人の罪と罰、そして救い
今回の「人の罪と罰、そして救い」は人の持つ罪を問い、宿業の世界に深針を入れ、人間の救済の可能性を追求したものであり、3つの文学作品と1つの映画を例に挙げ考察してみた。その作品とは、森村誠一作「人間の証明」、サマセット・モーム作「雨」、ドストエフスキー作「罪と罰」、マービン・ルロイ監督、映画「哀愁」である。ここで、人間によって後天的に獲得された知性、理性、道徳など心理的・社会的動機を離れたところにある、人知を超えた人の心の深層にある罪とは何かについて考えてみた。
森村誠一「人間の証明」
今をときめくファションデザイナー八杉恭子にはどこか過去を感じさせる陰のある美しさがあった。そのファッション・ショーが東京ロイヤルホテルの42階で華やかに開かれていた。その八杉のもとに混血の黒人男性が訪ねてくる。しかし彼はエレベータの中で何者かに胸をナイフで刺され殺される。捜査が始まる、殺された男性の名はジョニー・ヘイワード。その男性の身元を洗っていくうちに意外な事実が判明する。この黒人男性は八杉恭子の実の息子だったのである。戦後の混乱期、八杉恭子はGI相手の怪しげなバーで働いていた。その時知り合った黒人との間に生まれたのがジョニー・ヘイワードだった。ジョニーとその父親はアメリカに帰っていく。日本人の八杉恭子は共に帰ることが許されなかった。八杉恭子は未婚の母だったのである。息子と、その父親に去られた薄倖の母は、その苦しみをばねに、血の出るような努力を重ね人気絶頂の女流デザイナーにのし上がったのである。その将来はバラ色であった。この時八杉恭子の前に現れたのが息子のジョニーであった。久しぶりに息子のジョニーに会った八杉恭子はどんなに嬉しかったかは、想像するに余りある。思い切り抱きしめてやりたかったに違いない。しかし、その事実がマスコミに暴かれたらどうなるか?過去に黒人との間に関係のあった女、その息子との出会い。マスコミの好餌となる。その結果、彼女のデザイナー生命は絶たれるかもしれない。愛か名声か?思い悩んだあげく彼女の選んだ道は、過去を抹殺することであった。その犠牲者の最初の一人がショ二―だったのである。彼女は捜査が自らに及ぶ前に過去を知る人間を次々に殺していく。そして捜査の手が自らに及んだ時、霧降高原の高みから身を投げて死んでいく。それが彼女の罪と罰であった。愛を犠牲にしてまで名声を求める人間の心の弱さ、人間の性(さが)の悲しさ。それが罪である。罪とは悲しい。
サマセットモーム「雨」中野好夫訳
布教の情熱に燃え、狂信的で冷酷無比な宣教師デヴィドソンは、任地に赴く途中、南海のアメリカ領サモア諸島の一つパゴパゴ島に上陸する。時は雨期、激しく降り続ける雨と、麻疹(はしか)の発生による、検疫のため、船は2週間程の足止めを余儀なくされる。ここで彼は同じ船の2等船客でいかがわしい商売女サディー・トムソンと同宿になる。彼女はその無聊を慰めるため、部屋に船員を連れ込み、蓄音機を鳴らし、乱痴気騒ぎを繰り返した。激しい雨と女たちの乱痴気騒ぎはデビッドソンの心を狂わせた。忍耐にも限界があった。彼は彼女をキリストの教えで導き真人間にするべく教化に乗り出す。
サディー・トムソンにはセクシュアルで、みだらな魅力に富み、どこか憎めない、人を惹きつける魔力があった。それに反して宣教師デヴィドソンは、神の教えを守ること、広めることを絶対の義務とする人に特有な、どこか抑圧された火のようなものがあり、いつ崩れるか分からない不安を人に抱かせた。決して親しみを人に感じさせる存在ではなかった。
宣教師デヴィドソンと商売女トムソンは対決する。何日にも及んだ説得は、勝利を収めたかに見えた。トムソンはおとなしくなり、人の心を狂わせていたレコードの音は止み、乱痴気騒ぎは治まった。ただ雨だけが激しく降っていた。
しかし事態は意外な方向に展開する。説得により、神の愛を示し、彼女の中に神の愛を求めていた、宣教師デヴィドソンの水死体が浜辺に上がったのである。自殺であった。
何故か?作者はそれについては何も語っていない。ただ「男なんてみんなおんなじだ、豚だ」と叫んだ彼女の叫びから想像するだけである。
