守屋淳 「『論語』がわかれば日本がわかる」読了
以前に読んだ本の中で、司馬遼太郎が、「日本人の思想はすべて外国からもたらされたものだ。そのほとんどが論語から来ている。」と書かれていて、そのことが気になってこんな本を探してみた。
中国や韓国は儒家思想の影響が強いというのはよく聞くし、日本もその流れかどうかは知らないが儒教の思想が根強いと言われている。断片的な知識しか持っていないが、確かにそんな気がする。
孔子と釈迦が生きた時代というのは一説ではかなりダブっていたと言われる。日本にも仏教と同時に入ってきてはいたらしいが、孔子や孟子、荀子といった思想には死に対する考え方や個人にふりかかる理不尽な運命に対する説明がなされなかったという面があり、日本では儒教が受け入れられることなく仏教が日本の信仰や学術の支柱となっていった。
だから、日本では仏教を基にした思想や文化が1000年以上も続いてきたわけで、そこにどうして儒教の思想が割って入ってきたのかということは確かに疑問だ。
この本にはそういったことが、なるほど、そうだったのかという形で書かれている。また、その儒教の思想が日本人の心情にどのように植えつけられて現在に至っているかということも詳しく書かれている。
こういうことを読んでいると、まあ、なんだか、僕自身も僕の人生がこうなったというのは仕方がないのだと諦めなのか、日本人に生まれた定めなのかよくわからないが、こんなものだと納得してしまうのである。
日本に論語が広まったのは江戸時代の檀家制度が原因だった。江戸幕府が開かれるまで、それまでの戦国時代を通して仏教徒たちの一揆に大名たちは手を焼いていた。それを何とかしようと徳川家康が考えたのが檀家制度だった。各寺に檀家をくっ付けて寺の経済的な基盤を与える代わりに幕府に反抗するのはやめておけというのがそのやり方だった。
その政策は成功し、寺は積極的な布教活動を止め、ドラスティックな新しい宗派も出ては来なくなった。端的にいうと腑抜けになったのである。
しかし、国家としては腑抜けになった仏教の代わりになる新たな精神的な支柱が必要になった。日本人は1000年近くも仏教の思想の元に生きてきたのだから同じように日本人を支えてくれる思想が必要であったのである。
そこで目をつけられたのが儒教であった。
一方、儒教の思想の根本は、争いをせずに国を治める方法はないだろうかということを常に考えているということなのだが、それが江戸幕府にとっても好都合であった。孔子の生没年は紀元前551年~479年と言われている。(ちなみに釈迦の生没年は早い時期の説では紀元前565年~486年)この時代というのは中国の春秋時代の末期にあたる。孔子にとっては戦乱の時代の中、『悲惨な戦乱や下剋上がこれ以上進まないようにし、平和で安定した秩序を打ち立てるにはどうしたらよいか。』というのが最大の問題意識であった。孔子はその手本として比較的うまくいっていた周王朝初期の政治体制揚げていた。特に尊敬していたのは孔子が活躍する時代の500年も前の周公旦であった。だから、孔子の思想の原点は「過去の良きものにこそ手本がある。」という比較的保守的な考え方ではあったけれども、「戦乱状態だからこそ求められた平和な秩序の構築や維持」「礼にもとづいた上下関係の中での和の構築」といった価値観は、日本でも戦国の世の中の後、戦いや争いのない時代を維持したいという願いとマッチしたのである。
孔子の教えを今風に書き換えて列挙してゆくと、
① 年齢や年次による上下関係や序列のある関係や組織を当たり前だと思う。
② 生まれつきの能力に差はない。努力やそれを支える精神力で差はつく。
③ 性善説で物事を考える。
④ 秩序やルールは自分たちで作るものというより、上から与えられるものである。
⑤ 社長らしさ、課長らしさ、学生らしさ、先生らしさ、裁判官らしさなど、与えられた役割に即した「らしさ」や「分(役割分担と責任)」を果たすのがなによりいいことである。
⑥ ホンネとタテマエを使い分けるのが当たり前と思う。
⑦ 理想の組織を「家族」との類推で考えている。
⑧ 組織や集団内で、下の立場の「義務」や「努力」が強調されやすい。
