日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

書簡集15 ヤコブの手紙 「実行」なき「信仰」は無である

2020年05月02日 | Weblog
 書簡集15 ヤコブの手紙 「実行」なき「信仰」は無である   
 はじめに
 「ヤコブの手紙」の宛先は「国外に散っている12の部族です(1~1)」。その散らされた民にヤコブは言います。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いが無いなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことが出来るでしょうか(2:1~14)」。「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのでないことがわかるでしょう(2:24)」。「魂を離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです(2:26)」。「さらに、こういう人もいるでしょう『あなたは信仰を持っているが、私は行いをもっています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます(2:18)』」。
 神様を信じる信仰には、自然と行動が伴うはずです。「信仰」と「生活(行動)」を分けるのは本物ではなく、「信仰生活」と言う一つのものとして、生活が新しくされることこそ理想であり、神様もそれを願っておられれるのです。信仰生活とは、勿論、神のみ心を生活の中に生かすことです。人生における実際の生活に、それを反映させなければならないのです。信仰を実際に持っているかどうかは、私たちの人生が変わることによって証明されるのです。しかし、キリスト者は赦されたものであっても、必ずしも完ぺきではありません。神を信頼していると言いながら、その行動はみ心を行うのではなく、この世とこの世の価値観に堅くしがみついているWスタンダードの人を多く見かけます。自分を騙しているだけでなく、神様をもだましているのです。神様のみ心からは遠く離れているのです。言っていることと行っていることが異なっているのです。このような人は霊的初心者と呼ばれます。ヤコブはこの書簡の中でこの矛盾を激しく追及しています(2:1~12)。この書簡のテーマは「み心を聞く」ことではなく「み心を行うこと」であり、「教理」ではなく「行動」です。
 ヤコブは本書簡で、矛盾に満ちたこれらの人々に、知恵に従って生きる方法を具体的に説明しています。救い主に喜んでいただけるように、その言動に気を付け、悪口、高慢、ぜいたく、社会的差別を、排し、社会的貢献に励み、人を傷つける言葉を避け、神がお喜びになる言葉を使うことこそが神に近づく最善の方法であると諭します。
 今の生活は苦難に満ちたものであっても、救いは必ず訪ずれ(イエスの再臨)、すべての不義は正されるがゆえに、忍耐をもって、清く、正しく生き抜き、「その日」の到来を待ち望みなさい、と教えています。「霊的初心者」から霊的成熟者」へと、進みましょう。。
 「ヤコブの手紙」から次のような教えを見出すことが出来ます。
1、 「ヤコブ書」は、キリスト者の生活の指南書です。
2、 信仰を行動に移し、御言葉を行いなさい。
3、 本物の信仰は、生活を一変させます。
4、 真の信仰は、愛のある行動を生み出します。
 「へブル人への手紙」の中で述べたように、地中海沿岸地域の隅々に、散らされた民は、引き続き反キリストの迫害下にあり、正しい行いをしたくてもできない状態にあったものと思われます。真の信仰に生きる者は、迫害を、避けるのではなく、嘆くのではなく、喜びと忍耐をもって迎え、主のみ心を行う必要があります。それが成熟した聖徒の務めなのです。信仰の初心者から、成熟した聖徒へ、これこそヤコブの意図だったのです。真のキリスト者として生きていく決意をヤコブは彼らに望んだのです。
 この書簡を読んだ方は、併せて「「山上の垂訓(マタイ5:1~7:28)」も読んでください。この書は、旧約聖書の律法の代わりに、その義に勝るべき新しい秩序(キリスト教的律法)を提示しようとしたものです。神の国の「正義」と「愛」について述べています。イエスの教えの集大成であることがわかります。その内容は、「地の塩・世の光」、「空の鳥・野の花」「豚に真珠」「求めよ、さらば与えられん」「狭き門」などです。一般によく知られた主題や句を含んでおり、文化の諸領域に大きな影響を与えてきたのです。ここではユダヤ教の倫理が批判されていますが、最終的には、それは決して廃棄されるものではなく、むしろ徹底化されています。イエスの意図は、人間が道徳的理想(律法)を達成しうるかのように考える楽観主義を超えて、神の要求の徹底的性格を明らかにすることでした。この書「山上の垂訓」の中にある多くの言葉が、「ヤコブの手紙」の各章にちりばめられています。両者の底流には共通したもの=それは、「神の国と神の義を求めなさい」が流れています。。
 「ヤコブの手紙」は「藁」の書か