悪徳に染まった女性を正しい宗教的道徳によって導き、更生させようとした宣教師デヴィドソンが、結局自らの欲望に抗しきれず、破れ去った姿がそこにあった。彼は彼女に誘惑されたのである。
「汝、姦淫することなかれ」という戒律を犯したデヴィドソンは人一倍戒律に厳しい牧師であったが故に、事が終わり、オスがヒトとなり、ヒトが聖職者に戻った時、自分の犯した罪におののき愕然とする。女は男を軽蔑のまなざしで見、嘲笑したであろう。それに耐え得る図太さは彼には無かった。死を選ぶ以外に方法は無かったのである。自殺はキリスト者には禁じられている。彼は二つの罪を犯したのである。
トムソンはもとのみだらな商売女に戻っていた。商売女は聖職者に勝ったのである。性は聖に勝ったのである。
そこには、人間の弱さ、業の深さ、人間の性(さが)の悲しさがある。それが人の持つ罪である。罪とは悲しい。
雨は人間の欲望を募らせ、人の心を狂わせる象徴である。時は雨期、連日のように降る激しいスコールは次第に登場人物の心を狂わせていく。
人間の根元にある本性、欲望、情念、性(さが)、そして人間の表層にある理性、道徳、知性、との闘いが宣教師デヴィドソンと商売女トムソンとの間に繰り広げられたのである。その結果を示すものがこの作品である。是非読んでほしい。
ドストエフスキー「罪と罰」米川正夫訳
次にあげるのは「罪と罰」に出てくるマルメラードフである。マルメラードフはこの作品の主人公ではない。主人公はラスコーリニコフという「ナポレオン主義」という彼独特の哲学を持ち金貸しの老婆を殺害する青年である。その罪と罰については述べる機会があるかもしれない。
マルメラードフは下級官吏(九等官)の職を持ちながらもその仕事に熱意を示さず、酒に身を持ち崩した酔漢である。彼は場末の酒場で出会ったラスコーリニコフと卓を囲みながら酒に身を持ち崩した理由を縷々語る。家族の窮状を、悲惨な運命を訴える。そんな中で自分の生きる道を探り、求め、求めながらも、求め得ず、自分を見失っていく。その結果出会ったものが酒である。しかし酒は彼を、救わない。救わないが故に酒を求める。自分を忘れたいのである。そんな姿をラスコーリニコフに見せつける。
働かず、いや働けず、酒代を、彼の娘で、ラスコーリニコフの恋人となるソーニャに頼り、肺病やみで、働くことの出来ない母親と3人の幼い異母弟妹を養うために、自分の身を売ってまで、稼いだ血の出るような金を取り上げそれを酒にあてる。そんな彼に対して、何一つ文句を言わず、とがめ立てもせず、怒りもせず、黙って金を差し出す娘の憐れむような眼差しに接して、自分を磔にされても足りないほどの邪悪な人間だと良心の呵責に責め苛まれながらも、自分を制することが出来ない。酒への誘惑と、欲望に負けてそれに溺れていく。こうして、次第、次第に苦痛と屈辱の泥沼の中に吸い込まれていく。そこから這い上がれないし、這い上がる意志も持たない。そんな生活に浸りながらもそれに快感すら味わう敗残者である。その結果肺病やみの妻は発狂して血を吐いて死んでいく。彼自身も酔っぱらったあげく馬車に轢かれて死んでいく。多分自殺であろう。弱さを典型的にあらわした人間としてドストエフスキーは彼を描いていく。そこには人間の持つ、その意志とは関係のない業の深さ、悲しさ、寂しさがある。それが罪である。
人は神の声を知らずして罪を犯すのではない。神の意志を知りながら、罪の欲求に抗しかね自ら欲せずして、これを欲する。これが罪である。彼は絶叫する。現実世界では得られなかった神の愛と慈悲の心が来世において与えられんことを。求めに対して神は応え賜う。しかし知者、賢者は神に問う「なぜ彼のような豚が救われるのか?」と。神は応えて云われる「彼の中に、それに値するものが何もないからだ」と。
映画「哀愁」マービン・ルロイ監督
この映画は、ロバート・テイラー演ずる英国将校ロイ・クローニン大尉が、ウォータールーの橋のたもとで、今は亡き恋人でビビアンリー演ずるバレエダンサー、マイラ・レスターを追想して、思い出に耽るシーンから始まる。この映画は第一次世界大戦のもと、運命のいたずらに翻弄されて、悲劇的な結末を迎える美しくも、悲しい恋物語である。