ただ、論語というのは孔子が自ら書いたものではなく、孔子が語ったと言われるものを弟子や後世の人たちがまとめたもので、その解釈は無数にある。江戸時代以降、日本でもその時代の統治の手法に合うような形である意味解釈を歪めて使っていたということは否めない。
江戸時代では、「いかに人々に夢を見させないで安定した体制を作るか」というために、①や④の考え方が論語の中に書かれている文章から拾い出されたのである。ある意味、人民を骨抜きにしてしまおうというのであった。
明治になっても、同じような施策は続き、天皇を頂点とした家族的国家、子供は親の言うことに絶対服従しなければならないのだという国家体制を築こうとした。学校制が始まるとその教育段階からこういった精神を植え付けてきた。
そういう教育を受けてきた子供たちは社会人になっても①から⑧のような考え方がしみ込んでいる。それが日本人らしさを作り出しているというのである。
論語は無数の解釈ができるというので、著者自身も著者なりの解釈をしているのだろうが、論語の内容を脇に置いておいても、確かに①から⑧の考え方というのは日本人らしい。
著者は特にホンネとタテマエというのが最も特徴的な日本人の行動様式だという。アメリカとの比較でそれが説明されているのだが、こういう違いがあるということだ。
何か問題がおこったとき、誠意を見せるということは日本企業では、「事情が判明していなくても、まずは謝罪する。」こと、アメリカの企業では、「まずはきちんと原因を究明し、対策を立てること。」であると考える。僕も会社では、とにかく謝れと指導されてきた。なぜ謝るのかというと、「お客様を怒らせたことに対してまずは謝れ。」という今思うとなんだかよくわからない根拠のものであった。
諦めていながらも、そういった会社の方針に反して、客の理不尽な要求は断固として拒否すべきだと言っていたら、自分自身が拒否されるということになってしまうのが儒教の精神を背負った会社組織なのである。
論語の中には、「和して同ぜず」という言葉があるが、これも解釈を歪められて、日本ではうわべだけ合わせておけばいいのだというようになり、それがタテマエとなっていったのである。
また、アメリカの企業は経営理念をものすごく大切にする。企業人としての行動はすべて経営理念に即しているかどうかで決められる。自分がその企業の経営理念に従えないと思えば会社を去ることになる。しかし、日本では経営理念はあくまでタテマエで、大概の人は自分が勤めている会社の経営理念を覚えていない。それよりもなんとなく結びついて「和」や「同」を作り定年までなだれ込もうという考えだ。自分は何ができるというよりも、仕事は上から与えられるもので、これをやれと言われれば本意でなくても唯々諾々とそれをやる。それが終身雇用につながっていったというのだ。
もうひとつ面白いのが、論語では「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」というが、新約聖書マタイによる福音書 7章12節では、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と書かれている。よく似た意味の言葉に見えるが、確かに日本人とアメリカ人の違いを如実に表しているような気がする。僕もグァム島で確かにそういう体験をした。
そうした、人の文化的背景は、遅くとも14.15歳までにどのような文化や環境に置かれていたかで決まるという。ならば日本人はやっぱり儒教的な文化的背景を背負って今を生きているといえるのかもしれない。
日本では道徳というのが教科として扱われるようになったそうだが、何を拠り所にしてどんな教育が行われているのだろうか。新渡戸稲造は外国人に日本に宗教教育が無いことをして,どのように道徳教育を行っているのかと問われ回答に苦慮したと言われるが、今でもそんな感じなのだろうか・・。
著者は最後に、「リベラルアーツ」という言葉を引き出している。簡単にいうと一般教養というような意味だが、人がリベラルアーツを学ぶ意味というのは、『自分を無意識に縛るものを知り、そこから自由になる。』ことができるようになるためであるという。論語を知るというのもそのひとつであるというのである。
僕もそれを知りたくて本を読むのだが、今だその答えは出てこない。死ぬまでにあと何冊の本を読むことができるのかは知らないが、最後の最後にはその答えを得たいと願っている・・。
