人は神になれるか?
神は仰せられた「さあ人を作ろう、我々の形として、われらに似せて。彼らが海の魚、空の鳥、家畜,地の全てのものを支配するように(創世記第1章26)」神は人の住める全ての環境を整えた後、最後に人を作ったのである。それは6日目であった。そして7日目に全ての業を離れて安息日にした。このように神は自分に似せて人を作ったのである。最初の人間とはアダムとイブである。アダムは大地の塵から作られ、男となった。イブはアダムの肋骨から作られ女となった。これが人の原初形態である。しかし神は異次元の存在であり、隠れた存在であるが故にその形は見る事は出来ない、不可知である。だから、アダムとイブの姿を見る事によって、人は逆に神の姿を知るのである。それはキリストの場合も同じである。新約聖書はキリストの生誕から始まる。キリストは神の精霊と、処女マリアの間に生まれた存在であり、神と子(キリスト)と聖霊の三位一体として神とみなされる。キリストも神に似せて作られたのである。この場合もキリストを通じてのみ神の姿が知らされるのである。「キリストさまは、目に見えない神様に生き写しの方であり--------」(新約聖書コロサイ人への手紙第1章15)。ここには人の姿から神の姿を知るという逆転がある。逆も真なりである。この逆説が人間存在を知る上での基本となる。このことから、神は人の観念が生み出した存在であるという唯物論者の理論に根拠を与える。これは極めて重要な問題であり、神と人との関係を探る上で大きな課題を提起するが、ここでは取り上げない。何時か語ることもあると思う。
神は、自分の姿、形に似せてだけ人を作ったのではない。当然その神聖なる心も人に譲渡したと考えるべきであろう。人は人としての肉体をもった存在であると同時に、神としての精霊を持った存在として作られたのである。このように人とは霊的存在として神の像を内に持つと同時に、アダムとイブの犯した罪により原罪を持つ存在として、そのうちに悪魔の像を併せ持つ矛盾した存在となる。しかし人は、罪に先立って霊的存在になったということにより、人間の内なる神の像は、人間の犯した原罪によっては破壊されないのである。
さきに述べたように人は神の似姿として作られたが為にその内部に精霊を持つ霊的存在でもある。それ故、全ての聖者、聖母マリア、そしてキリストの持つ一切の善等々をアプリオリに、先験的に持つ存在である。神はそれを照らし、人に示してくれる。その為にキリストをこの世に遣わされた。インマニュエル(キリスト)、神は人と共にある。同時に、贖罪によってその罪は贖われる。神と人とは和解する。神からの一方的恵み=啓示によって人は救われるのではない。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という短編小説を思い出す。大悪党のカンダタという男が煉獄の中で苦しんでいる姿を、お釈迦さまが天からご覧になって、これを救おうとなさる。カンダタは大悪党ではあったが、一匹の蜘蛛をその慈悲心から踏みつぶさず救ったことがあった。そんな、ほんの少しの慈悲心を知ったお釈迦様は蜘蛛の糸を垂らしてこれを救おうとする。カンダタはその糸にすがりつき天を目指して登り始める。そして下を見た時、多くの罪人たちがカンダタのあとについて登り始めているのに気づく。自分だけが救われたいと思うカンダタは叫ぶ。「この糸は俺のためにだけ下された救いの糸なのだ、手を離せ」と。この時一陣の風が吹き。蜘蛛の糸は切れ、カンダタは煉獄に逆戻りする。神の愛と、自分だけが救われたいと云う人間の弱さをあらわした短編である。その気持ちを考えると悲しい。そこには人間の性(さが)の悲しさがある。これは、カンダタの中に潜む善と悪とを典型的にあらわした物語である。どんな大悪党の中にも慈悲の心がもともと備わっているのである。しかし別の見方をすれば、お釈迦さまがカンダタの中にある善なる心を認め、それをカンダタに知らしめたのである。カンダタはその救いを拒否する。人間の神からの自立をあらわしたものと考えても良いかもしれない。そこには近代的自我の萌芽を読み取ることが出来る。芥川ほどの作家が、単に因果応報の物語を書いたとも思えないのである。近代とは神と人間の戦いを示している。
人は神に似せて作られたのである。その似姿とは何であろうか?似姿とは、あくまでも似姿であって、神そのものではない。神に従い。神に近づく存在として、神のために作られた存在が似姿なのである。似姿は模倣に過ぎない。神の下位に位置する存在である。人は神になれるのか?
