真銅正宏 「匂いと香りの文学誌」読了
バーチャルリアリティーの世界では、嗅覚の再現というのが一番難しいそうだ。それは文学の世界でも同じで、臭い(匂い)の表現は難しい。嗅覚の影響が強い味覚の表現もしかりで、師も味覚の表現ができれば一人前だと語っていた。
この本は、臭い(匂い)を文学はどう表現してきたか、文学の中での臭い(匂い)の役割はどういったものかということを論じている。
取り挙げられている題材は古く、大正時代や、昭和初期の作品ばかりだ。おまけに、この本の基になったものは、著者の博士論文だそうだ。凡人にはよくわからないというのは仕方がない。なんとか理解できそうな部分だけしか感想を書くことができない・・。
著者は冒頭、現代日本は臭わなくなったと書いている。たしかに、直近で読んだ2冊の本にも、印象に残る臭い(匂い)の場面というものはなかった。現代日本では臭いの描写というのは実感がなく、一般受けしないのかもしれないというのはもっともなことなのかもしれない。
しかし、著者は文学の中での臭い(匂い)の役割というのは「小説という虚構の世界はあくまでも読者の想像力によって構築されるものであり、極端に言うのであれば、嗅覚要素の再現がまったくなくても小説世界は成り立つ。だから、逆説的に嗅覚の再現(表現)というものは小説世界が虚構の世界であるということを強く主張するもの。」だと説明している。なるほど、確かにそうかもしれない。取り挙げられている著作はすべて読んだことのないものであったが、ギミックとして確かにそういったことに役立っていると思う。
この本では、異国の臭い、匂いと嫉妬、厠とこやしの臭いなどが取り挙げられているが、それほど外国に行ったこともなく、嫉妬するほど女性を愛したこともなく、厠の臭いは遠い記憶でしかないので、僕が小説を読みながらそのにおいを想像できないというのも無理はないのだ。木と雨と空気の匂いというのがやっと思い出せる項目だっただけだ。
そういうわけで、僕の個人的な見解では、臭いを想像することははなはだ困難なことだと思っている。
頭の中では臭い(匂い)を作り出せないのだ。いろいろなにおいの記憶はある。むしろにおいと記憶は直結していてにおいを嗅ぐと一瞬で何のにおいか、また、どこで嗅いだにおいか、その時何をしていたかということまで思い浮かぶ。視覚も聴覚も同じような記憶を呼び覚ましてはいるのだろうが、嗅覚の度合いがいちばん強いのではないかと思う。
それはどうしてだろうか?きっと嗅覚というのが一番至近距離でしか感じることのできない感覚でありそれはいろいろな意味において命に直結しているからであると思える。
危険に関しては、もう、目の前にそれが迫っているということであろうし、官能的な部分では、もう一押し、というか、もう、押し切ってウホウホで、子孫繁栄だ~!という状態であるのかもしれない。まあ、現実世界では、混んだ電車で隣り合わせたおねえちゃんからえもいわれぬいい匂いなんかしてきらたらこれは運がいいと思う程度なわけであるが・・。
僕の中で、においを連想するものがどれほどあるのかと頭のなかをまさぐってみた。
と、これが意外と少ないことがわかった。こんなことをしているときは何かをにおっているよなということがほとんどないのだ。
釣り関係ではアミエビの臭い、フカセ釣りの集魚剤の臭い、ヌカをいっぱい食べたチヌのはらわたの臭い。それくらいだろうか。まあ、臭いといえば臭い。
山菜採りではヤマウドを掘っているときの土の匂い。これはなぜだろうか、ものすごく安心する匂いである。それと、早朝の、水分をたっぷり含んだ空気の匂い。これを知らない人は死んでから後悔をするのではないかと思える匂いだ。
著者が言うように、現代日本は臭わなくなった。それは日本人が特に臭う(臭いほうの臭いを)ことを嫌った結果であり、僕の家族もその筆頭であるが、そういうのとは僕は相容れないのは確かである・・。
