日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

書簡集14-2 へブル人への手紙

2020年05月01日 | Weblog
 書簡集14の2へブル人への手紙
 はじめに
 これからへブル人への手紙の後半に入ります。
 その前にすでに述べた前半について述べてみます。前半ではキリストの教えに疑いを持ち、揺るぎの中にあった同族のへブル人に対して、その回帰を願って、この書の著者が手紙を書きます。彼らをキリストの教えに回帰させるために必要なことは、神の子キリストが、いかに優れた方であり、あらゆる神に対して至高の存在であるかを証明することでした。そのためには、ユダヤ教徒が大切にしている、み使い=天使、モーセの律法、レビ的祭司の3つのものよりも、キリストの教えは卓越したものであると証明することでした。御子はみ使いよりも優れた存在であり、優れた救いの道を備えられ、またアロン(モーセの兄)の祭司職よりも偉大なメルキゼデク(キリストの型=象徴)が祭司となられたことが述べられています。もともと祭司職には二つの流れがあり、一つはアロンに代表されるレビ族の流れであり、もう一つはキリストに繋がるメルキゼデクの流れの二つです。これまで、キリストに繋がる流れは、レビ族の流れの背後に隠されていました。しかし、レビ族の流れは破綻し、キリストに繋がる流れが表に出てきたのです。こうしてモーセを通して与えられた「古い契約」は、キリストと神との「新しい契約」に取って代わられたのです。キリストは祭司職として霊的に再生したのです。キリストは神の真理のすべてを宣べ伝え、人と神の仲介役になられました。このように、古い契約に立つユダヤ教に対して、新しいキリストの教えの優位性を証しすることによって、揺るぎの民(へブル人)の悔い改めと、キリストへの回帰を、著者は促したのです。
 これまでが前半のあらすじです。 
へブル人への手紙の内容構成
 
 神が思い、キリストから民に伝えられた真理=救いの国=神の国(神のご計画の完成)はいまだ実現していません。未来完了の世界です。その実現を保証する根拠はどこにもありません。災厄の中にあります。しかし、ここに希望と信頼と愛の道が備えられています。「信仰」が生まれる余地があるのです。信仰とは、まず、神の存在を認めること。神が言われること、願っていることを素直に受け止め、何の疑問も提示せず「しかり」と、納得し、確信し、行動に移すことです。行動なき信仰は無です。揺るぎの民=へブル人はこのことを知って悔い改め、神に立ち返らねばならないのです。
 信仰とは
 神の言われることを「そのとおりである(信頼)」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中に体験されることになります。パウロは言います「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」と、この言葉が自分の中で現実となるとき、私たちはどんな境遇においても、力強く歩み、また神の栄光を、自分の身を通して豊かに表していくことが出来るのです。
1.信仰がなければ神に喜ばれることはありません。神に近づくものは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださることを信じなければならないのです。
2.信仰は、私たちが今まで聞いてきたキリストについての教えを自分のものとする媒体であり、清められた良心とともに、神を知り、神に近づくことのできる唯一の方法です。
3.「私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、これをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生ずるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全なものとなります(ヤコブ1:2~4)」。
 キリスト教の信仰は神と人との信頼関係によって成立しています。それは赤ん坊と親との関係に似ています。赤ん坊はすべてを親に依存しなければ生きていけません。そこには自分はありません。他者にゆだねきっています。これは神と人との関係においても同じです。人は自分を捨て、神を信頼してすべてをゆだねたとき、救われるのです。イエスは、唯一絶対者である神を遠いものとしてではなく、父親のように最も近い存在として、「アッバ」と呼びました。「アッバ」とは、ごく幼い子供が親しみを込めて父親を呼ぶときの表現です。「パパ」とか「お父ちゃん」とか言う感じでしょう。ここが旧約聖書の神と異なる点です。旧約聖書では「罪は死」を意味していました。恐れの存在であっても親しい関係など抱くことは出来ませんでした。キリスト教の信仰においては「アッバ」と呼ぶ幼い子供のように神への信頼が何よりも先にあります。どんな絶望的状況にあっても、希望を持つことが出来ます。それはやがてキリストが再び来られ、その救いを完成してくださるという望みです。「キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身を捧げられましたが、2度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです(9:28)」。神への信頼により包み込まれ、乗り越え行動に移すことが出来るのです。
