紅葉もそろそろ終盤。
朝夕には暖房を入れるほど寒くなってきた。
玄関前の落ち葉を掃除していたら一匹のバッタがいた。
「寒くなってもまだ頑張って生きていたんだ」と思ったら、このバッタが愛おしくて仕方がない。
元気が無いようだし、あと何日生きられるのだろう。
せめて草のある場所に移動させてあげようと思った。
バッタがいたのはアスファルトの路上だったので、庭へ移そうと思って手を出したら、ピョーンと大きくジャンプしたのでびっくりした。
まだ元気あるじゃーん。
思えば秋が深まってきた今の時期、こうしてブログにバッタの記事を載せるのは何度目だろう。
覚えているだけで過去二回、バッタの写真を載せている。(まだあるかも?)
そんなにバッタが好きかと言われるとまったくそんなことはなくて、むしろこの様に大きなバッタは、子どもの頃にかじられた記憶があるので苦手。
ではなぜ毎年のようにバッタを見ると、気になって写真を撮るのかと言えば、寒さの中でも生きている生命力と、あとわずかしか生きられない命の儚さみたいなものを感じるから。
特に命の儚さは、秋が深まり周囲の木々が葉を落としていく寂しさと相まって、余計にそう思うのかもしれない。
でもバッタ本人には、当然そのような気持ちはないのだろうなあ。
バッタとして生まれ、草を食べ、歌い、子孫を残して死んで行く。もうそれだけで十分にバッタとして生きた価値がある。
では人間はどうなのか。
人間には向上心があるから、良い学校に入りたいとか、お金をたくさん稼ぎたいとか偉くなりたいとか、素敵な伴侶がほしいとか、いろんな望みがある。
それは当然のことだけど、そのような望みをすべて叶えられた人ってどれくらいいるのだろう。
もしも叶えられたとして、それで満足している人はどれくらいいるのか。
それらはすべて自分の外にあることだから、果たしてそれらが叶ったとして心から満足できるのだろうか。
多分、自分なら満足できないのでは無いかと思う。(上のようなことは叶っていないけど)
そのような外にある事よりも内にあるものを大事にしたいと、最近よく思う。
家族や親しい人たちにかける愛情、更にそれが見ず知らずの人に対してもできたら上出来。
今はできなくても構わない。いつかできるようになるといいなあ。
他人と比べず、生きていることに感謝したい。地球上のすべてに感謝の気持ちを持つことができたらいいなあ。
それらができた時、心が満たされて穏やかに生きられるのではないかと思う。
なんてことを一匹のバッタから考えていた午後でした。