エイゼンシュテインの「モンタージュ論」は、僕の卒論のテーマである。当時左翼学生であった僕には、画面と画面のぶつかり合いによって第3のイメージを作り出すと言う理論が、正、反、合の弁証的発展だと気づき感動した。映画技術としてのカット割とその結合をモンタージュ論は芸術にまで高めたのである。 といっても具体的には素人にはわからないと思うので、少し映画の撮影方法について説明したい。
舞台と映画やテレビドラマの違いは、舞台は筋書きどうりに演じられるのに対して、映画の撮影現場においては、筋はまったく関係ないということである。筋はフィルムの編集によって完成する。映画において舞台装置があるのは舞台と変わりない。しかし映画にはロケーションがあり、オープンセットがある。装置やオープンセットはカメラの引き位置によって自由に取り外しが可能である。
これらの事を前提にして映画の撮影方法について述べてみたい。映画のシナリオはシーンとカットに分けられる。一つのシーンはいくつかのカットに分けられそのカットごとに撮影される。だから極端の場合、最初のシーンの最初のカットと最後のシーンの最後のカットが同時に撮影されることもありうる。ロケーションの場合、これも筋に関係なくロケ地における演技は全て撮影される。何故か?カメラ位置、照明、舞台装置など決定されるまでには膨大な時間と手間を必要とするからである。だからいったん決定されるとその位置からの撮影は筋に関係なく全て撮影される。AとBとの会話の場合、最初にAの顔が撮影され、次にBの顔が撮影される。AとBとの顔を交互に撮影されることは無い。役者にはイメージ力が要求される。相手に向かって演技するのではなく、カメラに向かって演技するからである。テストが何度も繰り返され、監督が納得すれば本番テスト本番となる。故に映画は完全に監督のものである。舞台では舞台に上がってしまえば監督の手を離れてしまうが、映画の場合はそれが無い。監督の意向を無視した演技はありえない。ここで活躍するのがカチンコである。カチンコには何シーン、何カットと記録されている。これが無いとフィルムの編集が出来ない。
ここで大切なものが「つながり」である。筋に関係の無いカット撮影であるが故に、「つながり」を忘れると大変なことになる。演技のつながり、小道具のつながり、装置のつながり、照明のつながり、衣装のつながり、等々である。記録係は演技のつながりを全て記録する。小道具係りは小道具のつながりを、デザイナーは装置のつながりを、照明係は照明のつながりを、衣装係は衣装のつながりを全て記録する。例えば、部屋の中で着ていたものを外に出たとき着ていなければ、おかしなものになる。部屋の中の撮影と外の撮影が別の日に行われうるからである。新人はこのつながりを忘れて大目玉を食う。取り直しになる。新人がつく場合、助監督、記録係、役者がそれなりに配慮してくれるので、あまり大事に至ることは無い。彼らが覚えてくれるからである。
余計な話であるが、テレビの場合、スポンサーの意向が大きく影響する。スポンサーが明治乳業の場合、公園の撮影で雪印のコマーシャルのあるベンチは全て取り払わねばならない。飲ます牛乳は全て明治牛乳でなければならない。
この技術としてのカット割を芸術にまで高めたのがエイゼンシュテインの「モンタージュ論」である。エイゼンシュテインの制作の「戦艦ポチョムキン」(ロシア帝国に反旗を翻した水兵の物語)の「オデッサの回廊」のシーンはあまりに有名である。兵士の銃撃による民衆の混乱と恐怖、息子を銃殺された母親の憎しみと悲しみ、片目をえぐられた女教師、母親の手を離れて階段を転げ落ちていく乳母車。兵士による市民への暴虐に対して戦艦の大砲が火を噴く!石造の獅子が咆哮する。カットされ断片化した映像を相互にぶつけていく。そのことにより市民の怒り、悲しみを最大限に表現する。迫力のある映像が作り上げられている。映画以外にこれを表現できるものは無い。正、反、合の弁証法である。これがモンータジュである。
