金環日食、感動的でした。。
予測予定時間に、きっかりと始まり、終わる、日食。
そこで、私は、不思議な感覚にとらわれました。
この世で、起きることのすべてが、本当は、すでに決まっているこてではないのか?
ただ、その事実を人間が予測でないでるだけではないのか?
そんな疑問にとらわれました。
ただ、すべて、決まっているかというと、そうでもなく・・
例えば、今晩の食事は、寿司にしようか、カレーライスにしようか、という場合。
それには、まだ、まだ、不確定要因がある。
私たちにも、選択肢が与えられ残されている。
しかし、
ある人間が、何歳くらいまで生きて、どんな病気でなくなるとか、
その人間が、結婚するとか、一生独身で暮らすとか、
そういう人生上重要なことは、おおむね決まっているのではないか?
そんな疑問が、わきました。
たとえば、金環日食が、300年後どういう地域で起きるのはすでに、決まってはいるが、
当日、晴れるか曇るかは、まだ、未定で、かなりまじかにならないと、わからないのに似ている。
人間も、人生も所詮、大宇宙の副産物である。
宇宙の法則の外にあることは、考えにくいのではないだろうか?
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錦手の微塵唐草の大皿です。
見込みは、鳳凰と龍に松竹梅。
見込みが、このように錦手になっているものは、非常に少ないものです。
金彩のほどんどが、落ちてしまったようですが、まだ、美しい文様が楽しめます。
時代は、天保期くらいではないでしょうか?
直径44cmほど、天保期。
そう、これ、手書きだから大変だったでしょうね。。
むかしの人の仕事は、えらいですよね。(#^.^#)
伊万里のデザインって、いろいろありますね。(#^.^#)
どれだけの時間と手間がかけられたのかと気が遠くなります。
それだけ人の手が入ったお品、素敵で上品です。
☆
また、お伺いたしますね。(#^.^#)
見込みは、見込み違いの「見込み」ですか。。
なるほど、その可能性もありそうですね。
僕の方こそ、勉強になりました。。(^^♪
ぽちありがとうございます。
そう。
人生で、自分で選択できないことと、選択できることがありますよね。
選択できないこと、あるいは経緯で選択せざる得ないものは、
運命のようなきがしますよね。
でも、選択できるものは、そうでもないような気もします。
そうでなければ、人生そのもが無意味になってしまいますものね。(#^.^#)
そうですね。これだけ絵付けをするには時間がかかったでしょうね。
昔の人の仕事って、偉いですよね。(^^♪
むかしの人の仕事に感動を覚えることって、ありますよね(^^♪
ぽちありがとうございます。
あはは・・
一応、廃人ならぬ俳人なので、詩人認められてよかった。。。(笑)
実は、この僕の運命論は、実は、ふぅさんの日記で拝見した、
良寛和尚の地震お見舞いの一説が、した地になっています。
「人生には、季節がある。死ぬべき時が来たなら、死ぬるがよい。」
という一節がありましたが、あれには、感動と同感を覚えましたよ。。
この手は、数が少なく、おそらく天保期は、間違えなさそうです。
ぽちありがとう。(#^.^#)
>自分の意思で何かを選らんでると思てても、それも神の意思で決められている
その考えは、ちよいといただけないよね。。(笑)
なんでも、かんでも、神様の責任にできる。
その考えが進むと、自分の行動は、すべて神のお告げ。
わたしの責任や意思、考えは、ないに等しい。
やがて、ノイローゼ患者となり、
病院に通院しかねない。。
濁り酒を沈殿されるための徳利の可能性が高いような気もします。
そうかんがえると、骨董商の言葉どうり、幕末期の可能性も高いかも?
明治以降の通い徳利で、あれだ大きいのもは、ほどんど見ませんから。。