 11章では、信仰によって神の恵みを受けたものの具体的な名前が挙げられています。これらすべてについて説明することは時間と紙面の関係上できません。アベルとカインの捧げもの、とノアの信仰の二つを述べたいと思います。
 カインは野の作物を神にささげ、アベルは子羊の肉を神に捧げました。共に最上のものを捧げたはずです。神はアベルを用い、カインを退けられました。何故か。アベルは、信仰によって神の望まれるものを捧げたのです。しかしカインの捧げたものは神によって「呪われた土地」の作物だったのです。アダムはその罪によってその土地は「呪われたもの」になっていたのです。この事情をアダムの子であるカインは知っていたはずです。カインにあったものは「我」であって神に逆らうものだったのです。
 次にノアについて述べたいと思います。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続するものになりました。(11:7)」。ノアは神から「これから地上に生きている者を消し去ろう。あなたは箱船を造りなさい」とノアに命じられました。ノアは、洪水が起こることを知らされていなかったにもかかわらず、それが起こることを前提にして箱舟を造ったのです。この時、人々は悪いことばかりに傾き、良いものがない状態でした。神がお怒りになっておられることをノアは知っていたのです。ノアは家族とともに箱舟に入りました。洪水が起こり、罪にまみれた人々はおぼれ死んだのです。ノアは、箱舟の中で家族とともに救われました。ノアは信仰に生きた人だったのです。神はそれを知って彼をお救いになったのです。
 この書の著者は、この二人のほかに信仰に生きた人々について語っていますが「この人々は、みなその信仰によって証しされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのためにさらにすぐれたものをあらかじめ用意されておられたので、彼らが私たちと別に全うされることはなかったのです(11:39~40)。間もなくこの世に終わりの日が訪れます。神の怒りが下る日です。その日に備えて我々は信仰に生きなければならないのです。この書の著者は、信仰に揺るぎのあるヘブル人に信仰に生きることの意義を教えています。
 契約とは:
 新しい契約を結ぶにあたって、この書の著者は次のように言う「もし、あの初めの契約(古い契約)が欠けのないものであったなら、後のもの(新しい契約)が必要になる余地はなかったでしょう(8:7参照)。はじめのものとは「あなたがたが主の教えに聞き従うなら、あなたがたは宝の民となる」。と言うものである。この契約は双務契約であって、一方が破れば、他方はこれを守る必要はない。しかし、人は主の教えに聞き従うものではなかった。神が言われたように、そこには欠けるものがあった。神はイスラエルの民が契約を守り通せないのを見て、新しい契約を結ばれたのである。神は人には期待しなかった。人が変わることが出来ないなら、自らが変わろうと考えたのである。神はノアにこう言っている。「わたしは、決して、人のゆえに、この地を呪うことはすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪だからだ(創世記8:21)」と。神は人の罪に対する対処を罰ではなく、赦しとあわれみを提供することによって解決することにしたのです。神の側で罪の問題を決着されたのです。「主が言われる。見よ、日が来る。わたしがイスラエルの家や、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が(8:8)」「私は私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」「彼らは、みな私を知るようになる」「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い出さないからである(8:10~12参照)」。しかしこの言葉はあくまでも神の意志であって人とは関係はない。人には、神は遠い存在であった。そこで神と人との仲介役を務めたのが神の子=イエス・キリストであった。
 それではイエス・キリストとはどんなお方なのでしょうか。
 「私たちの大祭司(キリスト)は、天におられる大能者(神)の、み座の右の座に着座された方であり人間が設けたのではなくて、主が設けた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です(8:1-2)」そこから地上をご覧になり、執り成しをしておられます。             
