イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「計算する生命」読了

2021年08月04日 | 2021読書
森田真生 「計算する生命」読了

生物学の本かと思って借りてみたが、数学について書かれた本だった。著者は、数学をテーマとした著作・講演活動などを行う日本の「独立研究者」という肩書を持ったひとだ。

数学というのはまったく苦手な科目で、共通一次試験では最初の年は200点満点で50点ほど、2回目の年でも100点ほどしか取ることができなかった。ちなみに二次試験では出題されていた5問中解けたのが2問半だけだった。あれでよく大学に合格できたものだと思った。
ちなみにあと50点でも取れていたら僕は師の後輩になれたことは間違いがなかった。僕は数学のせいで大和川を渡れなかったのだ。
その恨みも込めて読み進めることになった。

この本はほぼ全部、数学史というものについて書かれている。ものを数えるためということから始まった数学は、数字と記号を作り出し、代数学が生まれ、幾何学と融合し図形を数式で表すことができるようになった。そしてコンピューターが生まれ人工知能、さらにその先には自律的にモノを考える人工生命に続こうとしているのではないかというのがこの本の大雑把な内容である。というか、そんな大雑把なことしか理解ができなかった。とくにたくさんの数式が盛り込まれているというのでもなく、ほぼ全部普通の文章なのだけれども理解ができない。もともと数学の発祥というのも物理学と同じように哲学が元になっているそうだ。だからこの本は数学の本といいながら哲学に関する本と言ってもいいような内容なのである。だからよくわからないのである。

ここからはそういうことを前提にして僕の想像と妄想で感想を書いてみる。
数学というものは、哲学から生まれたということは、もちろん人間が創り出したものである。数字が1から0の10個で構成されているのもたまたま人間の手の指が5本であり、人間はそれを元に物を数え始めたからではないかとこの本には書いている。
この本には数学の行きつく先は人工生命であると書いているが、もうひとつの行きつく先はおそらく宇宙の解明であろう。物質の運動の法則は全宇宙どこに行っても同じであるから数学を使えば宇宙のすべてが解明されるというのがこの世界の常識であり、遠い将来、異星人と遭遇したとき、彼らと会話するための唯一の手段が数学であるようにも思っていたけれども、それが、ただ、この星で人間が創り出しただけのものであるとなるとちょっと違ってくるように思う。
たまたま人間が創り出した数学が自分たちの手の届く範囲の物質の運動を偶然にも記述できただけだったということだったかもしれない。もしくは、宇宙は意思を持っていてそういう風に見せかけているだけなのかもしれない。「惑星ソラリス」という映画はそんな感じの映画であった。この文章もコンピューターを使ってその中で無数の計算がおこなわれた結果ブログにアップすることができるのだが、そう思うとあまりにも奇跡的な偶然なのではないだろうかと思ったりもする。
この本にも紹介されていたが、”虚数”というものなんて、普通の人なら、こんなものどう考えてもおかしいとしか思わない。僕が数学につまづいたもののひとつはこれであった。もちろん、数列、対数、確率、すべてつまづいたもののひとつであり、そうなるとほぼ高校で習う数学の分野のすべてになってしまうのであるけれども・・・。ちなみに、高校生が習う数学というのは、18世紀以前に出来上がった数学の範疇だそうだ。

だから、実は、現代の数学が表している世界というのはほんの幻に過ぎず、それは意思を持った何か、おそらくそれを僕たちは神と呼んでいるのだろうが、その神が僕たちにそう見せているだけなのだと思ってしまうのである。

エデンの園で暮らしていたアダムとイヴは知恵の実を食べたことで寿命という呪いをかけられ、エデンの園を追放されるのだが、アダムには「食べるためには汗を流して働かねばならない」、イヴには「子どもを産むには苦しまなくてはならない」という罰も与えられる。
アダムとイヴは算数をやっていたのかどうかは知らないが、その時代から世界のすべては神が見せている幻なのではないかと三流のSF小説のような感想になってしまったのである。まあ、そう思うと、今の職場の矛盾とあほらしさも幻であると思えて少しは気も楽になるというものだ。

もう少し人工知能の話を。この本では1章分を人工知能の将来についてというもので書かれている。
人工知能と人間の大きな違いは、人間は行為する動機をみずから生み出せるような「自律的」な存在であるが、人工知能は外部からの入力に支配された「他律的」なシステムであり、それをすべて計算でまかなっている。自律的ではないのである。
『機械にとって記号には何の意味もなく、したがって計算の結果の正誤について自ら吟味する余地はない。正しい結果と間違った結果の区別ができないとすれば、それははたして計算と呼べるのか。』と著者はいう。タイトルのとおり、人工知能は『計算する生命』ではないということになる。
逆に言うと、『計算とはもともと、人間による機械の模倣(シミュレーション)』なのである。

かつて、アラン・チューリングという数学者は、人間の思考はすべて数学に置き換えることができるのだという発想からコンピューターのアルゴリズムを考え出したそうだが、著者はどうもそうは見ていないようだ。
『人工知能研究とは、本来、人間のレプリカを作ることでも、SF的な「超人」を生み出すことでもなく、部分的に人間を再現しながら、知能の原理を解明していく地道な営みだったのである。』と書いているように、人間は人間で、機械は機械だという認識を持っている。
数学者なんて偏見かもしれないが、合理的で冷徹な人と思ってしまうところがあるけれども、そうでもないのだと思わせてくれるのだ。



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