舞台は、第一次世界大戦下のロンドン。空襲警報鳴り響くウォータールーの橋の上で、ロイとマイラは知り合い、瞬く間に恋に陥り、結婚の約束までする。しかし、ロイに応召の知らせが届く。ロイは戦場に、マイラは健気に彼の帰還を待つ。その彼女が見たものが彼の戦死の情報であった。彼女は絶望する。その悲しみから立ち直れない。彼女は毎夜街に出てロイに似た男に声をかけ、関係を持つ。次第に夜の女に転落していく。そしてそんな堕落した生活の中で、彼女が知ったのは、彼の戦死が誤報であったことである。彼は帰還する。二人は再会する。ロイもマイラも喜びを隠せない。しかし、マイラは自分の今の境遇に悩み葛藤する。ロイの家に行きロイの母親に会う。母親は彼女の真実を知る。彼女は彼と結婚できない。諦める。ロイはそれを知らない。彼女は絶望のあまりウォータールーの橋の上で軍用トラックに身を投げて死んでいく。橋にたたずみマイラの思い出に浸るロイの心の中にあったものは、決して汚れた彼女の姿ではなく、まだ汚れを知らなかったころの清純で、純真な彼女の姿であった。
この作品にはいくつかの「もしも」がある。もしも、ロイが戦地に行かなかったら、もしも戦死の誤報が無かったら、当然運命は変わっていたであろう。しかし人生において「もしも」は考えられない。時間は不可逆性であり、もとに戻らないからである。「これしかない」のである。マイラの死は運命づけられていたのである。選択の余地はない。運命は神が作る、人は運命に従う以外ない。
ロイを偲び、ロイを求めて夜の女に転落したマイラ、その罪と罰は何によって贖うべきか?罪とは悲しい。
以上のように人は原罪を抱えた存在であるが故に、常に罪を犯す可能性を秘めている。その可能性は人の持つ霊性、社会的規制によって、その現実性は、日頃は抑えられている。しかし、人間の行為の中には闇の部分が多くあり、暗いエネルギーを蓄えている。それ故、人の行為は、論理的因果関係を断ち切る、奈落の意識をたたえている。その意識が実現するかどうかは、人間自身にも不可知である。人は欲せずして、欲するのである。それが罪として現実化する。罪とは恐ろしく、かつ悲しい。
今回の「人の罪と罰、そして救い」は人の持つ罪を問い、宿業の世界に深針を入れ、人間の救済の可能性を追求したものであり、3つの文学作品と1つの映画を例に挙げ考察してみた。その作品とは、森村誠一作「人間の証明」、サマセット・モーム作「雨」、ドストエフスキー作「罪と罰」、マービン・ルロイ監督、映画「哀愁」である。ここで、人間によって後天的に獲得された知性、理性、道徳など心理的・社会的動機を離れたところにある、人知を超えた人の心の深層にある罪とは何かについて考えてみた。
森村誠一「人間の証明」
今をときめくファションデザイナー八杉恭子にはどこか過去を感じさせる陰のある美しさがあった。そのファッション・ショーが東京ロイヤルホテルの42階で華やかに開かれていた。その八杉のもとに混血の黒人男性が訪ねてくる。しかし彼はエレベータの中で何者かに胸をナイフで刺され殺される。捜査が始まる、殺された男性の名はジョニー・ヘイワード。その男性の身元を洗っていくうちに意外な事実が判明する。この黒人男性は八杉恭子の実の息子だったのである。戦後の混乱期、八杉恭子はGI相手の怪しげなバーで働いていた。その時知り合った黒人との間に生まれたのがジョニー・ヘイワードだった。ジョニーとその父親はアメリカに帰っていく。日本人の八杉恭子は共に帰ることが許されなかった。八杉恭子は未婚の母だったのである。息子と、その父親に去られた薄倖の母は、その苦しみをばねに、血の出るような努力を重ね人気絶頂の女流デザイナーにのし上がったのである。その将来はバラ色であった。この時八杉恭子の前に現れたのが息子のジョニーであった。久しぶりに息子のジョニーに会った八杉恭子はどんなに嬉しかったかは、想像するに余りある。思い切り抱きしめてやりたかったに違いない。しかし、その事実がマスコミに暴かれたらどうなるか?過去に黒人との間に関係のあった女、その息子との出会い。マスコミの好餌となる。その結果、彼女のデザイナー生命は絶たれるかもしれない。愛か名声か?思い悩んだあげく彼女の選んだ道は、過去を抹殺することであった。その犠牲者の最初の一人がショ二―だったのである。彼女は捜査が自らに及ぶ前に過去を知る人間を次々に殺していく。そして捜査の手が自らに及んだ時、霧降高原の高みから身を投げて死んでいく。それが彼女の罪と罰であった。愛を犠牲にしてまで名声を求める人間の心の弱さ、人間の性(さが)の悲しさ。それが罪である。罪とは悲しい。