一方、律法に従って捧げものをする祭司たちがいます。その人たちは、天にある幕屋の写しと影である幕屋に仕えています。その幕屋は神がモーセに命じて作らせたもので、天にある「真の幕屋」の写しであり影なのです。それは、完全な似姿です。
 ここでは神は「真の幕屋の姿」を示していません。写しと影から想像するのみです。9章の初めにその似姿が具体的に示されています。神は決して自分のみ姿を直接にはお示しになりません。その似姿を示し、その姿から、我々は、真の姿を知るのです。
 律法に従って捧げものをする祭司たちは写しであり影である幕屋に捧げものをしていました。幕屋は垂れ幕によって前後に分けられ、前の幕屋は、聖所と呼ばれ、後ろの幕屋は至聖所と呼ばれていました。聖所には祭司が入り礼拝をおこない、至聖所には大祭司のみが年に一度だけ入ります。その時、動物の血を携えて入ります。「律法によれば、すべてのものは血によって清められる。また血をそそぎだすことがなければ、罪の赦しはない(9:22)」のです。大祭司の捧げる血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のために捧げるものです。血と同時に、いろいろな捧げものと、いけにえ、とが捧げられます。しかし、それらのものは礼拝する者の良心を完全にすることは出来ませんでした。なぜなら、彼らは霊的には実体のないもの(写しと影)を礼拝したからです。無なるものを礼拝しても救いはありません。ここから人は、実体のあるもの天にある真の幕屋へと導かれていくのです。「キリストは、この世界にきてこう言われるのです。『あなたは、いけにえや捧げものを望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと、罪のためのいけにえとで、満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、私は来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみ心を行うために』(9:5~7)」。イエスはこの段階で、十字架上での死をはっきりと理解していたのです。自分の死と復活がなければ、イスラエルを、いや全世界を救うことは出来ないのだと。イエスは十字架上で「完成した」と叫んでいます。「しかし、キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造ったものでない、言い換えれば、この造られたものとは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子羊との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです(9:11~12)」。このようにしてキリストは天に上り、神の右の座にお座りになったのです。
 この著作の著者は言う「私たちの前の置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようでありませんか」と迫害の中にあり、揺るぎのへブル人に対して、忍耐をもって、信仰の創始者であり、完成者でもあるイエスから目を離すなと警告する。そして言う「「主の懲らしめを軽んじるな」と。それは、信じることの苦しさに背信の心を起こそうとするへブル人に対して、懲らしめは父親の愛であり、主へ導くための訓練だと励ます。
 「へブル書」を読むとき、必ず、古い教えと新しい教えが対比されて語られていることに気づきます。それは新しい教えが、古い教えに卓越していることを証しするためです。古い教えは「戒めと畏れ」の教えであり、罪を生むものであるとするなら、新しい教えは愛と恵の教えであり、罪からの解放を目的としているからです。このことによって、揺るぎの中にあるへブル人に勇気を与え、迫害に耐え、キリストの教えに戻ることを、この書の著者は、心の底から望んだのです。
 これから本書の最後の13章を読みます。ここでのテーマは「宿営の外に」です。私たちはこれまで、この書簡の背景になっていた、信仰に揺るぎを感じていたへブル人のことを念頭に入れて読んできました。これからはこの書簡のハイライトです。彼らは、迫害や圧迫の中にあって、神に疑いを持ちその神への信仰に躊躇し迷いの中にありました。この書簡の著書は、これらの人々に対して、どのように生きていかねばならないかを教え、諭し(13:1~9)、その結論として「宿営の外に出て、御許に行こうではありませんか」と語っています。宿営の中には幕屋があります。大祭司は至聖所の中に、動物の贖いの血をもって入り、それを自分と、民の救いのために捧げました。しかし動物の体は幕屋の外で焼かれました。同様にイエスもご自分の血で、民を聖なるものとするために、そのからだは門の外で十字架の苦しみを受けられたのです。