人の目的するものが、永遠の命を預かることにあるならば、すなわち、神になることにあるならば、不滅性と不死性を持つ神に対し、有限であり、可死性の存在である人はいかにして神になり得るのか?人は生きて神になれると考えるとしたら神話になる。人はその為には霊的な存在になる必要がある。神を信じ霊的な復活の後に永遠の生を得て、神の国に入る。永遠の命は死後の世界にある。かくして人は霊的に完成する。
しかし、個人としてではなく、種としての人を考える場合、永遠の命が現実において、与えられてもおかしくない。神は人の現実の世界に神の国が来る事を願っている。その為には万人が神を信じ、永遠の命を得なければならない。気の遠くなるような長い、長い道のりである。神の教えが地上に浸透し、全人類が高められねばならない。しかし。今、神を信じる者は少ない。
すべての人に神は門戸を開いているという。決して拒まない。ただ神を信じさえすれば、あなたは救われるという。こんな上手い話はないという。しかし、世界の圧倒的多数の人は神を知らない。興味すら示さない。そんな中、自分達の教えこそ真実であり、それを信じる者だけが救われるという。そこには独善的な排他性があり、偏見があり、自己絶対化の論理があり、自分のみを尊しとする狭隘な選民思想がある。それ故、横に繋がるネットワークを持たない。他を認める寛容さが無い。キリスト教だけでも多くの宗派があり、拮抗している。更にキリスト教以外にも、イスラム教、ユダヤ教、仏教、神道等々があるが、圧倒的多数は宗教には無関心である。もう、これ以上は書きたくはない。云わんとしている事は分かっていると思う。要はキリスト者のみが救われてもあまり意味が無いと云いたいのである。神はキリスト者だけのために存在しているのではない。すべての人間のために、神を信じる人にも、神を信じない人にも開放されているのである。自己絶対化から自己を相対化し、横に繋がるネットワークを作ることが必要なのである。宗教的偏見からは何も生み出さない。僕が神に期待するのは、世界平和と、地球の再生である。神と言っても、悪魔と言っても実態のある存在ではない。それは人の心の中に存在しているのである。人は矛盾した存在である故に、神にも成れるし悪魔にも成れる。悪魔は絶えず囁きかける、「この世の富を全てお前に与えるから私を信じろ」と。しかしその結果を示さない。悪魔の目的は、神の作りたもうた地球を破壊することにある。そうならないためには、心の中に神の国を作ることなのである。
さて、近代~現代は心の時代から、物の時代に移行した時代である。日本を例にとれば高度成長期は、努力すれば報われた時代であった。その結果、物は巷にあふれ、贅沢は日常になった。使い捨て文化は資本の回転を早め、資本主義の発展を促した。日本はアメリカの後追いをしていると云われている。アメリカンドリームという言葉がはやり「ジャイアンツ」という映画にみられるように努力は巨大な富をもたらした。しかし、その結果は決して幸せをもたらさなかった。景気は停滞し、格差は拡大し、人の心は乱れた。何の理由も無く、銃は乱射され、多くの子供たちが殺された。そんな社会は我々にとって一つの見本にならなければならなかった。今、日本はそんなアメリカを後追いしている。アメリカと同じく経済は停滞し、景気循環は阻害され、長期停滞社会が訪れている。未来を正確には予想できず、人口減、高齢化、少子化が進み、製造業の海外流出による空洞化、失業の激化、就職難、等々将来を悲観する要素に溢れている。物を追求することにより地球の破壊は進み、低開発国と先進国の格差は広がり、低開発国の犠牲のもとに先進国は富んでいる。世界平和は阻害され、戦いは日常的になり、人の心は荒んでいる。
全ての国が富んだらどうなるか?その結果は見えている。限られた資源は枯渇し、国土は荒廃し、自然は破壊され、限られた資源を巡って争いが起る。そこに未来はない。物を追求する時代は終わったことを人は理解しない。絶対的幸福とは何か?もはや物は幸せをもたらさない。
加藤登紀子は仏教国ブータンを訪れ、そこに貧しくとも、人と人とが愛と善意をもって触れ合える素朴で牧歌的世界が存在しているのを感じたという。そこにはGDP(国内総生産)神話はない。貧しくとも、心の平安と安定があるという。日本のような物礼讃の中に育った人間には違和感を感ずる世界ではあっても、そこには本来の社会があるのを感じたという。そこには贅沢はない。生活するに最低限のものしか用意されていないが、それに文句を言う者はいないという。足るを知る社会である。僧侶は街に溢れ尊敬されているという。人々は貧しくとも喜捨することを当然と考え、それに喜びを感じているという。神は人と共にある。我々とは求めるものが違うのである。
