと、ちょっと興味のあるひとならなんとなくあらましは知っているので新しく書こうとするとこんな切り口が必要なのだろう。
そして、重要な仮説として、一沙門が空海に教えたという、「虚空蔵求聞持法」について、その一沙門が女性であったとしている。
実際、記録の中にはその沙門がどんな人物であったかということは残っていないそうで、そこはどう想像しても小説仕立ての著作のなかでは自由なのだろうがあまりにも斬新だ。
真言宗が重要とする経典は3つある。ふたつは両界曼荼羅に象徴される、大日経と金剛頂経である。そしてもうひとつは理趣経である。これは、普通の仏教では禁じられている、愛欲を清浄なものであるとするもので、文章だけを読んでいるとそうとうエロチックでそんなことまでやっていいの?というものだが、真言宗の説く即身成仏という考えの源のひとつではないかとも思うのである。
著者は多分、そこのところを汲み取って女性を登場させたのだろうけれども、空海よりも5歳年上のその善導尼と生涯にわたり逢瀬を重ねながら修行を続けたとういう設定なのである。
空海が高野山に入ってから、善導尼は寺務所としていた慈尊院で近事女として空海を見守ったということになっているけれども、そこはちょっと無理がありそうだ。ここは空海の母上が暮らしたところとなっているからその人たちが同居していたとなると嫁と姑のいさかいがおこって空海も月に9回も来る気になれなかったのではないだろうか。と思うのは僕の心が荒んでいるからなのかもしれない。
普通、空海というと当然だが密教の象徴として清廉潔白、修行一筋というイメージでどんな本も書かれているし、お山に行けばこんなことを言うと袋叩きに遭いそうだけれども、確かに空海は遣唐使の一行として唐に渡った時も普通なら認められないところを巧みに策を弄し、20年の年季をたった2年で帰ってくるという強引なこともやっている。
高野山の創建や都での布教のためには権力者を利用したというところもある。
そういうことを考えると、そうとう策略家でもあり、自分の欲望には素直に従うという面もわかるような気がする。もちろん、それは真言密教を広めて衆生を救済するという目的なのであるが、愛欲の面にも素直に従ったというのもあながち荒唐無稽な設定とも言えないのではないだろうか。
そういう意味では、小説としては完全ではないが空海を非常に人間的な人として描いている。うれしいことには喜びをあらわにし、悲しいことに出会うととことん悲しむ。裏表のない人柄がたくさんの人を引き付けて大事業を成し遂げた。それはそれで空海の正しい見方なのかもしれないとなぜだか納得してしまった。
高野山では、空海が主人公の大河ドラマを誘致したいと考えているようで署名活動をやっていたけれども、こういう人間的な面をクローズアップすれば、舞台も四国、中国、京都、高野山と多彩だ。伝説というと全国にある。最澄との軋轢も物語としては興味深い。恋物語は当の真言宗から批判されるだろうし、一宗教の開祖が主人公では他の教団から反対されるだろうけれども、日本のお大師様だからみんな許してはくれないだろうか・・。僕は見てみたい。
空海役は誰がいいだろうか。あんまり思い浮かばないが、生きていたら三浦春馬だろうか・・。
最後にこの本で知ったあらたな知識をまとめておきたい。
高雄山寺
空海が東寺を賜るまで京都での真言密教の拠点となったところであるが、もとは和気清麻呂が奉行として建立した。その後、最澄が灌頂壇を作ったから最澄専用の居住用の部屋もあったらしい。空海が唐から戻り入京を許されたときここに住まうことになった。高野山と東寺に拠点が移ったあとも空海が別当として管理した。
金剛峯寺の名前の由来
「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」という経典から取られている。
瑜伽とは心を統一することによって絶対者(大日如来)と融合してひとつになった境地で、瑜祇とはその修行をするものを意味し、大日如来と一体となるための修行を積む者たちが暮らす場所という意味。
三密と三業
大日経に説明されている。三業とは人間の身体の行為である身業(動作)、言語表現である口業(言葉)、心のはたらきである意業(意思)の三つの行為のこと。三密とは仏の身(身体)、口(言葉)、意(心)によって行われる三つの行為のこと。
人間の三業は仏の三密そのものであるから即身成仏できるというのが大日経である。そしてそれは胎蔵界を表す。
しかし、それは人間の理解を超えているから修行を積まなければそのつながりを感じることができない。
金剛頂経
「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(こんごうちょうゆがいっさいにょらいしんじつしょうだいじょうげんしょうだいきょうおうきょう)」という。即身成仏するための修法を説いている実践のための経典である。
泰範
もともとは最澄の愛弟子であったが最澄から密教の修行のために空海の元にきた。最澄は相当溺愛してたようだがそのまま空海の弟子となり最澄の元にはもどらなかったために空海と最澄の断絶のきっかけを作ったひとだ。しかし、意外と最初から最澄と距離をとっていたとこの本には書かれていた。理由は書かれていないが、他の資料では比叡山での人間関係が原因であったらしい。最澄が思っているほど泰範は最澄のことを慕っていなかったのだとしたらちょっと悲しい。
両部不二
密教は金剛界と胎蔵界の二つの世界観で構成されているが、空海の師である恵果はそのふたつを統合する教えを作り出した。これが真言密教につながるあたらしい密教観となってゆく。