 「私は、あなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神=主があなたの行くところ、どこにでも、あなたと共にあるからである(ヨシヤ1;9)」。これはへブル人に対する励ましの言葉である
令和2年4月14日(火) 報告者守武 戢 楽庵会

書簡集14-1 へブル人への手紙

2020年05月01日 | Weblog
 書簡集14の1 へブル人への手紙
 はじめに
 この手紙の受取人はへブル人です。へブル人とはユダヤ人のことです。へブル人、ユダヤ人、イスラエル人は、ほとんど同じ人たちです。これまでのパウロの書簡集の宛先と違って、へブル人は、決して異邦人ではありません。著者と同じユダヤ人です。捕囚によって各地に散らされていた、ユダヤ人かもしれません。いずれにしても、同じユダヤの地に生まれ育った著者と同じユダヤ人です。このユダヤ人は、もともとはユダヤ教を信じていました。回心して、キリスト者になった者たちです。キリストの福音を聞いてイエスこそ約束のメシアと信じたのです。ユダヤ教に対する優越性を知ったのです。当時のことです。これらのものに反対する勢力がいました。反キリストです。ユダヤ教徒たちです。彼らは硬軟両用の戦略をとります。激しい迫害を与えたり、偽教師を遣わしして、甘言で彼らの信仰を、もとのユダヤ教に戻そうとしたのです。未熟な聖徒たちは、それに乗せられ、古いユダヤ教の教えや、習わしに戻ろうとしたのです。キリストの新しい教えから離れようとしたのです。試練の中、信仰の成長は妨げられていました。いや、後退していたのです。この事態は、他の敬虔なキリスト者にとっては由々しきことです。著者は、ユダヤの聖徒たちが、イエス・キリストを信じる信仰を維持、成長させ、かつて彼らが信じていたユダヤ教の信仰に戻らないように、この警告の手紙を書いたのです。著者は心を込めて言います「あなたがたは、光に照らされた後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみを受けたものもあれば、、このような目にあった人々の仲間になったものもありました。あなたがたは捕らえられている人々の仲間になったものもありました。あなたがたは捕らえられた人々を思いやり、また、もっと優れた、いつまでも残る財産を知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみ心を行って、約束のものを手に入れるために必要なものは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。私の義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、私たちの心は彼を喜ばない』。私たちは、恐れ退いて滅びるものではなく、信じて命を保つものです(10:32~39)」と。「このように、あなたがたの信仰は、今どんなに苦しくとも、報われる時があるから、忍耐をもって待ち望め」と、著者は信仰に揺るぎを感じている彼らを諭している。
 この後、著者はイエスの他の神に対する卓越性を明らかにする。イエスは至高の存在である。これなくして信仰の後退下にあり、その至高性に疑いを抱く聖徒たちを、もとの信仰(イエスの教え)に回帰させることは出来ないのである。
 この書簡の著者はだれか:この書は他のパウロの13の書簡と異なって、著者名は明記されていない。差出人不明の書簡である。その差出人から「ヘブル書」は「特定の状況下」に置かれたキリスト者のグループに宛てて書かれたものである、と知ることが出来る。11章には、旧約聖書の著名な登場人物(アベル、エノク、ノア、アブラハム、アブラハムの妻、ヤコブ、イサク、エサウ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル)に触れていることから、著者は、旧約聖書に精通したものであると考えられる。
 この書の著者はパウロであるという説は有力ではあるが、その根拠は、内容的な一致である。しかし、必ずしも一致しているとは言えないのである。パウロの書簡の宛先は、あくまでも異邦人であって、「へブル書」の宛先とは異なるのである。へブル書の宛先は「信仰の後退したもの」、へブル人であって、異邦人ではない。仮にパウロであるとしたら「へブル書」の中に名前を明記するはずだからである。それがパウロの書簡の習慣だからである。へブル書だけが例外と言うのはおかしい。そこで、余計な憶測を排して、この書の著者は「不明」である、と考え「著者」と呼ぶことにする。しかしいずれの人物が著者であっても、神の聖霊を宿した人物が著者であることに疑いをはさむことは出来ない。彼は神の権威をもって私たちに語り掛けている(Ⅱテモテ3:16参照)。
