古伊万里江戸後期物の魅力

古伊万里江戸後期ものを中心としたブログです。
その日の気分で、俳句も作ってみようと思います。

蒸気船の図・明治伊万里

2014年06月22日 14時46分06秒 | 明治伊万里色絵
ピロリ菌検査へいく

いま、ピロリ菌が話題になりつつありますが、
まあ、ぼくも年齢からいっても、不思議はないとおもい、行って来ました。
胃潰瘍と症状がなければ、保険外料金なんですね。。

僕が生まれた当時は、県庁所在地の駅前近くに住んでいましたが、
駅にはありましたが、水道は、なかったんですよ。。ポンプ式井戸でした。
風呂も、手動式ポンプ井戸でくんだんですよ。(笑)
もちろん冷蔵庫なんかありませんから、牛乳やスイカは、井戸水に浸していました。
郊外の農家は、まだ、つるべ落としの井戸を使っている農家もありました。
萱葺きの屋根に、土間には、カマドがありました。
なんだか、江戸時代みたいな暮らしだったんですよ。

舗装道路も駅前のメイン道路だけで、すぐ、
わき道に入れば、デコボコ砂利道でした。
駅前のメイン道路は、コンクリートの橋が架かっていたんですが、
街中を横切る田川には、多くの木造の橋が架けられていて、
人の往来や自動車などで痛むので、3~4年おきに、架け替えていました。
駅前を除くと、奥州へ続く国道4号線は、まさに砂利道でした。
自動車で、大きくくぼんだ路面には、定期的に砂利を補給していました。

いまは、むかし、昭和30年代前半のお話でした。(^^♪

だいぶ、話がわき道にそれてしまいました。(笑)
それで、ピロリ菌はいるに違いないと、自費で、意気込んで受けたのですが・・
結果は、(-)でした。

ちょっと、がっかりしているんですよ。(笑)
除菌すれば、もうすこし、心も体調もよくなるかもしれない?
と、屈折した心情にもなったんです。

これじゃ、これ以上よくなる希望はなくなりました。。

ネットで調べたら、そういう人も多いみたい。あはは・・

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これは、明治の文明開化の図でしょう。


向こう側に蒸気船が、見えます。

家紋をみると、丸に二の字。
これは、当地ではなじみの深い、足利氏の紋所なんですね。
清和源氏の血を引く、室町幕府を築いた足利氏の紋所。
正確には、引両(ひきりょう)紋というらしいです。
どうして、ここに出てくるのかは、なぞですが?


綺麗どころを呼んで、いまから、花見でもしようとしているんでしょうかね。
下の方から、弁当らしき包みを背負った、下男が、追いかけてきています。



後ろは、龍が描かれていて、高台の中に、傷のように見えるものがありますが・・



これは、傷ではなく、龍が彫りこまれているのが、わかります。
その証拠に、窪んだ龍には、釉薬が掛けられています。
明治の人は、しゃれていますね。

明治の初めのころ。直径26センチほど。。






幕末・洋館の図

2014年06月15日 17時11分40秒 | 古伊万里=染付大皿
今年は、入梅も早く、なんとなく憂鬱な日が続いていましたが、
ここ二日ばかりは、晴れて気持ちがよい日が続いていますよね。

 英会話を聴いていて、おもったことは・・
日本語の母音と、とくにアメリカ英語は、違うのかなぁ。。?とおもいました。
特に、『あ』と『お』の発音が、双方とも『お』と『あ』の中間みたいな音に聴こえる。
具体的には、の日本語の発音は、双方とも、舌を使わないで口の形だけで発音しますが、
英語の場合は、口の中ですこし舌を、L字に丸めて発音しているようにも聴こえます。
ですから、日本人には、かなり、こもった曖昧な母音に聴こえてしまします。
たとえば・・
『party/パーティ』の「あ」
『contest/コンテスト』の「お」

日本語の音感世界感からいうと、それらが想像以上の違和感を伴うような感じ・・
わたしが感じるには、脳が混乱して、母音の判断に迷っているような感じ。
最初は、頭痛がしてきて、その原因が最初なんだかわかりませんでした。(笑)
ただ、聞き流していても頭痛がしました。
結果、ネイティブなアメリカ人の発音が、かなり聞き取りにくい。
これら母音の違いが、いがいに日本人が英会話を学ぶ場合、
障害になっているのかなぁ??
と私は、感じました。

ただ、これには、ただ自ら、ひたすら慣れるしか方法はないのかも。。

日本人は、世界でもっとも英会話が苦手な国民と言われていますが、
意外にも、この母音の違いが大きいのでは?
と感じました。。
逆に、日本語の発音は、やさしいと外国から言われているそうですが・・
しかし、日本人に言わせると、正確に発音できるのは、モンゴルの人くらいですよね。(笑)

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これは、江戸後期の洋館の図ということになっています。



長崎の出島からの風景なんでしょうかね?
塀の向こうに南蛮船のマストらしきものが見えます。
まわりは、龍がいます。



どうして、これが洋館かといえば・・
観音開きの窓と、入り口のドアらしきものが見えます。



でも、なんだか中にいるのは、中国人風な人物。



銘を見ると、『南川原・樋口造』とあり。
幕末の『樋口窯』で作られたことがわかります。

最大直径46センチ・天保時代





古墳時代・瑠璃ガラス玉

2014年06月08日 21時23分33秒 | 玉(ぎょく)製品
なんだか雨がひどい土日となりました。
皆様の地域は、大事なかったでしょうか?





