信濃の千曲市一帯は、国指定史跡の埴科古墳群(森将軍塚古墳・倉科将軍塚古墳・有明山将軍塚古墳・土口将軍塚古墳)があります。森将軍塚古墳を始まりとして4~8世紀初頭頃に古代科野のクニがあったとされる地です。
そんな、千曲市の天城山(てしろやま)中腹に堂平古墳群があります。その中でももっとも大きなものが横穴式石室をもつ円墳「堂平大塚古墳」です。堂平古墳群の探訪記は、「斎場山古墳巡り」をご覧ください。
今回紹介した積石塚古墳は、堂平古墳群の中にあるのですが、そこへ通じる道がいっさいなく、昔からある細い山道も途中で消えてしまいます。獣道を通って行くような所にあるので地図で説明してもおそらく到達できないでしょう。私は何度も訪れていますが、地元の人でも知る人はわずかだろうと思います。
写真のように直径4メートルほどの積石塚古墳が三基並んでいます。古くはもっとたくさんあったと思われるのですが、戦国時代の戦乱や、その後の養蚕のための桑畑の開墾で畑の土留めに石が使われたりして、多くが破壊されてしまいました。この周囲には、その残骸と思われる石がたくさん見られます。また、現在は写真のように手入れのされていない雑木林に埋もれてしまっているので、場所を特定するのも困難です。中には森に埋没してしまったものもあると思われます。
この上の天城山頂上(坂山古墳)と北の尾根にも古墳がいくつかあります。またその下の上杉謙信が陣城を築いたとされる陣場平にも同様の石積みの跡があり、そこも古墳群があったのではと考えられます。大室古墳群と同様に、遠く故郷の高句麗を向いた山の北面に古墳群があるのも特徴的です。これらの古墳は、古墳時代後期のものといわれ、大室古墳群と同様に高句麗式の積石墳であるのが特徴です。
また、古い時代に盗掘、または破壊されていますが、斎場山古墳とそれに付随する七基の塚、川柳将軍塚古墳と六基の塚、有旅茶臼山の九基の塚との類似性や関係も興味深いところです。渡来人は、中国大陸から朝鮮半島や南西諸島などを経由して、古代日本に渡来し帰化した人々で、我々の祖先でもあります。その渡来の波は弥生時代に始まり幾度となく訪れたわけですが、その度に日本に技術、文化、政治の大きな変革をもたらしました。そう考えると、この山中に埋もれたただの石積みも深い古代の浪漫を物語っているのだと感嘆せずにはいられません。
★その他の古墳巡りは、【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の「森将軍塚・大室古墳群探訪」や、「川柳将軍塚古墳探訪」をご覧ください。