バーチャルリアリティーの世界では、嗅覚の再現というのが一番難しいそうだ。それは文学の世界でも同じで、臭い(匂い)の表現は難しい。嗅覚の影響が強い味覚の表現もしかりで、師も味覚の表現ができれば一人前だと語っていた。
この本は、臭い(匂い)を文学はどう表現してきたか、文学の中での臭い(匂い)の役割はどういったものかということを論じている。
取り挙げられている題材は古く、大正時代や、昭和初期の作品ばかりだ。おまけに、この本の基になったものは、著者の博士論文だそうだ。凡人にはよくわからないというのは仕方がない。なんとか理解できそうな部分だけしか感想を書くことができない・・。
著者は冒頭、現代日本は臭わなくなったと書いている。たしかに、直近で読んだ2冊の本にも、印象に残る臭い(匂い)の場面というものはなかった。現代日本では臭いの描写というのは実感がなく、一般受けしないのかもしれないというのはもっともなことなのかもしれない。
しかし、著者は文学の中での臭い(匂い)の役割というのは「小説という虚構の世界はあくまでも読者の想像力によって構築されるものであり、極端に言うのであれば、嗅覚要素の再現がまったくなくても小説世界は成り立つ。だから、逆説的に嗅覚の再現(表現)というものは小説世界が虚構の世界であるということを強く主張するもの。」だと説明している。なるほど、確かにそうかもしれない。取り挙げられている著作はすべて読んだことのないものであったが、ギミックとして確かにそういったことに役立っていると思う。
この本では、異国の臭い、匂いと嫉妬、厠とこやしの臭いなどが取り挙げられているが、それほど外国に行ったこともなく、嫉妬するほど女性を愛したこともなく、厠の臭いは遠い記憶でしかないので、僕が小説を読みながらそのにおいを想像できないというのも無理はないのだ。木と雨と空気の匂いというのがやっと思い出せる項目だっただけだ。
そういうわけで、僕の個人的な見解では、臭いを想像することははなはだ困難なことだと思っている。
頭の中では臭い(匂い)を作り出せないのだ。いろいろなにおいの記憶はある。むしろにおいと記憶は直結していてにおいを嗅ぐと一瞬で何のにおいか、また、どこで嗅いだにおいか、その時何をしていたかということまで思い浮かぶ。視覚も聴覚も同じような記憶を呼び覚ましてはいるのだろうが、嗅覚の度合いがいちばん強いのではないかと思う。
それはどうしてだろうか?きっと嗅覚というのが一番至近距離でしか感じることのできない感覚でありそれはいろいろな意味において命に直結しているからであると思える。
危険に関しては、もう、目の前にそれが迫っているということであろうし、官能的な部分では、もう一押し、というか、もう、押し切ってウホウホで、子孫繁栄だ~!という状態であるのかもしれない。まあ、現実世界では、混んだ電車で隣り合わせたおねえちゃんからえもいわれぬいい匂いなんかしてきらたらこれは運がいいと思う程度なわけであるが・・。
僕の中で、においを連想するものがどれほどあるのかと頭のなかをまさぐってみた。
と、これが意外と少ないことがわかった。こんなことをしているときは何かをにおっているよなということがほとんどないのだ。
釣り関係ではアミエビの臭い、フカセ釣りの集魚剤の臭い、ヌカをいっぱい食べたチヌのはらわたの臭い。それくらいだろうか。まあ、臭いといえば臭い。
山菜採りではヤマウドを掘っているときの土の匂い。これはなぜだろうか、ものすごく安心する匂いである。それと、早朝の、水分をたっぷり含んだ空気の匂い。これを知らない人は死んでから後悔をするのではないかと思える匂いだ。
著者が言うように、現代日本は臭わなくなった。それは日本人が特に臭う(臭いほうの臭いを)ことを嫌った結果であり、僕の家族もその筆頭であるが、そういうのとは僕は相容れないのは確かである・・。