この家を父親が建てた時、ブロック塀の基礎だけは無理というので作ってもらったが、そのほかは庭や外壁を庭師や左官屋に頼まずに自分で仕上げた。当時、中学校に入ったばかりの僕も駆り出されて庭の土を掘ったりモルタルを練ったりした。その頃はモルタルが乾くと固まるのだと思っていたが、後になって水と化学反応をして固まるのだということを知った。そしてもっと後、古代ローマのコロッセオはコンクリートでできていると知った。なんと不思議な物質だろうか・・・。
コロッセオは西暦が始まって100年も経っていない頃建設されたそうだが、2000年前にコンクリートが存在したということを知ったときにはウソだろうという驚きがあった。火山灰と石灰と水を混ぜる古代のモルタルはもっとさかのぼり、古代ギリシャの時代に発明されていたそうだ。人間というのはなんとすごいのだろう。そして、古代ローマ時代の大型の建築物はほとんどがコンクリートでできていて、港までも作られたというのだから、古代ローマの繁栄はコンクリートの賜物であると言ってもいい。そして、こんなに美しいドームまで創り出すまでになった。
しかし、このコンクリート、それから後1800年間は世界の建築史の表舞台から消えてしまう。中世ヨーロッパの建築物は石造りのものが主流になってモルタルが接着剤代わりに使われた程度だったそうだ。
そして、西暦1700年の半ば、イギリスで再び日の目を見ることになる。スミートンという建築家が建設したエディストーン灯台にモルタルが使われた。
その後1800年代の前半、鉄筋コンクリートが実用化される。ドイツの帝国議事堂の床に使用された。
石造りの建物は火災に強そうだが、床材や屋根というのは木材が使われるので意外と火に弱い。それを解消するために鉄筋コンクリートが採用された。そして、鉄筋コンクリートのルーツというのは意外にも植木鉢だったそうだ。フランスの庭師ジョセフ・モエニが木で作る植木鉢は腐りやすいのでコンクリートに心材を埋め込んで作られた植木鉢を発明した。しかし、フランスではそれほど注目されることがなく、ドイツ人の技術者、マティアス・ケーネン、グスタフ・ヴァイアスの二人が建築物への応用を考えた。それがドイツの帝国議事堂であった。フランス人が考えた工法だが、実際に巨大な建造物に応用したのがドイツ人であったため、フランス人は後世まで恨み節を重ねていたそうだ。
この議事堂は1933年に火災に遭ったけれどもその強固さが示され、ヒットラーの肝いりでアウトバーンの建設へとつながる。アメリカではフーバーダムの建設が始まり鉄筋コンクリートは社会インフラ整備の中心となってゆく。
日本でも少し遅れてコンクリートの建造物が造られてゆくことになるのだが、ここからは著者の愚痴が目立ち始める。多分、著者はこの愚痴というか、批判めいたことを書きたいためにこの本を書いたように思えてくる。だから、「文明史」ではなくて「文明誌」になっているのだとあらためてタイトルを見直して納得した。
日本のコンクリートの黎明期、技術者は橋梁や百貨店の建物に歴史的に見てもエポック的なものを残し、その技術は戦時中の船舶の建造にまで及ぶことになるのだけれども、戦後、行動経済成長期を迎えると、品質、美しさに欠けるものばかりを造るようになってしまったと嘆く。高速道路や新幹線の高架からはコンクリート片が剥落し、集合住宅は水漏れを起こす。
しかし、戦争末期、いくら鉄が不足しているからといっても、コンクリートで船を造ろうと考える人がいたというのには驚いた。この船は今では広島県で防波堤として役目を果たしているそうだ。
多分、それの延長線上に高級なマリーナに使われているような重厚な桟橋があるのだろう。あれもコンクリートでできていると聞いて驚いたものだ。
そしてそれら日本の近代コンクリート建造物は自然との調和を無視した画一的で無粋なデザインであるとこき下ろす。
だから土木工学者は土建屋と呼ばれ他の科学者よりも数段低く見られているのだと嘆くのである。