 律法の行いから神を信じる信仰へ:「誰でもキリストの中にあるなら、その人は、新しく作られた人です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)」。この言葉は「へブル書」のすべてを要約している。古いものとは、モーセの戒律に代表される「律法」である。新しいものとは人と神との契約である。古いものとは、一時的であり、限定的である。新しいものとは、無限であり、永遠である(7:22~25参照)。「律法から、神を信じる信仰へ」これはパウロの13の書簡を貫く基本的思想である。この思想を「へブル書」は引き継ぎ、さらに展開している。
 キリストとは至高の存在である。このことをヘブライ人に理解させることが、この書の著者の最終的な目的である。へブル人たちはこのことを理解しなかった。いや理解できなかった。反キリストの偽の教えがこの真実の理解を妨げていた。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神の言葉の初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています(5:12)」と。著者はキリストの至高性を教え、この方に対する信仰の在り方を教える。
 メルキゼデクとはどのようなお方か:メルキゼデクと言う人物は、きわめて聞きなれない人物名である。本書に出てくる(5:10,6:20,7:2,3,6)ほかは創世記(14:18~20)と詩編(110:4)に出てくるだけである。
 メルキゼデクとはサレムの王で、優れて高い神の祭司であり、その名を訳すと義の王であり、次にサレムの王、すなわち平和の王である。父もなく母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神に似たものとされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。族長のアブラハムでさへ、戦利品の十分の一をメルキゼデクに捧げています。メルキゼデクは、霊的にアブラハムよりも上位にあることが示されています(7:1~3)。さらに詩篇110:4では「主は近い、御心を変えない。あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司です」と。あなたとはメシアを指し、この時代イエス・キリストは存在していないが、キリストを象徴している。
 新約聖書では、イエスは大祭司であり、メルキゼデクの系統をひくものとみなされている。これまで大祭司の職務は、アロンを代表とするレビ族のものであり、神の幕屋には、彼ら以外の者は、近づくことも許されなかった。しかし、イエスは大祭司である。レビ族の系図にないものが、アブラハムから十分の一をとって、約束を受けた人(イエス・キリスト)を祝福したのである。イエスはレビ族以外のユダ族であり。本来なら大祭司になることの許されない部族の出身である。何故か。著者は言う「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら    民はそれを基礎として律法を与えられたのです   それ以上何の必要があって、アロンの位でなくメルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか(7:11)」。前の戒めは、弱く無益のために廃止されましたが、    律法は何事も全うしなかったのです    他方で、さらに優れた希望が導き入れられました。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、命の力によって、祭司となったのです。神のご計画を前進させるものを、神はお選びになるのです。「神が新しい契約と言われた時には、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えていきます(8:13)」。著者は、古びてすぐに消えていくものに頼るなと、揺るぎのへブル人を諭す。
 これまでの復習: この書の主題は、信仰に揺らぎを感じ、元のユダヤ教に回帰しようとしている者を、再びキリスト者に戻すには何をなすべきかを語ることにある。そのためには古い教え(ユダヤ教)に対して新しいキリストの教えは、すべてにおいて卓越していることを証明しなければならない。それが、キリストの教えに疑いを抱くへブル人を説得する唯一の方法なのある。そのためにこの書の著者が行ったことは
1、 イエス・キリストの卓越性(ユダヤ教が信じる、御使い=天使、モーセの律法、レビ的祭司にたいする)を、歴史的、神学的に証明し、
2、 試練の中で信仰の成長が妨げられている聖徒たちに警告を与え
3、 ユダヤ人キリスト者の信仰は保たれねばならないと、諭すことであった。
 終わりの時に、神は御子によって語られた:「神はむかし父祖たちに、預言者たちを通じて、多くの部分(歴史書、儀式、詩文)に分け、いろいろの方法(夢、幻、啓示、奇蹟、時には直接的な語り掛け)で語られました。この終わりの時には、御子によって私たちに語られました。1、神は御子を万物の相続者とし、2、また御子によって世界を造られました。3、御子は神の栄光の輝き、4、また神の本質の完全な現れであり、5、その力あるみことばによって万物を保っておられます。6、また罪の清めを成し遂げて、7、すぐれて高いところの大能者の右の座に着かれました。御子は、み使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけみ使いよりもまさるものとなられました(1:1~4)」。