以前に読んだ本の中で、司馬遼太郎が、「日本人の思想はすべて外国からもたらされたものだ。そのほとんどが論語から来ている。」と書かれていて、そのことが気になってこんな本を探してみた。
中国や韓国は儒家思想の影響が強いというのはよく聞くし、日本もその流れかどうかは知らないが儒教の思想が根強いと言われている。断片的な知識しか持っていないが、確かにそんな気がする。
孔子と釈迦が生きた時代というのは一説ではかなりダブっていたと言われる。日本にも仏教と同時に入ってきてはいたらしいが、孔子や孟子、荀子といった思想には死に対する考え方や個人にふりかかる理不尽な運命に対する説明がなされなかったという面があり、日本では儒教が受け入れられることなく仏教が日本の信仰や学術の支柱となっていった。
だから、日本では仏教を基にした思想や文化が1000年以上も続いてきたわけで、そこにどうして儒教の思想が割って入ってきたのかということは確かに疑問だ。
この本にはそういったことが、なるほど、そうだったのかという形で書かれている。また、その儒教の思想が日本人の心情にどのように植えつけられて現在に至っているかということも詳しく書かれている。
こういうことを読んでいると、まあ、なんだか、僕自身も僕の人生がこうなったというのは仕方がないのだと諦めなのか、日本人に生まれた定めなのかよくわからないが、こんなものだと納得してしまうのである。
日本に論語が広まったのは江戸時代の檀家制度が原因だった。江戸幕府が開かれるまで、それまでの戦国時代を通して仏教徒たちの一揆に大名たちは手を焼いていた。それを何とかしようと徳川家康が考えたのが檀家制度だった。各寺に檀家をくっ付けて寺の経済的な基盤を与える代わりに幕府に反抗するのはやめておけというのがそのやり方だった。
その政策は成功し、寺は積極的な布教活動を止め、ドラスティックな新しい宗派も出ては来なくなった。端的にいうと腑抜けになったのである。
しかし、国家としては腑抜けになった仏教の代わりになる新たな精神的な支柱が必要になった。日本人は1000年近くも仏教の思想の元に生きてきたのだから同じように日本人を支えてくれる思想が必要であったのである。
そこで目をつけられたのが儒教であった。
一方、儒教の思想の根本は、争いをせずに国を治める方法はないだろうかということを常に考えているということなのだが、それが江戸幕府にとっても好都合であった。孔子の生没年は紀元前551年~479年と言われている。(ちなみに釈迦の生没年は早い時期の説では紀元前565年~486年)この時代というのは中国の春秋時代の末期にあたる。孔子にとっては戦乱の時代の中、『悲惨な戦乱や下剋上がこれ以上進まないようにし、平和で安定した秩序を打ち立てるにはどうしたらよいか。』というのが最大の問題意識であった。孔子はその手本として比較的うまくいっていた周王朝初期の政治体制揚げていた。特に尊敬していたのは孔子が活躍する時代の500年も前の周公旦であった。だから、孔子の思想の原点は「過去の良きものにこそ手本がある。」という比較的保守的な考え方ではあったけれども、「戦乱状態だからこそ求められた平和な秩序の構築や維持」「礼にもとづいた上下関係の中での和の構築」といった価値観は、日本でも戦国の世の中の後、戦いや争いのない時代を維持したいという願いとマッチしたのである。
孔子の教えを今風に書き換えて列挙してゆくと、
① 年齢や年次による上下関係や序列のある関係や組織を当たり前だと思う。
② 生まれつきの能力に差はない。努力やそれを支える精神力で差はつく。
③ 性善説で物事を考える。
④ 秩序やルールは自分たちで作るものというより、上から与えられるものである。
⑤ 社長らしさ、課長らしさ、学生らしさ、先生らしさ、裁判官らしさなど、与えられた役割に即した「らしさ」や「分(役割分担と責任)」を果たすのがなによりいいことである。
⑥ ホンネとタテマエを使い分けるのが当たり前と思う。
⑦ 理想の組織を「家族」との類推で考えている。
⑧ 組織や集団内で、下の立場の「義務」や「努力」が強調されやすい。
ただ、論語というのは孔子が自ら書いたものではなく、孔子が語ったと言われるものを弟子や後世の人たちがまとめたもので、その解釈は無数にある。江戸時代以降、日本でもその時代の統治の手法に合うような形である意味解釈を歪めて使っていたということは否めない。
