太田 省一 『「笑っていいとも!」とその時代』読了
「笑っていいとも!」が終了して10年経ったそうだ。著者が言うには、『戦後日本、とりわけ戦後民主主義が持つ可能性を最も具現化した番組』であり、この番組を多面的に深堀りすることで戦後日本をとらえ直すことができるというのである。それはあまりにも大仰な話であるように思うが、確かにこの頃のテレビは面白かった。
「笑っていいとも!」は1982年10月に始まったそうだが、「オレたちひょうきん族」はその前年、そして1982年は中森明菜や小泉今日子たち、「花の82年組」のアイドルがデビューした年でもある。これだけ見てもこの時代の凄さがわかる。
僕は今でもテレビが点いていないと死にそうになる人間だが、この頃も受験生でありながらいっぱいテレビを観ていた。「ザ、ベストテン」はもとより、「突然ガバチョ」「久米宏のTVスクランブル」などなど。まあ、これだけテレビを見ていたら受験に失敗するはずだ。
それに比べて今のテレビは面白くない。民放のゴールデン帯の番組というとどの局を見ても同じようなバラエティー番組ばかりだ。これは面白いと思っても1年ほど観ていると飽きてくる。歌番組に出てくるアイドルも全員名前がわからない。日本人なのかどうかさえもわからなくなっている。
歳をとってきて時代の嗜好に合わなくなっているのも確かだがここは主観的な感想を書いても誰にも迷惑をかけないだろう。平日の民放の地上波はまったく見る気がしない。(笑点と鉄腕ダッシュはいつも見ているが、平日ではない・・。)
「笑っていいとも!」がスタートする前に放送していた番組は、「笑ってる場合ですよ!」だったが、これも面白くてなんで終わるのだろうと思っていたが、この本にはその真相が書かれていた。両方の番組のプロデューサーは横澤彪(ひょうきん懺悔室で牧師をしていた人)だったが、漫才ブームに乗った超人気者の出演者に対し、観客が何をやっても笑うようになり、そこには知性が感じられないという危機感を抱きこの番組を終わらせようと考えたそうだ。
横澤彪は笑いというものに対して、『笑いというのはパロディにしろナンセンスにしろ基本は凄く知的なもの』と考える人であった。そしてそうした知的な笑いを担えるのはタモリしかいないと考えていた。
「今夜は最高」という番組は「いいとも!」の1年前に始まっていたが、タモリが昼の番組に出てきたときにはオールナイトニッポンも必ず聞いていた僕も多くの人が思ったようにこの人はテレビでもラジオでも夜のタレントではないのかと思ったものだ。
しかし、やっぱりタモリという人は確かに普通のお笑いタレントとは違う知性を見せていたと思う。こんな思い出がある。「いいとも!」が始まった年、僕は浪人生活を送っていた。一応、予備校にも行っていたのだがなぜだかお昼は家でこの番組をよく見ていて、「試食の部屋(正確には、「タモリの試食の部屋」と言ったとこの本には書いていた。)」というコーナーに「あなたの番組は面白くない・・。」というような内容の投書をしたらそのまま採用されたのである。あんなネガティブな内容の投書を採用してくれるというのは知性とウイットに富んだタレントであるという証であるのだろう。まあ、投書に対する感想もウイットに富んでいるというか、お昼の番組で話すようなものではなく、「字が汚い。これでは来年も浪人するな・・。」というようなものであった。
それでも侮辱されたというような印象はなく、後年になってわざわざスタジオアルタを見学にいったほどである。それはきっとタモリの心の大きさのせいだったのである。
現在のテレビに対する世間の批評や当の出演者たちの批評ではコンプライアンスの基準が厳しくなって面白いことができなくなってしまったという意見が多いが、その前に、番組を作る人や出演している人たちに知性が無くなってしまったからなのではないなと僕は思っている。確かに、知性の表現の現れ方には他人を貶めたりするようなものもあるかもしれないが、別の表現の仕方もあるだろう。それができなくてどこかで観たことのある番組の焼き直しばかりをやっているようにしか見えないのである。もっとも、知性のある番組を作ったとしても、それを理解できるほどの知性が視聴者にも求められるはずであるがそれも怪しくなっているのが今の時代なのであろう。
著者は、タモリと「いいとも!」の特徴を、タモリの信条である、「自分の主義主張だとか、思想、建前をもって人と会わない。いつもフラットな気持ちで、無の状態で人と会えば、本当にわかり合える。」という言葉から分析する。
その司会の方法は、「仕切らない」「誰でも受け入れる」というところに特徴があったという。そしてそれが、「いいとも!」という広場的な空間を生み出し、誰でもが自由に入ってくることができ、また、出ていくことも自由な場となったのだと著者は考える。
1960年代から1980年代の終わりまで、高度経済成長がもたらした「一億総中流」意識が日本全体をある種壮大な「内輪」と化し、テレビにおける「笑い」とは結局は一定の範囲での内輪の笑いに過ぎずそれに気付かずに過ごせたということが“広場”の機能とマッチしたのである。テレビの中だけを見ていればみんな満足であったということだ。