 宗教改革の時代一部の神学者たち、特にマルティン・ルターは「ヤコブ書」を、あまり価値のあるものとは認めず、「藁の書」と呼んで蔑視し、この書を正典から外そうとしました。彼はヤコブが「行い」を重視するあまり「信仰義認(信仰によって、義とされる)」と言うパウロの基本的な思想を否定するもの、と考えたのです。「信仰による義、恵み、による救い」の観点から読むとき、ヤコブの思想は「律法の行いによる義」と見えたのでしょう。しかし、今日、この考え方は否定され、正典から外されることなく、聖書の中で重要な位置を占めています。
 パウロは、「律法の行いによって救われる」と教えるユダヤ主義者と戦っていました。彼の強調点は「人は信仰により、神の恵みによって救われる」と言うものであり、彼にとっては「行い」とは「律法を守り行う」ことであり、否定的にとらえていたのです。彼の関心は「救いの教理を」を展開することにあったのです。
 これに反して、ヤコブは、無律法主義者と戦っていました。恵みによって救われた者は、いかなる道徳律(人によって造られた律法)にも支配されないと教えていました。彼にとって「行い」とは「愛と信仰に基づく善行」をさし、彼の関心は「実践的な側面」を教えることだったのです。
 このように、パウロは救いの方法について論じ、ヤコブは救われた証拠(救われたら当然、良い行いをする)について論じていました。
 両者は、矛盾しているのではなく、互いに、補完しあっているのです。
 言葉の意味
 義、義認:
 義とは、神の正しさ、または、人の、神の前での正しさを指します。
 義認とは、罪びとである人が、神から義と認められること(キリストの十字架の贖いによる)を指します。
 誓いとは
1. あることを将来必ず履行することを他人や自分自身に堅く約束することです。
2. 神にあることを、そむくまいと約束することです。
3. 「誓う」という行為は言った通りに実行するということです。「私はこれをします、あれをしますと言っておきながら、それをしないのは罪になります。本当に実行するなら、ことさら実行することを神に対して、また人に対して言うことはないのです。行いに対する返事は、「はい」であり、できない場合は「いいえ」です。
 試練、忍耐、救い、とは:
 試練と忍耐と救いとはセットで現れます。5章に「ヨブ」の忍耐の話が出てきます(5:11後半)。これを神のご計画の観点から見る時、ヨブはイスラエルの民を現し、ヨブに与えられた試練は、神がイスラエルの民に与えた試練を現しています。ヨブは神に対しては完全な人間であり、罪なき人間だと主張し、その試練の不条理さを叫び続けます。しかし、最後には、罪を認めないことが罪なのだと、後悔したとき、神はその罪を赦し、奪った物の数倍の恵みでお返しになったのです。神はイスラエルの民に試練を与え、忍耐によってその信仰を守り続けるなら、その時、主が再来されて「究極の救い」=神の国(数倍の恵み)をお与えになると約束をしました。「ヨブ記」は聖書そのものです。
 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それを、この上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない成長を遂げた、完全なものになります(1:2~4)」。
 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しとされた人は、神を愛する者に約束された、命の冠を受けるからです(1:12)」。
 「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい、耐え忍んだ人は幸いであると、私たちは考えます。主は慈愛に富み、あわれみに満ちたお方です。救いの恵みをお与えになります(5:10~11参照)」。預言者は人々に神のみ言葉を語るために存在しています。神の真理を語り、そして、その預言のゆえに苦しみに会いました。しかし、その忍耐ゆえに主が来られた時に救われるのです。 試練の中にある「兄弟たち。主が来られ時まで耐え忍びなさい(5:7前半)」。「主が来られる日は近いからです(5:8)」。
 >知恵とは:
 物事の理を悟り、適切に処理する能力をさします(「広辞苑」)
単なる霊的洞察力のことではありません。実践生活において、義なる行為を行うために必要とされるものです。日々の生活の中で、神様を仰いで、善悪を見分ける知恵、適切な判断を下す知恵を頂けるように努めたいものです。
 「知恵のある、賢い人は誰でしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを良い生き方によって示しなさい(3:13)」。
 「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、哀れみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和を作る人(キリスト)によって平和の裡に蒔かれます(3:17~18参照)」。