江戸時代では、「いかに人々に夢を見させないで安定した体制を作るか」というために、①や④の考え方が論語の中に書かれている文章から拾い出されたのである。ある意味、人民を骨抜きにしてしまおうというのであった。
明治になっても、同じような施策は続き、天皇を頂点とした家族的国家、子供は親の言うことに絶対服従しなければならないのだという国家体制を築こうとした。学校制が始まるとその教育段階からこういった精神を植え付けてきた。
そういう教育を受けてきた子供たちは社会人になっても①から⑧のような考え方がしみ込んでいる。それが日本人らしさを作り出しているというのである。
論語は無数の解釈ができるというので、著者自身も著者なりの解釈をしているのだろうが、論語の内容を脇に置いておいても、確かに①から⑧の考え方というのは日本人らしい。
著者は特にホンネとタテマエというのが最も特徴的な日本人の行動様式だという。アメリカとの比較でそれが説明されているのだが、こういう違いがあるということだ。
何か問題がおこったとき、誠意を見せるということは日本企業では、「事情が判明していなくても、まずは謝罪する。」こと、アメリカの企業では、「まずはきちんと原因を究明し、対策を立てること。」であると考える。僕も会社では、とにかく謝れと指導されてきた。なぜ謝るのかというと、「お客様を怒らせたことに対してまずは謝れ。」という今思うとなんだかよくわからない根拠のものであった。
諦めていながらも、そういった会社の方針に反して、客の理不尽な要求は断固として拒否すべきだと言っていたら、自分自身が拒否されるということになってしまうのが儒教の精神を背負った会社組織なのである。
論語の中には、「和して同ぜず」という言葉があるが、これも解釈を歪められて、日本ではうわべだけ合わせておけばいいのだというようになり、それがタテマエとなっていったのである。
また、アメリカの企業は経営理念をものすごく大切にする。企業人としての行動はすべて経営理念に即しているかどうかで決められる。自分がその企業の経営理念に従えないと思えば会社を去ることになる。しかし、日本では経営理念はあくまでタテマエで、大概の人は自分が勤めている会社の経営理念を覚えていない。それよりもなんとなく結びついて「和」や「同」を作り定年までなだれ込もうという考えだ。自分は何ができるというよりも、仕事は上から与えられるもので、これをやれと言われれば本意でなくても唯々諾々とそれをやる。それが終身雇用につながっていったというのだ。
もうひとつ面白いのが、論語では「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」というが、新約聖書マタイによる福音書 7章12節では、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と書かれている。よく似た意味の言葉に見えるが、確かに日本人とアメリカ人の違いを如実に表しているような気がする。僕もグァム島で確かにそういう体験をした。
そうした、人の文化的背景は、遅くとも14.15歳までにどのような文化や環境に置かれていたかで決まるという。ならば日本人はやっぱり儒教的な文化的背景を背負って今を生きているといえるのかもしれない。
日本では道徳というのが教科として扱われるようになったそうだが、何を拠り所にしてどんな教育が行われているのだろうか。新渡戸稲造は外国人に日本に宗教教育が無いことをして,どのように道徳教育を行っているのかと問われ回答に苦慮したと言われるが、今でもそんな感じなのだろうか・・。
著者は最後に、「リベラルアーツ」という言葉を引き出している。簡単にいうと一般教養というような意味だが、人がリベラルアーツを学ぶ意味というのは、『自分を無意識に縛るものを知り、そこから自由になる。』ことができるようになるためであるという。論語を知るというのもそのひとつであるというのである。
僕もそれを知りたくて本を読むのだが、今だその答えは出てこない。死ぬまでにあと何冊の本を読むことができるのかは知らないが、最後の最後にはその答えを得たいと願っている・・。