コンプライアンスが厳しく言われるようになったのは、こうした疑似的な内輪の空間が大きく揺らぎ、亀裂が入ったこと、そこにモラルや法律、社会規範といったテレビの外側の視点が生まれたということがあったと分析しているのである。
たしかに、ジャニーズ問題などというのはきっとこういうことが表面に出てきたものと思うが、それはテレビ業界全体のことであり、「いいとも!」がそれを象徴しているのだというのはあまりにも極論だろうと思う。
「いいとも!」は何でもありの広場的な位置づけてあったのだけれども、インターネットが生み出した空間は「いいとも!」よりももっと広場的な空間でありそちらのほうが支持されてしまったことがテレビの衰退につながったのだとしたら、それは納得ができる結論であった。そうは書かれていなかったが・・。
2022年、タモリは、毎年の暮れの恒例である「徹子の部屋」への出演の時、来年はどんな年になるという黒柳徹子の質問に対して、「新しい戦前になる」と答えたそうだ。著者はその意味をこの本の内容に沿って、「戦後史における大きな存在であったこれまでのテレビが終わったのだ。」と解釈できるのではないかと書いているが、これはあまりにも無理なこじつけであると感じた。けっこうこういう感じの論調の部分が多く、そういう部分はかなり違和感が残った。
僕はむしろ、「あたらしい戦前」というのは、ナショナリズムの台頭や体制の違いによる対立が二度の世界大戦がはじまる前の時代に限りなく近づいているのではないかということを言っているのだと思う。政治的な発言をほとんどしないタモリのギリギリの言葉が「新しい戦前」であったのだと思うのである。
この本の内容とはまったく関係がないが、トランプ前大統領が狙撃されたという事件はその前兆であり、世界を駆け巡った写真はその象徴ではないのかという気がする。
だから僕は、この本については、「多面的に深堀り」された部分よりも、ああ、「笑っていいとも!」ってそんな番組だったよなということと、自分もそこに一瞬だけ参加したことがあったなという懐かしい部分が楽しめたというところで十分であったのである。
著者は、「テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開」している人だそうだが、32年間も放送していたテレビ番組の隅から隅まで、よくぞ調べたものだと、そこだけは感心してしまうのである・・。
「笑っていいとも!」が終了して10年経ったそうだ。著者が言うには、『戦後日本、とりわけ戦後民主主義が持つ可能性を最も具現化した番組』であり、この番組を多面的に深堀りすることで戦後日本をとらえ直すことができるというのである。それはあまりにも大仰な話であるように思うが、確かにこの頃のテレビは面白かった。
「笑っていいとも!」は1982年10月に始まったそうだが、「オレたちひょうきん族」はその前年、そして1982年は中森明菜や小泉今日子たち、「花の82年組」のアイドルがデビューした年でもある。これだけ見てもこの時代の凄さがわかる。
僕は今でもテレビが点いていないと死にそうになる人間だが、この頃も受験生でありながらいっぱいテレビを観ていた。「ザ、ベストテン」はもとより、「突然ガバチョ」「久米宏のTVスクランブル」などなど。まあ、これだけテレビを見ていたら受験に失敗するはずだ。
それに比べて今のテレビは面白くない。民放のゴールデン帯の番組というとどの局を見ても同じようなバラエティー番組ばかりだ。これは面白いと思っても1年ほど観ていると飽きてくる。歌番組に出てくるアイドルも全員名前がわからない。日本人なのかどうかさえもわからなくなっている。
歳をとってきて時代の嗜好に合わなくなっているのも確かだがここは主観的な感想を書いても誰にも迷惑をかけないだろう。平日の民放の地上波はまったく見る気がしない。(笑点と鉄腕ダッシュはいつも見ているが、平日ではない・・。)
「笑っていいとも!」がスタートする前に放送していた番組は、「笑ってる場合ですよ!」だったが、これも面白くてなんで終わるのだろうと思っていたが、この本にはその真相が書かれていた。両方の番組のプロデューサーは横澤彪(ひょうきん懺悔室で牧師をしていた人)だったが、漫才ブームに乗った超人気者の出演者に対し、観客が何をやっても笑うようになり、そこには知性が感じられないという危機感を抱きこの番組を終わらせようと考えたそうだ。
横澤彪は笑いというものに対して、『笑いというのはパロディにしろナンセンスにしろ基本は凄く知的なもの』と考える人であった。そしてそうした知的な笑いを担えるのはタモリしかいないと考えていた。
「今夜は最高」という番組は「いいとも!」の1年前に始まっていたが、タモリが昼の番組に出てきたときにはオールナイトニッポンも必ず聞いていた僕も多くの人が思ったようにこの人はテレビでもラジオでも夜のタレントではないのかと思ったものだ。