この書の作者は:神と主イエス・キリストのしもべヤコブ(1:1)」です。イエスとヤコブはともに母マリヤから生まれました。二人は異父兄弟です。ヤコブは弟です。マリヤの夫はヨセフであり、それゆえヨセフはイエスにとっては義父であり、実父は神の聖霊です。ヤコブにとって実父は、ヨセフです。それゆえ、ヤコブとイエスの間には肉体的なつながりはなく、霊的にのみ繋がっています。ヤコブは自分をイエスの弟としてではなく、主の「しもべ」として紹介することで謙遜さを示したのです。
パウロはヤコブをペテロと並んでエルサレムの教会の柱として重んじ指導的役割を与えています。ヤコブは西暦66年ころに殉教の死(祭司アンナスによる石打の刑)を遂げています。
 宛 先:迫害のために地中海沿岸地域の隅々に散らされたユダヤ人キリスト者=12部族に宛てて書かれました。彼らは必ずしも「失われた部族」ではなく、その一部は、それぞれ散らされた地において「選民」として、あるいは「」として、部族ごとに、自らのアイデンティーを失うことなく一つの共同体を作っていたと思われます。彼らは自分がどの部族出身であるかを知っていました。イスラエルの12部族は決して失われてはいなかったのです。しかし、彼らも他の異邦人と同様に反キリスト者に迫害されていました。その12部族に対してヤコブは彼らを励ますためにこの手紙を書いたのです。
 ヤコブの手紙の内容構成

 執筆年代:西暦45~48年の間に書かれたらしい。。
 執筆された場所;ヤコブはエルサレムに住んでおり、エルサレムの教会の諸事を管理していたことから、おそらくこの地から本書簡を書いたと思われます。しかし、確定することは出来ません。
 時代的背景:ヤコブが殉教死した60年代は特に迫害の厳しい時代でした。皇帝ネロは62,63年ごろ現れ、キリスト者を迫害しました。各地に散らされたへブル人・キリスト者は散らされた地でも厳しい迫害に苦しみ、貧困にあえいでいました。この苦しさから、信仰を捨てる者、離れる者がいました。この人たちに迫害者の偽善性を暴露し、信仰に堅く立つようにと願って書かれたものが、この「ヤコブ書」だったのです。試練を喜んで耐え忍べ、その結果、救いは必ず訪れる(キリストの再臨)と励ましています。。
 この書の特徴:
1. 偽善的な慣例を暴露し、キリスト者としての正しいあり方が語られます。
2. キリスト者として生きるべき指標が示されます。
3. キリスト者が直面しなければならない様々なことが書かれており、正真正銘のキリスト者として、いかに生きるべきかが主張されています。
4. キリスト者としての生活のための原則が短い言葉で簡潔に述べられています。
5. この書の特徴を見る時、信仰と実践を深く結びつけた書である、ことが良くわかります。つまり、主を信じる者は、そのみ言葉によって、いかに生きるべきか、行動するべきかを考え、行動しなければならないのです。その結果、実行なき信仰は無であるという結論に導かれます。
 各章ごとの概説:
 第1~2章:ヤコブはその手紙を「離散した12部族に向けて書きました。彼らは迫害下にあって、その信仰に揺るぎを感じていたからです。彼は言う「忍耐によって試練に耐えよ、知恵を求めて信仰に見合った生活をし、サタンからの誘惑を拒否せよ」と。「神のみ言葉を聞き、また行え」と。「そのことによって完全なものとなれ」。「その証として孤児や、やもめの世話をし、自らを清め、罪から解放せよ」と勧告する。
 聖徒たちは隣人を愛し、自らの行いを通して信仰を示しなさい。
 第3~4章:ヤコブは言います「皆が教師(みことばを取り次ぐ聖職者)になるな」と。語ることの多い務めだからです。人は言葉で失敗します。言葉で失敗しない人がいたら、その人は体全体を制御できる人です。舌(言葉)は小さな器官ですが大きなことを誇ります。舌は父である主をほめたたえ、同じ舌が主を呪います。このような矛盾を主は嫌います。言葉(舌)を制することは内側に良いもので満たすということです。言葉(舌)を制して知恵にふさわしく生きなさい。悪魔の誘惑を拒否しなさい。
あなたに願いが生じたら、神に願いなさい。その願いが正しいものなら、叶えられます。世を愛するものなら拒否されます。それは、戦争や争いの原因となるからです。
 ヤコブは言います「人をさばくな」と。さばくことのできるお方は、主のみです。主は言います「復讐は我にあり」と。
 主のみ心ならば、あなたの願いを行いなさい。「なすべき正しいことを行わないのは、その人の罪」だからです。」。
 第5章:不当に富を蓄えることに対する警告が語られます。この世の富は一時的で最終的には消え去る空しいものです。彼らは、罪びとで、「終わりの日」が来るまで、それを理解できずに、民を搾取して肥え太っています。これらの富裕層が、主の再来によって滅ぼされ、あなたがたが救われる「その日」がくるまで、忍耐をもって待ち望みなさい。さばきは主の務めです。その日は近いのです。主は慈愛とあわれみに満ちた優しいお方です。約束は必ず守られるお方です。とヤコブは散らされ、迫害下にあった人たちを励まします。しかし神に対して「誓い」と言う言葉を軽々しく言ってはならないのです。人の言う「誓い」ほどあてにならないものはないからです。神に対する応答は「YES」か「NO」です。罪びとを、迷いの道から救い出すものは、罪びとのたましいを死から救い出し、多くの罪をおおうのです。
平成2平年5月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会