たった、週一回の更新なんですが、最近は、つらくなってきました。(笑)
もともと、あまり写真を撮るのが、苦手なので、けっこうおっくうなんです。
おまけに、ダンボールの住民のどれが、PU済なのか、そうでないのか、記憶も少し曖昧模糊となりました。
まあ、あと3年分くらいは、大丈夫とは思いますが、コレクションもこれ以上増やすわけにも、いかなくなりました。
これからは、写真のない日記も、たまによいのかなぁ~?
なんて考えるようになりました。
江戸期の万古焼と言うことで、購入いたしたものです。
.平焼(みんぺいやき)に近いような、色釉薬をたっぷりと使っていますよね。
こういう蓮の葉や蟹、カエルなどは、当時の流行らしく、けっこう見かけます。
皿の裏は、万古特有の手捻りの指紋の跡が、べったりと付いていて、独特の雰囲気です。
とくに『萬古』の銘はありませんが、古い万古焼の特徴ということです。
手捻りの、かなり薄手で、硬く焼き締められています。
直径約19センチ・幕末のころ
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【ヤフー百科より、萬古焼について・・・】
万古焼(ばんこやき) .三重県の代表的な陶窯。桑名の豪商沼浪弄山(ぬなみろうざん)(1719―77)が江戸中期に開窯した。弄山は茶道をよくし、楽焼(らくやき)から入って高火度釉陶(ゆうとう)に至るが、元文(げんぶん)年間(1736~41)別邸のあった三重県朝日町小向(おぶけ)に開窯。万古不易の意から、作品に「万古」の押印をつけたのでこの名称がある。弄山窯は一般に「古(こ)万古焼」と称し、色絵陶器、銅呈色の緑釉陶(万古青磁)に特色を発揮した。とくに意匠が斬新(ざんしん)で、オランダ意匠を取り入れ、更紗(さらさ)文様も好んで用いている。趣味性の強いものであったが、殖産性も高く、大量に販売され、宝暦(ほうれき)年間(1751~64)には江戸にも進出して向島(むこうじま)に支窯を設け、「江戸万古」と称した。しかし、弄山没後まもなく廃窯となった。
その後、古万古窯から分かれた良助(よしすけ)が津に安東(あんとう)焼をおこし、1831年(天保2)には桑名の森有節(ゆうせつ)が小向に窯を再興し、世に「有節万古」の名で知られるが、古万古に対して再興万古ともいい、煎茶器(せんちやき)や酒器が多い。また1853年(嘉永6)には同地で倉田久八(きゅうはち)が「再興安東」(別称阿漕(あこぎ)焼)をおこし、56年(安政3)には弄山の縁続きになる竹川竹斎が松坂の射和(いざわ)で「射和万古」を開窯したが、数多い万古系窯のなかでは射和がもっとも古万古の遺風を伝える。明治初期には有節万古を導入して「四日市万古」が開かれ、煎茶道具が多く焼かれている。
[執筆者:矢部良明]