しかし、やっぱりタモリという人は確かに普通のお笑いタレントとは違う知性を見せていたと思う。こんな思い出がある。「いいとも!」が始まった年、僕は浪人生活を送っていた。一応、予備校にも行っていたのだがなぜだかお昼は家でこの番組をよく見ていて、「試食の部屋(正確には、「タモリの試食の部屋」と言ったとこの本には書いていた。)」というコーナーに「あなたの番組は面白くない・・。」というような内容の投書をしたらそのまま採用されたのである。あんなネガティブな内容の投書を採用してくれるというのは知性とウイットに富んだタレントであるという証であるのだろう。まあ、投書に対する感想もウイットに富んでいるというか、お昼の番組で話すようなものではなく、「字が汚い。これでは来年も浪人するな・・。」というようなものであった。
それでも侮辱されたというような印象はなく、後年になってわざわざスタジオアルタを見学にいったほどである。それはきっとタモリの心の大きさのせいだったのである。
現在のテレビに対する世間の批評や当の出演者たちの批評ではコンプライアンスの基準が厳しくなって面白いことができなくなってしまったという意見が多いが、その前に、番組を作る人や出演している人たちに知性が無くなってしまったからなのではないなと僕は思っている。確かに、知性の表現の現れ方には他人を貶めたりするようなものもあるかもしれないが、別の表現の仕方もあるだろう。それができなくてどこかで観たことのある番組の焼き直しばかりをやっているようにしか見えないのである。もっとも、知性のある番組を作ったとしても、それを理解できるほどの知性が視聴者にも求められるはずであるがそれも怪しくなっているのが今の時代なのであろう。
著者は、タモリと「いいとも!」の特徴を、タモリの信条である、「自分の主義主張だとか、思想、建前をもって人と会わない。いつもフラットな気持ちで、無の状態で人と会えば、本当にわかり合える。」という言葉から分析する。
その司会の方法は、「仕切らない」「誰でも受け入れる」というところに特徴があったという。そしてそれが、「いいとも!」という広場的な空間を生み出し、誰でもが自由に入ってくることができ、また、出ていくことも自由な場となったのだと著者は考える。
1960年代から1980年代の終わりまで、高度経済成長がもたらした「一億総中流」意識が日本全体をある種壮大な「内輪」と化し、テレビにおける「笑い」とは結局は一定の範囲での内輪の笑いに過ぎずそれに気付かずに過ごせたということが“広場”の機能とマッチしたのである。テレビの中だけを見ていればみんな満足であったということだ。
コンプライアンスが厳しく言われるようになったのは、こうした疑似的な内輪の空間が大きく揺らぎ、亀裂が入ったこと、そこにモラルや法律、社会規範といったテレビの外側の視点が生まれたということがあったと分析しているのである。
たしかに、ジャニーズ問題などというのはきっとこういうことが表面に出てきたものと思うが、それはテレビ業界全体のことであり、「いいとも!」がそれを象徴しているのだというのはあまりにも極論だろうと思う。
「いいとも!」は何でもありの広場的な位置づけてあったのだけれども、インターネットが生み出した空間は「いいとも!」よりももっと広場的な空間でありそちらのほうが支持されてしまったことがテレビの衰退につながったのだとしたら、それは納得ができる結論であった。そうは書かれていなかったが・・。
2022年、タモリは、毎年の暮れの恒例である「徹子の部屋」への出演の時、来年はどんな年になるという黒柳徹子の質問に対して、「新しい戦前になる」と答えたそうだ。著者はその意味をこの本の内容に沿って、「戦後史における大きな存在であったこれまでのテレビが終わったのだ。」と解釈できるのではないかと書いているが、これはあまりにも無理なこじつけであると感じた。けっこうこういう感じの論調の部分が多く、そういう部分はかなり違和感が残った。
僕はむしろ、「あたらしい戦前」というのは、ナショナリズムの台頭や体制の違いによる対立が二度の世界大戦がはじまる前の時代に限りなく近づいているのではないかということを言っているのだと思う。政治的な発言をほとんどしないタモリのギリギリの言葉が「新しい戦前」であったのだと思うのである。
この本の内容とはまったく関係がないが、トランプ前大統領が狙撃されたという事件はその前兆であり、世界を駆け巡った写真はその象徴ではないのかという気がする。
だから僕は、この本については、「多面的に深堀り」された部分よりも、ああ、「笑っていいとも!」ってそんな番組だったよなということと、自分もそこに一瞬だけ参加したことがあったなという懐かしい部分が楽しめたというところで十分であったのである。
著者は、「テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開」している人だそうだが、32年間も放送していたテレビ番組の隅から隅まで、よくぞ調べたものだと、そこだけは感心してしまうのである・・。