物から心の時代へ、神を求める世界へ。絶対的幸福とは何か?今それを真剣に考える時ではないだろうか。
神は仰せられた「さあ人を作ろう、我々の形として、われらに似せて。彼らが海の魚、空の鳥、家畜,地の全てのものを支配するように(創世記第1章26)」神は人の住める全ての環境を整えた後、最後に人を作ったのである。それは6日目であった。そして7日目に全ての業を離れて安息日にした。このように神は自分に似せて人を作ったのである。最初の人間とはアダムとイブである。アダムは大地の塵から作られ、男となった。イブはアダムの肋骨から作られ女となった。これが人の原初形態である。しかし神は異次元の存在であり、隠れた存在であるが故にその形は見る事は出来ない、不可知である。だから、アダムとイブの姿を見る事によって、人は逆に神の姿を知るのである。それはキリストの場合も同じである。新約聖書はキリストの生誕から始まる。キリストは神の精霊と、処女マリアの間に生まれた存在であり、神と子(キリスト)と聖霊の三位一体として神とみなされる。キリストも神に似せて作られたのである。この場合もキリストを通じてのみ神の姿が知らされるのである。「キリストさまは、目に見えない神様に生き写しの方であり--------」(新約聖書コロサイ人への手紙第1章15)。ここには人の姿から神の姿を知るという逆転がある。逆も真なりである。この逆説が人間存在を知る上での基本となる。このことから、神は人の観念が生み出した存在であるという唯物論者の理論に根拠を与える。これは極めて重要な問題であり、神と人との関係を探る上で大きな課題を提起するが、ここでは取り上げない。何時か語ることもあると思う。
神は、自分の姿、形に似せてだけ人を作ったのではない。当然その神聖なる心も人に譲渡したと考えるべきであろう。人は人としての肉体をもった存在であると同時に、神としての精霊を持った存在として作られたのである。このように人とは霊的存在として神の像を内に持つと同時に、アダムとイブの犯した罪により原罪を持つ存在として、そのうちに悪魔の像を併せ持つ矛盾した存在となる。しかし人は、罪に先立って霊的存在になったということにより、人間の内なる神の像は、人間の犯した原罪によっては破壊されないのである。
さきに述べたように人は神の似姿として作られたが為にその内部に精霊を持つ霊的存在でもある。それ故、全ての聖者、聖母マリア、そしてキリストの持つ一切の善等々をアプリオリに、先験的に持つ存在である。神はそれを照らし、人に示してくれる。その為にキリストをこの世に遣わされた。インマニュエル(キリスト)、神は人と共にある。同時に、贖罪によってその罪は贖われる。神と人とは和解する。神からの一方的恵み=啓示によって人は救われるのではない。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という短編小説を思い出す。大悪党のカンダタという男が煉獄の中で苦しんでいる姿を、お釈迦さまが天からご覧になって、これを救おうとなさる。カンダタは大悪党ではあったが、一匹の蜘蛛をその慈悲心から踏みつぶさず救ったことがあった。そんな、ほんの少しの慈悲心を知ったお釈迦様は蜘蛛の糸を垂らしてこれを救おうとする。カンダタはその糸にすがりつき天を目指して登り始める。そして下を見た時、多くの罪人たちがカンダタのあとについて登り始めているのに気づく。自分だけが救われたいと思うカンダタは叫ぶ。「この糸は俺のためにだけ下された救いの糸なのだ、手を離せ」と。この時一陣の風が吹き。蜘蛛の糸は切れ、カンダタは煉獄に逆戻りする。神の愛と、自分だけが救われたいと云う人間の弱さをあらわした短編である。その気持ちを考えると悲しい。そこには人間の性(さが)の悲しさがある。これは、カンダタの中に潜む善と悪とを典型的にあらわした物語である。どんな大悪党の中にも慈悲の心がもともと備わっているのである。しかし別の見方をすれば、お釈迦さまがカンダタの中にある善なる心を認め、それをカンダタに知らしめたのである。カンダタはその救いを拒否する。人間の神からの自立をあらわしたものと考えても良いかもしれない。そこには近代的自我の萌芽を読み取ることが出来る。芥川ほどの作家が、単に因果応報の物語を書いたとも思えないのである。近代とは神と人間の戦いを示している。
人は神に似せて作られたのである。その似姿とは何であろうか?似姿とは、あくまでも似姿であって、神そのものではない。神に従い。神に近づく存在として、神のために作られた存在が似姿なのである。似姿は模倣に過ぎない。神の下位に位置する存在である。人は神になれるのか?
