家に仏壇がある、お彼岸にはお寺さんが来てお経をあげてくれる、年忌なども抵抗なくやっている。
でも仏教ってぜんぜん知らないなぁというのが、会社人間を終わりにした直後の思いでした。
でも仏教ってぜんぜん知らないなぁというのが、会社人間を終わりにした直後の思いでした。
つれづれの時間を過ごす1つとして、読経を始めました。
宗教に目覚めたというより、現状のなぜ?を少しでも自分の中で整理できれば、自分のためになるかな、と考えたのです。
宗教に目覚めたというより、現状のなぜ?を少しでも自分の中で整理できれば、自分のためになるかな、と考えたのです。
読経を練習する中で知ったのは、お経は物語なのだということ。そう分かると漢文にも興味がわいてきました。
でも、サンスクリット語の音を漢字であてた部分は、現代語教育を受けたあたしには、誤解の連続。
例えば、『般若』。
初見は、『鬼』でした。
『鬼の心の教え』からスタートしたのでは、どう解釈するかは自由だといっても、相当違ってしまいます。
例えば、『般若』。
初見は、『鬼』でした。
『鬼の心の教え』からスタートしたのでは、どう解釈するかは自由だといっても、相当違ってしまいます。
意味は分からなくても、なんども読んでいる内に心に残ってきた部分です。
色不異空空不異色
色即是空空即是色
受想行識亦復如是
色即是空空即是色
受想行識亦復如是
文字を追うとなんのことかわからなくなりますが、『この世は、常に変化している』『自分のものなどない』『こだわるな』気楽に行こうぜ、ということだと自分なりに理解しました。
お経は、関心を持って読めば、自分の好きに解釈していい哲学書かもしれませんね。
40年あまり前の教室で、子守歌代わりの夢うつつの中で聞こえてきた、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・」
般若心経の心は、10代で学び、受け入れてはいたのだと気づきました。
他のお経には、
体解大道 発無上意
という部分もあります。
頭で解るのではなく、『体解』しなさいという教え。
この辺りは、自分の永遠の課題です。
なにせ、こだわり、煩悩多いし。
なにせ、こだわり、煩悩多いし。