毎朝、神棚に手を合わせ生かされていることに感謝している。
この時に大祓祝詞をあげることが多いのだが、かれこれ四年以上続けているので、今では暗誦できるようになった。
大祓祝詞は長いので、最初の頃は紙を読みながらだった。
そのうち紙を見なくても読めるようになったが、たまにわからなくなって、途中で紙を見る為に中断することも度々あった。
最近では大祓祝詞をすっかり覚えて暗誦できるようになったと思っていたが、今でもたまに「次の言葉、何だっけ?」と突然わからなくなることがある。
こういう時は、必ず何か別のことを考えた時。
何も考えずに口から勝手に言葉が出てくる状態の時は、まったく間違わないのに、何か考え始めると途端に間違ったりわからなくなると言うのは面白いものだと思う。
ところで作家で僧侶の玄侑宗久さんが「お経をあげると、それは自動的に出てくる水のように思考を一切交えずにでてくる。むしろ思考すると間違える」と書かれていたのを読んだ。
玄侑宗久さんのような方と同じと言うにはあまりにもおこがましいが、もう数え切れないくらいお経をおあげになっているお坊さんでもそうなのかと驚きだった。
またこのようにも書かれていた。
丸暗記というのは「わたし」を差し込む余地がないんですね。
ところが部分的な暗記とか通常の記憶と呼ばれるものは、これは「わたし」の都合です。
極論すればそれは「わたし」の気に入ったところだけ覚えているんです。場合によっては知らず知らず、「わたし」の気に入るように記憶を変質させてもいます。
別の言い方をすれば丸暗記とは、「わたし」の理性とか知性ではない、もう一つの「智慧」の在り方なんです。
ちょっと難しくて何度も読み返したのだけど、昔インドでは、バラモン教のヴェーダを初め、日本に伝わるお経もそうだが、それらの伝授は常に口伝えされてきたそうだ。
教えは師から弟子へ告げた言葉を、弟子はその響きのままに暗記したのだとか。
つまり彼らは、文字は持ちながらも、あえて宗教的な場面では意志的に「口承」というスタイルを守り、それによって「わたし」がいなくなることも、充分に承知していたのではないかという。
戦後に入ってきたアメリカの価値観は、いかに「わたし」をアピールするかが重要で、自己アピールが下手な日本人は苦労したが、宗教的には「わたし」を無くすことが、一つの智慧だったとは目からウロコだった。
これからは「わたし」を無くすべく、余計なことは考えないように祝詞をあげさせて頂こうと思う。
でも考え事をしていないのに、次の言葉が出てこなくなった時は、別の理由なのかもしれないなんて、、、
最近、よく物忘れするのが怖いです。