余計な話であるが僕は、大学卒業後1年間ではあるが映画会社(昔の新東宝=今の国際放映)の舞台美術で働いた経験がある。
舞台と映画やテレビドラマの違いは、舞台は筋書きどうりに演じられるのに対して、映画の撮影現場においては、筋はまったく関係ないということである。筋はフィルムの編集によって完成する。映画において舞台装置があるのは舞台と変わりない。しかし映画にはロケーションがあり、オープンセットがある。装置やオープンセットはカメラの引き位置によって自由に取り外しが可能である。
これらの事を前提にして映画の撮影方法について述べてみたい。映画のシナリオはシーンとカットに分けられる。一つのシーンはいくつかのカットに分けられそのカットごとに撮影される。だから極端の場合、最初のシーンの最初のカットと最後のシーンの最後のカットが同時に撮影されることもありうる。ロケーションの場合、これも筋に関係なくロケ地における演技は全て撮影される。何故か?カメラ位置、照明、舞台装置など決定されるまでには膨大な時間と手間を必要とするからである。だからいったん決定されるとその位置からの撮影は筋に関係なく全て撮影される。AとBとの会話の場合、最初にAの顔が撮影され、次にBの顔が撮影される。AとBとの顔を交互に撮影されることは無い。役者にはイメージ力が要求される。相手に向かって演技するのではなく、カメラに向かって演技するからである。テストが何度も繰り返され、監督が納得すれば本番テスト本番となる。故に映画は完全に監督のものである。舞台では舞台に上がってしまえば監督の手を離れてしまうが、映画の場合はそれが無い。監督の意向を無視した演技はありえない。ここで活躍するのがカチンコである。カチンコには何シーン、何カットと記録されている。これが無いとフィルムの編集が出来ない。
ここで大切なものが「つながり」である。筋に関係の無いカット撮影であるが故に、「つながり」を忘れると大変なことになる。演技のつながり、小道具のつながり、装置のつながり、照明のつながり、衣装のつながり、等々である。記録係は演技のつながりを全て記録する。小道具係りは小道具のつながりを、デザイナーは装置のつながりを、照明係は照明のつながりを、衣装係は衣装のつながりを全て記録する。例えば、部屋の中で着ていたものを外に出たとき着ていなければ、おかしなものになる。部屋の中の撮影と外の撮影が別の日に行われうるからである。新人はこのつながりを忘れて大目玉を食う。取り直しになる。新人がつく場合、助監督、記録係、役者がそれなりに配慮してくれるので、あまり大事に至ることは無い。彼らが覚えてくれるからである。
余計な話であるが、テレビの場合、スポンサーの意向が大きく影響する。スポンサーが明治乳業の場合、公園の撮影で雪印のコマーシャルのあるベンチは全て取り払わねばならない。飲ます牛乳は全て明治牛乳でなければならない。
この技術としてのカット割を芸術にまで高めたのがエイゼンシュテインの「モンタージュ論」である。エイゼンシュテインの制作の「戦艦ポチョムキン」(ロシア帝国に反旗を翻した水兵の物語)の「オデッサの回廊」のシーンはあまりに有名である。兵士の銃撃による民衆の混乱と恐怖、息子を銃殺された母親の憎しみと悲しみ、片目をえぐられた女教師、母親の手を離れて階段を転げ落ちていく乳母車。兵士による市民への暴虐に対して戦艦の大砲が火を噴く!石造の獅子が咆哮する。カットされ断片化した映像を相互にぶつけていく。そのことにより市民の怒り、悲しみを最大限に表現する。迫力のある映像が作り上げられている。映画以外にこれを表現できるものは無い。正、反、合の弁証法である。これがモンータジュである。
余計な話であるが僕は、大学卒業後1年間ではあるが映画会社(昔の新東宝=今の国際放映)の舞台美術で働いた経験がある。