イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「高僧伝4  空海 無限を生きる」読了

2015年02月08日 | 読書
松長有慶 「高僧伝4 空海 無限を生きる」読了

今年は高野山開創1200年の年だ。僕も機会があれば何度か高野山を訪ねたいと考えているのでここでいまひとつ空海の業績と思想を勉強してみたいと思いこの本を買ってみた。

遣唐使として中国へ渡り、恵果阿闍梨から灌頂を受け帰国後、日本で密教を広める話は誰でも知っている。では空海の思想の象徴的なものは何だったのだろうという解説がこの読みどころだろう。
それは両極の融合というところだ。
仏教というものはもともと、その地域にあった宗教を取り込みながらそこに根付いて発展してきた。密教もそうであるが、さまざまな両極を融合させてきた。
たとえば、民衆の救済と自身の修行。これは「方便を究竟とす。」という言葉で表される。京都では民衆の救済のためにさまざまな事業をおこない、高野山では個人の修練のための道場を開き鍛錬に励む。

たとえば、浄土思想と現実。ものすごく現実を見ている。これは「密厳浄土(みつごんじょうど)」というこ言葉で表される。現実のなかにこそ浄土があるだから今を生きるのだ。今が嫌だと思い別の世界に憧れを持つのではない。だから現実の社会で奉仕活動をするのだという考えが出てくるのだそうだ。

たとえば、欲望と崇高さ。これは、「現世利益(げんせりやく)」という言葉で表される。長生きしたい、お金が欲しい。人間が持っているそういう欲望を否定せず人間の心のあり方を高めてゆく。

すべては“今”を見続けているから、現代世界でも幅広く受け入れられるのであろう。
阿弥陀信仰や禅宗のように現実世界を捨てて理想世界を求める考えも魅力的だが密教はそういうこともすべて取り込み尽くされている。(事実、鎌倉時代以降の仏教は宗派は違えど天台密教の道場で修業した人々が開祖となっている。)
そういえば、戦国時代に敵対していた数々の武将たちも奥の院には一堂に祀られている。ある意味、これも両極の融合だろうか。


エントロピーという理論はすべてのものは混沌とした平衡状態に向かっていくという理論で、熱力学の世界で語られるものだがこういう思想的な世界でも、混沌とした世界のほうが居心地がいいのかもしれない。
しかし現実はどんどん両極が激しくなる。経済的にもそうだし人口動態でもそうだろう。思想的にも右と左で対極姿勢が強くなっている。宗教的にも対立が顕著になってしまった。キリスト教もイスラム教も原点は旧約聖書であり同じものを共有しているはずなのに融合と理解ができないでいる。
だから生き辛い世界になってしまっているのだろう。二極化というのは自然の摂理とは反しているのだ。

だからと言ってすべての人は密教を理解すべきだと言っているのではない。すべての宗教というのは基本的には欲を持たずに真摯に生きなさいと説いているように思う。しかし、どうしたらそんな生き方ができるのかということはどの教えにも具体的には解説されていないように思う。釈迦は菩提樹の下で数日間の瞑想のあとに悟りを得たそうだが、結局は自分で悟りなさいというのがその具体的な方法なのだろう。

どんな宗教を勉強するのも信じるの結局は自分で答えを出さなければ意味がないのだ。
なんとも人生は難しい。


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