正倉院の御物で、ペルシャから輸入されたガラスの碗は、あまりに有名ですが、
当時は、日本でも、ガラスが造られていたことは、あまり知られてない気がします。

え!
そんな話は聴いたことがない。それなら、
わざわざシルクロードを経て、高価なものを輸入ぜずともすんだはず。。
あの、御物はなんなの??
そう、おもわれるかも知れませんが、事実なのですよ。(笑)


 

現に、これが、古墳時代に日本で造られたとおもわれるガラス玉です。
            ↓



弥生~古墳時代・奈良時代くらいまでは、日本でも、ソーダガラスは、日本国内で造られていました。
事実、正倉院御物の書籍のなかにも、その造り方が、詳しくでていますし、
ガラス造りを管轄する役所まで、あったそうです。



古墳時代特有の色と、カセが見られます。
この青が基本ですが、古墳時代末期には、グリーンや黄色、赤まで、造られたそうです。



えっつ!?
日本製ガラスが、弥生~古墳時代に??
とおもわれるかもしれませんが、事実だそうです。

伝、奈良県出土。直径12mmほど、27連。



日本製ガラスは、おもに、こういう瑠璃玉や、
勾玉、などの宗教がらみの装飾品のみに特化されていたそうです。

食器に応用されるまでの技術も、需要もなかったらしいです。
それで、奈良時代になると、勾玉、首飾りの玉の需要もなくなり、
カラス造りの技術も人も、衰退の一途をたどったといいます。
その後、日本では、まったくガラスが造られない時代が、しばらく続きます。

このあと、日本で再び本格的にガラスが造られるようになるには、
江戸時代後期まで、待たなくてはなりません。

もの造りも、時代の需要がなくなると、衰退してしまう、よい一例かも。。




明治期・南瓜とスズメの図

2014年06月01日 16時45分17秒 | ベロ藍
しばらく、更新を怠けてしまいました。(笑)
皆様、おげんきでお過ごしでしょうか?
わたしは、この暑さですこしばて気味ですが、なんとかやっています。

ところで・・・
ネットオークションで、なにを血迷ったのか・・
「耳慣れ英会話・CDセット」なるものに入札をしてしまい、
落札メールが来て、CDによる英会話の勉強をするハメになってしまいした。
まあ・・
40の手習いということばもあるが・・
50代後半に近いわが身、いまさら英会話でもなさそうだが・・
ボケ防止とう点では、よいのかなぁ。。。??
と、自分自身を納得させて、さそくCDを聴いてみました。

聴いてみて、びっくり!!
ネイティブなアメリカ人の発音って、これほど耳に入らないものか??!!
大雑把な日本語の発音の中にあると、子音や摩擦音が重要なファクターをしめる
ネイティブな発音は、わたしの耳には残らない。
そして、とくに・・
クールジャパンのクール「 COOL 」は、「くおっつ」と聴こえるし、
「 some people don't 」 は、「さむぴいぽー、どおん」とだけ、聴こえる。
なんか、単語の語尾が聴こえない。
これって、年齢のせいで、子音が聴きにくくなているのか、
あるいは、アメリカ英語って、こういう傾向なんでしょうかね??

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これは、明治期もかなり後半の絵皿のようなきがします。



むかしの日本南瓜と、ずずめが二羽。
この日本南瓜を見て、懐かしいと感じる方は、昭和前半生まれの人でしょうね。。
いまスーパーで売られている南瓜は、当時、西洋南瓜と呼んでいました。
当時の日本南瓜は、
シンデレラ姫が乗っていた南瓜の馬車みたいなシワの深い品種です。



そういえば・・・
ごぼうのように長く、血のように赤い日本ニンジンもまったく見なくなりました。
赤い茎が、砂糖のように甘く、ワイセイの日本ほうれん草もほとんどみませんよね。
一時は、丈の高い西洋ほうれん草に席巻されていた市場も、泥臭いという消費者の声を生かして、
最近は、西洋ほうれん草と日本ほうれん草の中間の品種が出回るようにはなってはいます。



お互いに見つめあって、おそらくツガイなんでしょうね。
むかしの職人さんは、詩情というものを忘れなかったんでしょうね。



明治時代、直径44cmほど。