イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「転んでもいい主義のあゆみ  日本のプラグマティズム入門」読了

2025年01月21日 | 2025読書
荒木優太 「転んでもいい主義のあゆみ  日本のプラグマティズム入門」読了

プラグマティズムというのはいくつか読んだ哲学の入門書にも記載されていた。この本を読むともっと詳しく分かるのかと思ったらそれがまったくわからなかった。なので、とりあえずウイキペディアで調べてみると、
『プラグマティズム(英: pragmatism)とは、ドイツ語の「pragmatisch」という言葉に由来する、実用主義、道具主義、実際主義とも訳される考え方。元々は、「経験不可能な事柄の真理を考えることはできない」という点でイギリス経験論を引き継ぎ、概念や認識をそれがもたらす客観的な結果によって科学的に記述しようとする志向を持つ点で従来のヨーロッパの観念論的哲学と一線を画するアメリカ合衆国の哲学である。
1870〜74年の私的なクラブに起源を有する思想であり、その代表的なメンバーとしてチャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズらがいる。
プラグマティズムはジェームズによって広く知られるようになり、20世紀初頭のアメリカ思潮の主流となった。心理学者の唱える「行動主義 behaviorism」、記号論研究者の「科学的経験主義 scientific empiricism」、物理学者の「操作主義 operationalism」など及んだ影響は広く、現代科学では統計学や工学においてこの思想は顕著である。プラグマティズムは、社会学、教育学、流通経済学などアカデミズムにも多大な影響を与えたが、それにとどまらず、アメリカ市民社会の中に流布して通俗化され、ビジネスや政治、社会についての見方として広く一般化してきた。

その歴史は前期と後期に大別され、後期のプラグマティズムはシカゴ大学を中心に発展したため、シカゴ学派とも呼ばれる。シカゴ学派の代表的な者にジョン・デューイ、心理学者のジョージ・ハーバート・ミードらがいる。
その後、チャールズ・W・モリス、ジョセフ・フレッチャー、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン、リチャード・ローティらによってネオプラグマティズムとして承継発展されている。』
という内容であった。アメリカという国が科学技術の最先端を走り続けているのはこういう思想がベースになっているのだということを知ると納得してしまう。
また、AIに聞いてみると、「行動主義」、「可謬主義」というような言葉が出てくる。
「可謬主義」というのは、「全ての知識や信念は誤りを含む可能性がある。」という考え方だが、要は、間違っているかもしれないし、失敗するかもしれないが、「とりあえずやってみると真理に近づける。」ということを言っている。鳥井信治郎の「やってみなはれ」とおなじようなものだろう。
これもある意味アメリカ的だ。

この歳になると、哲学や宗教の本を読むのは、自分が生きてきた時間が正しかったかどうか、“どうか”というよりも、ほんの少しだけでも正しかったと思えるところはないのかということを探すというのがその理由になっていたりする。
プラグマティズムとは、「とりあえずやってみて、間違っていたら修正してゆけばよい」というのが基本的な考え方なのだから、何かやってみたいと思いながらもあれやこれやと理由をつけて、これはムリだ、これはムダだと実行に移さずに生きてきた僕にとっては人生のすべてを否定されているように思えてくる。
まったくわからなかったというのはきっとそういう意味で、僕の文脈に合っていなかったということかもしれない。
加えて、この本はサブタイトルのとおり、アメリカで生まれたプラグマティズムが日本でどのように根付いていったかということが書かれているので元の論理をしっかりわかっていなかったのでなかなか理解はできなかったのだろう。
この感想を書くために、AIにいろいろ調べてもらうと、プラグマティズムのなかの可謬主義の応用として、
『科学: 科学的な探求において、可謬主義は基本的な姿勢です。科学者は、理論や仮説を絶えず実験によって検証し、誤りがあれば修正することを前提としています。

教育: 教育においても、可謬主義は重要な役割を果たします。学生は学ぶ過程で間違いを犯し、その過程で成長していくことが奨励されます。

哲学: 哲学的な議論においても、可謬主義は他者の意見や新しいアイデアに対して柔軟であることを促します。これにより、知識や理解の深化が進みます。』というようなことが回答として出てきた。
この本も、評論、政経、教育、スポーツ、倫理、哲学という分野とプラグマティズム、それに色濃く関係しているかもしれない日本のプラグマティズム研究者の考えや生き様を紹介している。
“かもしれない”というのは、この本を読んでいるときには可謬主義の応用のようなものがわからなかったのでどうして評論×プラグマティズム=田中王堂なのかもわからなかったのである。先にAIに聞いておくべきであった・・。

それでも、一章だけもう一度読み返してみた。石破首相が誕生した時話題になった石橋湛山が、「政経×プラグマティズム=石橋湛山」という章に登場していたからである。
石橋湛山は政治家になる前は新聞記事だったそうだ。評論だけをやっているというのは「象牙の塔」に籠っているだけだと考えて政治家に転身したそうだ。まさにプラグマティズムだ。
この考えは湛山の師匠である、田中王堂の「理論と実行との統一」という考えが色濃くでている。ということだそうである。
分かったようでもありわからないようでもある・・。が、核心はきっともっと深いところにあるのは間違いがない・・。

残りの人生もそう長くないとなると、失うものもない。それならば大きな損失を被らないかぎり何をやってみてもよいと考えてもよさそうなもものだが、結局は休日ごとに昼から酒を呑んで映画を観ているのが関の山だ。
僕はプラグマティズムの対局で生きているような気がする・・。

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