サマセットモーム「雨」中野好夫訳
布教の情熱に燃え、狂信的で冷酷無比な宣教師デヴィドソンは、任地に赴く途中、南海のアメリカ領サモア諸島の一つパゴパゴ島に上陸する。時は雨期、激しく降り続ける雨と、麻疹(はしか)の発生による、検疫のため、船は2週間程の足止めを余儀なくされる。ここで彼は同じ船の2等船客でいかがわしい商売女サディー・トムソンと同宿になる。彼女はその無聊を慰めるため、部屋に船員を連れ込み、蓄音機を鳴らし、乱痴気騒ぎを繰り返した。激しい雨と女たちの乱痴気騒ぎはデビッドソンの心を狂わせた。忍耐にも限界があった。彼は彼女をキリストの教えで導き真人間にするべく教化に乗り出す。
サディー・トムソンにはセクシュアルで、みだらな魅力に富み、どこか憎めない、人を惹きつける魔力があった。それに反して宣教師デヴィドソンは、神の教えを守ること、広めることを絶対の義務とする人に特有な、どこか抑圧された火のようなものがあり、いつ崩れるか分からない不安を人に抱かせた。決して親しみを人に感じさせる存在ではなかった。
宣教師デヴィドソンと商売女トムソンは対決する。何日にも及んだ説得は、勝利を収めたかに見えた。トムソンはおとなしくなり、人の心を狂わせていたレコードの音は止み、乱痴気騒ぎは治まった。ただ雨だけが激しく降っていた。
しかし事態は意外な方向に展開する。説得により、神の愛を示し、彼女の中に神の愛を求めていた、宣教師デヴィドソンの水死体が浜辺に上がったのである。自殺であった。
何故か?作者はそれについては何も語っていない。ただ「男なんてみんなおんなじだ、豚だ」と叫んだ彼女の叫びから想像するだけである。
悪徳に染まった女性を正しい宗教的道徳によって導き、更生させようとした宣教師デヴィドソンが、結局自らの欲望に抗しきれず、破れ去った姿がそこにあった。彼は彼女に誘惑されたのである。
「汝、姦淫することなかれ」という戒律を犯したデヴィドソンは人一倍戒律に厳しい牧師であったが故に、事が終わり、オスがヒトとなり、ヒトが聖職者に戻った時、自分の犯した罪におののき愕然とする。女は男を軽蔑のまなざしで見、嘲笑したであろう。それに耐え得る図太さは彼には無かった。死を選ぶ以外に方法は無かったのである。自殺はキリスト者には禁じられている。彼は二つの罪を犯したのである。
トムソンはもとのみだらな商売女に戻っていた。商売女は聖職者に勝ったのである。性は聖に勝ったのである。
そこには、人間の弱さ、業の深さ、人間の性(さが)の悲しさがある。それが人の持つ罪である。罪とは悲しい。
雨は人間の欲望を募らせ、人の心を狂わせる象徴である。時は雨期、連日のように降る激しいスコールは次第に登場人物の心を狂わせていく。
人間の根元にある本性、欲望、情念、性(さが)、そして人間の表層にある理性、道徳、知性、との闘いが宣教師デヴィドソンと商売女トムソンとの間に繰り広げられたのである。その結果を示すものがこの作品である。是非読んでほしい。
ドストエフスキー「罪と罰」米川正夫訳
次にあげるのは「罪と罰」に出てくるマルメラードフである。マルメラードフはこの作品の主人公ではない。主人公はラスコーリニコフという「ナポレオン主義」という彼独特の哲学を持ち金貸しの老婆を殺害する青年である。その罪と罰については述べる機会があるかもしれない。
マルメラードフは下級官吏(九等官)の職を持ちながらもその仕事に熱意を示さず、酒に身を持ち崩した酔漢である。彼は場末の酒場で出会ったラスコーリニコフと卓を囲みながら酒に身を持ち崩した理由を縷々語る。家族の窮状を、悲惨な運命を訴える。そんな中で自分の生きる道を探り、求め、求めながらも、求め得ず、自分を見失っていく。その結果出会ったものが酒である。しかし酒は彼を、救わない。救わないが故に酒を求める。自分を忘れたいのである。そんな姿をラスコーリニコフに見せつける。
