古伊万里江戸後期物の魅力

古伊万里江戸後期ものを中心としたブログです。
その日の気分で、俳句も作ってみようと思います。

アイヌの宝物

2016年02月14日 14時15分36秒 | 玉(ぎょく)製品
ご無沙汰しております。

最近は、めったにパソコンを開けることがなくなり、
もっぱら、タブレットでネットをやるようになりました。

 立ち上がりが早い、コードレスなので、寝ながらユーチューブが見れる。
ただ、書き込みとデジカメからの写真のUPが、やや厄介ですね。
しかし、オークショ取引、閲覧などは、問題なく出来ます。
この投稿は、デスクトップのパソコンからしています。


アイヌ玉って、聞いたことあるでしょうか?
アイヌの婦人が盛装したときに身に着ける首飾りです。
基本は、ガラス玉です。
玉だけで出来たものを、「タマサイ」
一番したの金属版の飾りを「シトキ」というそうです。


タマサイの玉は、そのむかし交易により、和人やロシア人から、
入手したらしいです。
江戸後期になると、アイヌ用のガラス玉が大阪、江戸で作られたそうです。
これは、旭川の方から譲ってたいだいたものですが、
残念ながら、玉は古いガラス玉に、新しい素材のものを、加えたものでした。



ただし、この「シトキ」と呼ばれる金属製の飾り板は、江戸期はありそうです。



シトキは、古くは、和銅鏡を伸ばしたもの、
刀の鍔などが使われたようで、やや、なんでもありの感じ。
アイヌは、金属の精錬技術は、無かったようです。

アイヌは、海産物、シャケ、昆布、動物の毛皮などを交易の材料に、
和人から、金属、絹織物、米、酒、ガラス玉、とりわけ漆器を珍重したそうで、
漆器をめぐって、部族どうしの争いも起きたとか。。


絵葉書などを見ると・・
アイヌは、明治期まで、縄文時代の竪穴式住居みたいな家に、棲んでいましたよね。
日本において、北海道においてアイヌ文化が確立されたのは、鎌倉期といわれています。
おそらく当時も、幕末も、似たような生活をしていたんじゃないでしょうか?
ただ、習慣や儀式は、部族によりかなり開きはあるらしいです。

「かわらない民族は、滅びる」といった人がいますが・・

アイヌも、長い期間、和人との交流がありながら、
和人から文字文化や、その他の技術を学んで、どうして、自ら変わらなかったのか?
その点が、すこし残念でなりません。
そうすれば、明治時代に和人と対等に交渉も出来たかもしれません。

最近は、アイヌ文化や遺産は、高く評価されていますが、
明治期など、アイヌ民族文化に対する、日本国内における立場や、評価、
展開も、いくぶん違っていたような気がします。




古墳時代・瑠璃ガラス玉

2014年06月08日 21時23分33秒 | 玉(ぎょく)製品
なんだか雨がひどい土日となりました。
皆様の地域は、大事なかったでしょうか?





正倉院の御物で、ペルシャから輸入されたガラスの碗は、あまりに有名ですが、
当時は、日本でも、ガラスが造られていたことは、あまり知られてない気がします。

え!
そんな話は聴いたことがない。それなら、
わざわざシルクロードを経て、高価なものを輸入ぜずともすんだはず。。
あの、御物はなんなの??
そう、おもわれるかも知れませんが、事実なのですよ。(笑)


 

現に、これが、古墳時代に日本で造られたとおもわれるガラス玉です。
            ↓



弥生~古墳時代・奈良時代くらいまでは、日本でも、ソーダガラスは、日本国内で造られていました。
事実、正倉院御物の書籍のなかにも、その造り方が、詳しくでていますし、
ガラス造りを管轄する役所まで、あったそうです。



古墳時代特有の色と、カセが見られます。
この青が基本ですが、古墳時代末期には、グリーンや黄色、赤まで、造られたそうです。



えっつ!?
日本製ガラスが、弥生~古墳時代に??
とおもわれるかもしれませんが、事実だそうです。

伝、奈良県出土。直径12mmほど、27連。



日本製ガラスは、おもに、こういう瑠璃玉や、
勾玉、などの宗教がらみの装飾品のみに特化されていたそうです。

食器に応用されるまでの技術も、需要もなかったらしいです。
それで、奈良時代になると、勾玉、首飾りの玉の需要もなくなり、
カラス造りの技術も人も、衰退の一途をたどったといいます。
その後、日本では、まったくガラスが造られない時代が、しばらく続きます。

このあと、日本で再び本格的にガラスが造られるようになるには、
江戸時代後期まで、待たなくてはなりません。

もの造りも、時代の需要がなくなると、衰退してしまう、よい一例かも。。




このガラス壷の目的は?

2014年04月06日 14時13分46秒 | 玉(ぎょく)製品
消費税前の先月31日の日は、大変な賑わいでしたね。
うっかり、郊外のショッピングモールや大型店のあるインターパークへ、
会社をすこし早くしまって、帰りによってしまいました。

行く途中は、買い物帰りと思われる長い~長い~渋滞を横目に、
なんとか、5時には、インターバークのジョイフル本田店へ入店できました。(^^♪
入店してみると、中は、大人も子供もいっぱいで、
とても、平日の夕方とは思えない賑わい。

こ、これは,増税恐るべし!!

