職場で雑談してたら巨椋池の話になって、
干拓はいつ頃?どういうエリア?
確か、社会の教材になっていたので、近年のことだと思うけど。
いつ頃だったかなあ、昭和かなあと曖昧だったのが悔しくて
ウィキペディアで調べました。
エリアは伏見から宇治、久御山まで。周辺16キロの広大な「池」。
秀吉の時代は伏見城の水運に利用されたとか。
干拓事業は昭和8年(1933年)から昭和16年(1941年)まで。
33年から41年。満州事変が31年、食糧増産の時代だなあ。
チェックしてたら大和街道、というのが出てきました。
東山区にはこの道の一筋東側に大和大路なる道が存在するのでちょっとややこしい。
24号線の御香宮のちょい北側から24号線をくぐって北に向かう一方通行、
「大和街道」の案内標識あり。古くは「伏水(ふしみ)街道」という名前もあります。
秀吉が整備した道だそうです。
伏見城から藤森神社や伏見稲荷大社、東福寺を通って五条のちょっと北まで。
街道沿いを少し紹介しますね。
伏見城は残っていませんが、東山区の豊國神社に移築された伏見城の唐門。(一筋東側の大和大路)
聖母女学院。旧陸軍師団のレンガ造りの建物が優雅です。
稲荷大社前。いつでも観光客がいっぱいです。
本町通には東福寺への入り口が3ヶ所。写真が古くてごめんなさい。紅葉の季節に行ったのはこのときだけだったので。
この道、伏見区深草周辺は直違橋通、そして東山区では本町通と名前が変化します。
この直違橋の名前の由来を知りました。
伏水街道は東山の山沿いの道。山から流れる川があって橋が架かっていました。
北から「一之橋」「二之橋」「三之橋」これは東山。「四之橋」こちらは伏見。
「一之橋」は泉涌寺みちのあたり。宝樹寺前に道標。川(今熊野川)は埋め立てられた(暗渠?)そうです。
私が住んでいた頃には川はなかったけれど、一之橋より東の方に「浮橋」という橋があったという石碑がありました。
そういう由来を知ると、「そう言えば下宿の裏側に谷のようになった道があったよねえ」と思い出しました。そこが川のあとかも知れませんね。
「二之橋」は九条の高架下、道標のみ。ここの川も暗渠か埋め立てられたか。
「三之橋」は東福寺から流れる川が現役。(東福寺のリーフレットによれば、なんと「三之橋川」という名前です)
「四之橋」は伏見の七瀬川に架かる橋なんだけれど、
ちょうど七瀬川が斜めに流れていて川の流れに直角の橋にはなっていないとのことで「すじかいばし」となったそうです。
子どもの頃は地名の由来なんか興味がなかったけど歴史的な道だったのね。
一つ物知りになりました。