 終わりの時に、神の啓示は完全なものとなった。キリストそのものが神の言葉であった。「はじめに言葉があった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった(ヨハネ:1:1)」。キリストそのものが神の自己啓示である。神は人となられ、人間の前に出現し、人間に神の本質を示し、神の言葉を語られた。キリストは神の真理のすべてを人間に啓示された。
 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをものともせずに十字架をしのび、神のみ座の右に着座されました(12:2)」。
 言葉の意味
 御 子:御子とはキリストのことである。終わりの時に神の啓示は完全なものになった。キリストそのものが神の言葉であった。「はじめに言葉があった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった(ヨハネの福音書1:1)キリストそのものが神の自己啓示である。神は人となられ、人間の前に出現し、人間に神の本質を示し、神の言葉を語られた。キリストは神の真理のすべてを啓示された。この方は王の王、主の主である。他の何物にも代えがたい偉大な神です。
 神のみ使い:み使いは、霊的存在で、超自然的なことは出来るが、それらは、みな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために、これは私たちクリスチャンのことですが、遣わされたものに過ぎない。「御子」は、そのみ使いに拝まれる対象であって、御子とは、まったく比べ物にならない存在である。
令和2年3月10日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会


書簡集13 ピレモンへの手紙 パウロの執り成し

2020年05月01日 | Weblog
  書簡集⒔ ピレモンへの手紙 パウロの執り成し
 はじめに
 パウロは3通の獄中書簡を書いています。「エペソ人への手紙」「コロサイ人への手紙」と、この「ピレモンヘの手紙」の3通です。当時ピレモンはコロサイの教会の牧者でした。パウロは「コロサイ人への手紙」を、コロサイの教会に送っただけでなく、この個人的書簡「「ピレモンへの手紙」も併せ送ったのです。
 獄中で産んだ我が子オネシモのことで、あなた(ピレモン)お願いしたいのです。
 「ピレモンへの手紙」は、おそらく、パウロの最後の書簡であり(おそらく、と言うのは、次の「へブル人の手紙」もパウロの作だと言うものもいるからです)パウロの書簡の中では、最も短く、最も個人的な書簡です。ピレモンに対して書かれた個人的書簡であるため教義的内容は見当たりません。
 その内容の第1は、牧者ピレモンの愛の深さ、信仰の深さが語られ、第2にはキリスト者に回心した逃亡奴隷オネシモの罪の赦しを、パウロがピレモンに願うところにあります。キリストの前では奴隷も自由人も平等でなければならないのです。牧者であるピレモンは当然それを知っているはずです。奴隷と言う身分は本来あってはならないのです。パウロはこの奴隷制度に対して、一言も批判していません。奴隷制を前提にして話を進めています。時代的限界を感じます。
 しかし聖書は時代を超えた書です。
 パウロの友人で同労者でもあるピレモンはコロサイの「家の教会」の牧者であり、多くの奴隷を抱えた裕福な地主貴族の1人でした。ところが深刻な問題が発生したのです。ピレモンの奴隷の1人オネシモがピレモンに経済的損失(盗みか)を与え、ローマに逃亡したのです。いわゆる逃亡奴隷です。オネシモはローマでパウロ(キリストの宣教ゆえに捕らわれの身になっていた)に出会い、救いの素晴らしい知らせ(福音)を受け入れ、キリスト者として再生したのです。そこでパウロはピレモンに手紙を送り、オネシモを逃亡奴隷としてではなく、我々と同じキリスト者として送り帰すから厳しく罰するのではなく、愛をもって受け入れてほしいと願います。そしてオネシモがピレモンに与えた経済的損失を、私が贖おうと約束するのです。
 時代背景
 パウロの生きた時代の産業構造を見ると、その主要産業は農業で、地主貴族の手の内にありました。その労働力は専ら、地主貴族の抱える奴隷=農奴が担っていました。その賦役労働が彼らの収入源でした。次にその農産物を扱う商人がいました。地主の一部が市場を作り商人となったのです。彼らは出世して御用商人となります。王侯貴族の付き合いで海外に進出します。交通網が整備され、貿易港が出来ます。商人は社会的に一大勢力になります。商人の進出は社会構造を変えます。農機具(鋤。鎌、鍬)の生産は、農業者の副業であった。この技術者も奴隷でした。戦乱の世のこと武器にも手を出しました。戦車、大砲などの重機は海外に頼ったでしょう。御用商人が、権力者から注文を受け工業者に発注したり、海外に頼ったりしていました。技術者は富を蓄積し、その金で身分を買い解放奴隷となります。かくして彼らは独立して中小の企業家になるのです。工業の始まりです。ここに士農工商の社会が生まれます。