帰りは、約30分で自宅へ着く道のりが・・
渋滞に巻き込まれ、やく1時間半かかって、
よる7時30分に自宅に到着しました。。(笑)

びっくりの、3月31日でした。
ちり紙やトイレット紙を買っている人が多かったが・・
4,000円ちり紙を買っても、増税分は120円。
帰りの渋滞に巻き込まれ、ガソリンの1~2ℓくらいは、消費したのではないか?
そんな疑問も生まれました。

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クイズというか、問題です。

このガラス壷、最初なんの目的に作られたものかおわかりにまりますか??



外国製のガラス壷と思われます。



ラインがセクシーですよね。



この壷の目的というか、言われは古いそうですが・・
これ自体は、それほど古いものでは無さそうです。

高さ30センチほど。






江戸ガラス(剣菊紋)

2013年12月01日 19時49分29秒 | 玉(ぎょく)製品
寒くなりましたね。。
もう、12月に入ってしまったんですね。
なんだか、最近は、歳が過ぎるのが、早いですね。(*^_^*)

きょうは、外に出している寒さに弱い植物を、室内に込みました。
君子蘭とか、ハイビスカスとか、。。
年々、鉢の数が増えて、邪魔になること、じゃまになること。
骨董品と同じく、数のコントロールが効かなくなって来ています。(笑)

人間の欲って、キリがないですね。。
ただ、僕は、美食という欲はほとんどないので、
その点は、自分でも、楽だと思っています。

なんでも食べますし、粗食でも、特に不満を感じません。
食事は、命がつなげれば、それでよい、という感じが強いです。
きっと私は、過去世に、食うや食わずの暮らしをしていたんだと、思います。(笑)

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これは、江戸ガラスと思います。



一般的には、大正くらいの剣菊のカットグラスと思われがちですが、
これは、江戸時代のガラスと思います。



江戸ガラスと言うと、鉛入のガラスと思われがちですが・・
これは、鉛が少ないガラスのようです。



これと、まったく同じ造りとデザインの膾の枚皿を持っていますが、
菊の花弁も16弁で、
天保3年の共箱入なので、ほぼ間違えないと思われます。



ただ、どちらも鉛が少ないので、天保時代に国内で造られたのか、
それとも、輸入品なのかは、専門家ではないので、
よくはわかない、と言うのが正直なところです。

   直径19cmほど。 天保時代。




出雲石のまがたま

2013年11月03日 13時06分04秒 | 玉(ぎょく)製品
いま、ホテルの食事のメニューの偽装の一般化が問題化していますが・・・
マニフェストというメニューで票を得て、メニューとまったく違った政策を
とった政権政党がありましたが、それに比べれば、可愛いものだと思います。(笑)

一方、骨董の世界も、真贋はつきもので、
買うときに、いつも悩みますよね。(笑)
いつも買っている得意分野は、それほど悩まなくとも、
ジャンルが違うと、まったくといういうほど、わからない。

そんな中でも、絵付けのついている焼き物は、
なんとなく、分かる場合があります。
例えば、李朝染付とか、明末呉須赤絵とか・・
本物は、ホンモノらしい顔というか、絵付けがしてある。
それは、万国共通らしく、す~~と、胸に入る絵付けのことです。
「絵付けの付いた古陶磁は、真贋を隠しきれない」
という言葉が骨董の世界にあるそうですが、
これは、言い当て妙と思います。

絵の上手、下手ではありません。
本物は、概して、イヤミのない素直な絵付けにみえます。

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さて、そんな中で、専門外を買ってしまいました。(笑)
さて、これはどうでしょうか。。



古墳時代と言われる勾玉(まがたま)です。



石材は、出雲石と言われるグリーンジャスパー(青めのう)だそうです。
これは、限りなく黒にちかい深緑色をしています。
別名「碧玉」というそうです。
この深い緑色は、出雲石どくとくで、他にないそうです。
現在は、ほとんど取れない石という話です。


こちらは、表で、いくぶん穴が大きくなっています。
こちらから糸通しの穴を最初にあけたような気がします。

むかしは、機械などなく、竹串などの先に研磨剤を塗って、何日もかけて穴を開けたといいます。
大変な苦労ですよね。
奈良時代には、仏教が普及したせいか、勾玉は作られなくなりました。
ですから、天平、飛鳥、あたりは、まだ作られていたことになります。


こちら側は、玉の後ろ側で、糸通しの穴がいくぶん小さくなっていて、
最後に、ひっくり返して、穴を貫通したような感じがします。
おそらく力をいれすぎたのでしょうか、
まわりの薄い残り部分が破壊されて、いくぶん陥没しています。

約4cmほど、伝、群馬県出土、
こう言う、コノ字型勾玉は、群馬に多いとう説もあります。
5~6世紀の古墳時代ということになっています。
さて、どんなものでしょうか。。