著者自身も土木工学者ではあるのだけれども、その責任の一端を感じながらその黎明期の学者たちのプライドと責任感を思い起こせと締めくくっているのだが、まあ、どこの世界でも似たり寄ったりなのだなと僕もわが業界を憂うのである。
コロッセオは西暦が始まって100年も経っていない頃建設されたそうだが、2000年前にコンクリートが存在したということを知ったときにはウソだろうという驚きがあった。火山灰と石灰と水を混ぜる古代のモルタルはもっとさかのぼり、古代ギリシャの時代に発明されていたそうだ。人間というのはなんとすごいのだろう。そして、古代ローマ時代の大型の建築物はほとんどがコンクリートでできていて、港までも作られたというのだから、古代ローマの繁栄はコンクリートの賜物であると言ってもいい。そして、こんなに美しいドームまで創り出すまでになった。
しかし、このコンクリート、それから後1800年間は世界の建築史の表舞台から消えてしまう。中世ヨーロッパの建築物は石造りのものが主流になってモルタルが接着剤代わりに使われた程度だったそうだ。
そして、西暦1700年の半ば、イギリスで再び日の目を見ることになる。スミートンという建築家が建設したエディストーン灯台にモルタルが使われた。
その後1800年代の前半、鉄筋コンクリートが実用化される。ドイツの帝国議事堂の床に使用された。
石造りの建物は火災に強そうだが、床材や屋根というのは木材が使われるので意外と火に弱い。それを解消するために鉄筋コンクリートが採用された。そして、鉄筋コンクリートのルーツというのは意外にも植木鉢だったそうだ。フランスの庭師ジョセフ・モエニが木で作る植木鉢は腐りやすいのでコンクリートに心材を埋め込んで作られた植木鉢を発明した。しかし、フランスではそれほど注目されることがなく、ドイツ人の技術者、マティアス・ケーネン、グスタフ・ヴァイアスの二人が建築物への応用を考えた。それがドイツの帝国議事堂であった。フランス人が考えた工法だが、実際に巨大な建造物に応用したのがドイツ人であったため、フランス人は後世まで恨み節を重ねていたそうだ。
この議事堂は1933年に火災に遭ったけれどもその強固さが示され、ヒットラーの肝いりでアウトバーンの建設へとつながる。アメリカではフーバーダムの建設が始まり鉄筋コンクリートは社会インフラ整備の中心となってゆく。
日本でも少し遅れてコンクリートの建造物が造られてゆくことになるのだが、ここからは著者の愚痴が目立ち始める。多分、著者はこの愚痴というか、批判めいたことを書きたいためにこの本を書いたように思えてくる。だから、「文明史」ではなくて「文明誌」になっているのだとあらためてタイトルを見直して納得した。
日本のコンクリートの黎明期、技術者は橋梁や百貨店の建物に歴史的に見てもエポック的なものを残し、その技術は戦時中の船舶の建造にまで及ぶことになるのだけれども、戦後、行動経済成長期を迎えると、品質、美しさに欠けるものばかりを造るようになってしまったと嘆く。高速道路や新幹線の高架からはコンクリート片が剥落し、集合住宅は水漏れを起こす。
しかし、戦争末期、いくら鉄が不足しているからといっても、コンクリートで船を造ろうと考える人がいたというのには驚いた。この船は今では広島県で防波堤として役目を果たしているそうだ。
多分、それの延長線上に高級なマリーナに使われているような重厚な桟橋があるのだろう。あれもコンクリートでできていると聞いて驚いたものだ。
そしてそれら日本の近代コンクリート建造物は自然との調和を無視した画一的で無粋なデザインであるとこき下ろす。
だから土木工学者は土建屋と呼ばれ他の科学者よりも数段低く見られているのだと嘆くのである。
著者自身も土木工学者ではあるのだけれども、その責任の一端を感じながらその黎明期の学者たちのプライドと責任感を思い起こせと締めくくっているのだが、まあ、どこの世界でも似たり寄ったりなのだなと僕もわが業界を憂うのである。