 当時、労働は卑しい者の仕事であって、奴隷の担うものでした。富裕な自由人(貴族を中心とする)は労働を嫌い、学術、文化、芸術、政治を専らとしていたのです。彼らは高学歴者であり、彼らの通った大学は、当時、文化の中心であったエジプトにあり、地主貴族の子弟は、好んでエジプトの大学に留学しました。彼らの中には労働の尊さを知るものはいませんでした。労働=奴隷の仕事だったからです。
 彼らの中には「締まりのない生活(Ⅱテサロニケ3:6~15)」をする者がいました。彼らは人の作ったパンをタダで食べていた(賦役労働への依存)のです。「働らかざるものは食うべからず」にもかかわらず何も仕事をせず、おせっかいばかりしていました。おそらく、彼らは時の権力に不満を持ちながらも、何の行動に出ることなく、また、信仰者になることもなく、ただ不満を並べているに過ぎない中途半端な「締まりのない生活」をしていたのです。彼らの不満の第1は度重なる戦乱ででした。パウロは彼らに対して自分でパンを稼げと、労働の尊さを説いています。
「ピレモンの手紙」の内容構成

 登場人物
1.ピレモン:オネシモは彼の奴隷である。奴隷を所有しているということは、彼が富裕な貴族であることを示している。同時にコロサイの「家の牧師」でもあった。初代教会の時代、民家が教会であり、そこに信者が集まり礼拝していた。彼は心優しい牧者であり、主イエスに対する信仰と聖徒に対する愛は深く、民に敬愛されていた。そこにパウロはオネシモの救いを期待したのである。奴隷とは戦乱で敗れた捕虜、没落家族、社会の底辺に落とされた人間の仕事であり、生殺与奪の権利は主人に握られていた。とはいえ、必ずしも、過酷な労働条件の中で働かされていたわけではなかったらしい。それなりに生活は保障されていたし、権利も持っていたという。当時、奴隷の数は自由な市民に比べて多く、彼らの生活を保障することは、その反乱を恐れる権力者にとっては必要だったのである。パウロはピレモンのやさしさと慈悲深さに期待し、逃亡奴隷のオネシモを厳しく罰することなく、その寛大な性格をもって赦すことを期待したのです。しかし、ピレモンが彼を赦したかどうかは、聖書には書かれていません。
2.オネシモピレモンの奴隷であったオネシモは何らかの経済的損失をピレモンに与え、逃亡し、ローマでパウロに出会う。ここで回心してキリスト者になる。当時、逃亡奴隷は捕まれば、主人に生殺与奪の権利を握られていた。死刑になることもあったらしい。パウロはこの逃亡奴隷オネシモをピレモンに帰すにあたり、逃亡奴隷としてではなく、神を信じる聖徒として帰国させるから、寛大に扱うように勧める。その結果については書かれていません。
3.パウロ:この時のパウロは一回目の捕らわれの身で、比較的自由な環境(軟禁状態)の中で生活をしていました。「パウロは、それ(捕縛)から2年の間、借家に住み、訪れた人たちを歓迎し、大胆に神の国と主イエス・キリストのことを語りました。それを妨げるものは誰もいませんでした(使徒行伝28:30)」。パウロは比較的自由な環境の中でオネシモに会うことが出来、彼を回心させることが出来たのです。検閲を受けることもなく異邦の人ピレモンに手紙を書くことも出来たのです。パウロはピレモンに牧者の立場から「あなたにあなたのなすべきことを、キリストにあって命じることもできるのですが、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います(8節)」とあくまでも強制ではなく、愛をもって今はキリスト者となった逃亡奴隷オネシモに対して寛大なる措置をとるようにと願ったのである。救いとは「愛」であり、信仰の基本であることを、パウロは知っていたのである。
 概 要:パウロはコロサイの教会で牧者ピレモンが聖徒たちに示した博愛と、優しさを語り、称賛する。それは逃亡奴隷オネシモに対する赦しの伏線であり、それを、あらかじめ語っているのです。赦しは愛である。オネシモはローマでパウロに会う。ここでオネシモは回心してキリスト者になる。運命的出会いがあったのです。逃亡奴隷としてではなく、キリスト者として帰国させるから、愛をもって、寛大に処置せよとパウロはピレモンに命令ではなく、嘆願するのです。そしてオネシモがピレモンに与えた経済的損失を、私が贖う、と約束する。
 パウロの贖いは、キリストの贖いに通じるものがある。贖いには犠牲を伴う。キリストはその死によって民の罪を贖い、パウロは、オネシモがピレモンに与えた経済的損失を弁済することによって、その罪を贖うのである。
令和2年2月11日(火) 報告者守武 戢 楽庵会