働かず、いや働けず、酒代を、彼の娘で、ラスコーリニコフの恋人となるソーニャに頼り、肺病やみで、働くことの出来ない母親と3人の幼い異母弟妹を養うために、自分の身を売ってまで、稼いだ血の出るような金を取り上げそれを酒にあてる。そんな彼に対して、何一つ文句を言わず、とがめ立てもせず、怒りもせず、黙って金を差し出す娘の憐れむような眼差しに接して、自分を磔にされても足りないほどの邪悪な人間だと良心の呵責に責め苛まれながらも、自分を制することが出来ない。酒への誘惑と、欲望に負けてそれに溺れていく。こうして、次第、次第に苦痛と屈辱の泥沼の中に吸い込まれていく。そこから這い上がれないし、這い上がる意志も持たない。そんな生活に浸りながらもそれに快感すら味わう敗残者である。その結果肺病やみの妻は発狂して血を吐いて死んでいく。彼自身も酔っぱらったあげく馬車に轢かれて死んでいく。多分自殺であろう。弱さを典型的にあらわした人間としてドストエフスキーは彼を描いていく。そこには人間の持つ、その意志とは関係のない業の深さ、悲しさ、寂しさがある。それが罪である。
人は神の声を知らずして罪を犯すのではない。神の意志を知りながら、罪の欲求に抗しかね自ら欲せずして、これを欲する。これが罪である。彼は絶叫する。現実世界では得られなかった神の愛と慈悲の心が来世において与えられんことを。求めに対して神は応え賜う。しかし知者、賢者は神に問う「なぜ彼のような豚が救われるのか?」と。神は応えて云われる「彼の中に、それに値するものが何もないからだ」と。
映画「哀愁」マービン・ルロイ監督
この映画は、ロバート・テイラー演ずる英国将校ロイ・クローニン大尉が、ウォータールーの橋のたもとで、今は亡き恋人でビビアンリー演ずるバレエダンサー、マイラ・レスターを追想して、思い出に耽るシーンから始まる。この映画は第一次世界大戦のもと、運命のいたずらに翻弄されて、悲劇的な結末を迎える美しくも、悲しい恋物語である。
舞台は、第一次世界大戦下のロンドン。空襲警報鳴り響くウォータールーの橋の上で、ロイとマイラは知り合い、瞬く間に恋に陥り、結婚の約束までする。しかし、ロイに応召の知らせが届く。ロイは戦場に、マイラは健気に彼の帰還を待つ。その彼女が見たものが彼の戦死の情報であった。彼女は絶望する。その悲しみから立ち直れない。彼女は毎夜街に出てロイに似た男に声をかけ、関係を持つ。次第に夜の女に転落していく。そしてそんな堕落した生活の中で、彼女が知ったのは、彼の戦死が誤報であったことである。彼は帰還する。二人は再会する。ロイもマイラも喜びを隠せない。しかし、マイラは自分の今の境遇に悩み葛藤する。ロイの家に行きロイの母親に会う。母親は彼女の真実を知る。彼女は彼と結婚できない。諦める。ロイはそれを知らない。彼女は絶望のあまりウォータールーの橋の上で軍用トラックに身を投げて死んでいく。橋にたたずみマイラの思い出に浸るロイの心の中にあったものは、決して汚れた彼女の姿ではなく、まだ汚れを知らなかったころの清純で、純真な彼女の姿であった。
この作品にはいくつかの「もしも」がある。もしも、ロイが戦地に行かなかったら、もしも戦死の誤報が無かったら、当然運命は変わっていたであろう。しかし人生において「もしも」は考えられない。時間は不可逆性であり、もとに戻らないからである。「これしかない」のである。マイラの死は運命づけられていたのである。選択の余地はない。運命は神が作る、人は運命に従う以外ない。
ロイを偲び、ロイを求めて夜の女に転落したマイラ、その罪と罰は何によって贖うべきか?罪とは悲しい。
以上のように人は原罪を抱えた存在であるが故に、常に罪を犯す可能性を秘めている。その可能性は人の持つ霊性、社会的規制によって、その現実性は、日頃は抑えられている。しかし、人間の行為の中には闇の部分が多くあり、暗いエネルギーを蓄えている。それ故、人の行為は、論理的因果関係を断ち切る、奈落の意識をたたえている。その意識が実現するかどうかは、人間自身にも不可知である。人は欲せずして、欲するのである。それが罪として現実化する。罪とは恐ろしく、かつ悲しい。