人の目的するものが、永遠の命を預かることにあるならば、すなわち、神になることにあるならば、不滅性と不死性を持つ神に対し、有限であり、可死性の存在である人はいかにして神になり得るのか?人は生きて神になれると考えるとしたら神話になる。人はその為には霊的な存在になる必要がある。神を信じ霊的な復活の後に永遠の生を得て、神の国に入る。永遠の命は死後の世界にある。かくして人は霊的に完成する。
しかし、個人としてではなく、種としての人を考える場合、永遠の命が現実において、与えられてもおかしくない。神は人の現実の世界に神の国が来る事を願っている。その為には万人が神を信じ、永遠の命を得なければならない。気の遠くなるような長い、長い道のりである。神の教えが地上に浸透し、全人類が高められねばならない。しかし。今、神を信じる者は少ない。
すべての人に神は門戸を開いているという。決して拒まない。ただ神を信じさえすれば、あなたは救われるという。こんな上手い話はないという。しかし、世界の圧倒的多数の人は神を知らない。興味すら示さない。そんな中、自分達の教えこそ真実であり、それを信じる者だけが救われるという。そこには独善的な排他性があり、偏見があり、自己絶対化の論理があり、自分のみを尊しとする狭隘な選民思想がある。それ故、横に繋がるネットワークを持たない。他を認める寛容さが無い。キリスト教だけでも多くの宗派があり、拮抗している。更にキリスト教以外にも、イスラム教、ユダヤ教、仏教、神道等々があるが、圧倒的多数は宗教には無関心である。もう、これ以上は書きたくはない。云わんとしている事は分かっていると思う。要はキリスト者のみが救われてもあまり意味が無いと云いたいのである。神はキリスト者だけのために存在しているのではない。すべての人間のために、神を信じる人にも、神を信じない人にも開放されているのである。自己絶対化から自己を相対化し、横に繋がるネットワークを作ることが必要なのである。宗教的偏見からは何も生み出さない。僕が神に期待するのは、世界平和と、地球の再生である。神と言っても、悪魔と言っても実態のある存在ではない。それは人の心の中に存在しているのである。人は矛盾した存在である故に、神にも成れるし悪魔にも成れる。悪魔は絶えず囁きかける、「この世の富を全てお前に与えるから私を信じろ」と。しかしその結果を示さない。悪魔の目的は、神の作りたもうた地球を破壊することにある。そうならないためには、心の中に神の国を作ることなのである。
さて、近代~現代は心の時代から、物の時代に移行した時代である。日本を例にとれば高度成長期は、努力すれば報われた時代であった。その結果、物は巷にあふれ、贅沢は日常になった。使い捨て文化は資本の回転を早め、資本主義の発展を促した。日本はアメリカの後追いをしていると云われている。アメリカンドリームという言葉がはやり「ジャイアンツ」という映画にみられるように努力は巨大な富をもたらした。しかし、その結果は決して幸せをもたらさなかった。景気は停滞し、格差は拡大し、人の心は乱れた。何の理由も無く、銃は乱射され、多くの子供たちが殺された。そんな社会は我々にとって一つの見本にならなければならなかった。今、日本はそんなアメリカを後追いしている。アメリカと同じく経済は停滞し、景気循環は阻害され、長期停滞社会が訪れている。未来を正確には予想できず、人口減、高齢化、少子化が進み、製造業の海外流出による空洞化、失業の激化、就職難、等々将来を悲観する要素に溢れている。物を追求することにより地球の破壊は進み、低開発国と先進国の格差は広がり、低開発国の犠牲のもとに先進国は富んでいる。世界平和は阻害され、戦いは日常的になり、人の心は荒んでいる。
全ての国が富んだらどうなるか?その結果は見えている。限られた資源は枯渇し、国土は荒廃し、自然は破壊され、限られた資源を巡って争いが起る。そこに未来はない。物を追求する時代は終わったことを人は理解しない。絶対的幸福とは何か?もはや物は幸せをもたらさない。
加藤登紀子は仏教国ブータンを訪れ、そこに貧しくとも、人と人とが愛と善意をもって触れ合える素朴で牧歌的世界が存在しているのを感じたという。そこにはGDP(国内総生産)神話はない。貧しくとも、心の平安と安定があるという。日本のような物礼讃の中に育った人間には違和感を感ずる世界ではあっても、そこには本来の社会があるのを感じたという。そこには贅沢はない。生活するに最低限のものしか用意されていないが、それに文句を言う者はいないという。足るを知る社会である。僧侶は街に溢れ尊敬されているという。人々は貧しくとも喜捨することを当然と考え、それに喜びを感じているという。神は人と共にある。我々とは求めるものが違うのである。
物から心の時代へ、神を求める世界へ。絶対的幸福とは何か?今それを真剣に考える時ではないだろうか。