この短編集3の紹介をもってヘミングウエイの作品の紹介を終える。ヘミングウエイは多くの長編と短編を残しているが、少なくとも日本で市販されている彼の作品はすべて紹介したと思う。年代順に言えば、「われらの時代」(スケッチ)1924年、「われらの時代」(短編集)1925年、「日はまた昇る」1926年、「男だけの世界」1927年、「武器よさらば」1929年、「勝者に報酬はない」1933年、「キリマンジャロの雪」1938年、「誰がために鐘は鳴る」1940年、「老人と海」1952年、死後出版されたものとしては「移動祝祭日」1964年、「海流の中の島々」1970年「何を見ても何かを思い出す」1987年を挙げることができる。これだけ読めば他の作品は読まなくとも、彼の思想を知ることができる。彼の作品は基本的にはフィクションであるが、彼の体験がその底流に存在している。
彼の人生に大きな影響を与えたものの一つに戦争体験がある。第1次世界大戦(1914年~18年)、ギリシャ・トルコ戦争(1919年~39年)、スペイン内戦(1936年~39年)第2次世界大戦(1939年~45年)と戦争の世紀といわれた20世紀のほとんどの戦争に兵士として、新聞記者としては冷徹な観察者として関与している。そしてその残酷さ、非情さ、恐ろしさに接して、虚無感に襲われる。この短編集ではスペイン内戦の状況が語られる。「橋のたもとの老人」「密告」「蝶々と戦車」「戦いの前夜」「分水嶺のもとで」「誰も死にはしない」「死の遠景」とヘミングウエイ自身はスペイン人民をファシズムの脅威から守るという正義感から人民戦線派内閣に共感を示すが、その指揮の無知・無能ゆえの戦況を誤っての無謀な攻撃、そんな無意味・無益な戦闘を繰り返し、多くの犠牲者を出し敗北していく人民戦線派の部隊。人民戦線派内部の矛盾を浮き彫りにした作品が展開される。ヘミングウエイは必ずしも進んでスペイン内戦に関与したわけではない。「異卿」の中でその葛藤が描かれる。「この世の何ものにもまして自分の子供の面倒をみる義務がある。そう、子供たちが平和に暮らせる世界を取り戻すための戦いを強いられるまでは、----」、「子供たちと過ごすより闘うほうが重要な時が来るまでは」と自分が元妻たちのもとに残してきた息子たちのことを思う。
戦争この不条理なもの
スペイン革命は、ソ連(当時)や中国、キューバなどと違って選挙による平和革命であり、暴力革命ではなかった。だからそこには流血の惨事はない。第一次共和制を経験しマヌエル・アサーニャ率いる第二次共和制の時に内戦が勃発する。この共和国政府は寄り合い所帯であり左派共和党、社会党、共産党、アナーキストグループと互いにしのぎを削っていた。そのため政府は統一的な政策を打ち出すことができず、労働者はストライキを頻発し、それによる生産低下、資本の国外逃亡を招き、失業者は増大し、税収は不足し、インフレは昂進し、民心は乱れた。このようにスペイン経済状況は麻痺寸前にあった。それに対して共和国政府は有効な対策を取れず政治、経済、社会は混乱した。フランコによる軍部右派の反乱はある意味では必然だったのである。 軍部は資本家、地主、教会と結び共和国政府が組織した人民戦線派内閣と対峙した。ファシストドイツ、イタリア王国、ポルトガル共和国は反乱側に付き、共和国政府にはメキシコとソ連がつき義勇兵の集まりである国際旅団が組織された。こんな危機的な状況の中でも、政府は統一的な政策を打ち出せず、戦争が先か、革命が先かと争っていた。
このような状況は戦いの現場にも反映し、指揮は乱れた。
軍隊とは縦割り組織であり、上からの命令は絶対である。粗末な指揮とわかっていながら兵士はそれに従わなければならない。その結果の敗北がわかっており、そのために犬死にすることを嫌った義勇兵のフランス人は敵前逃亡して、憲兵に追われ射殺される。攻撃を前にし、恐怖に襲われ、自らを傷つけ前線を離脱し、傷が癒え、前線に復帰した少年兵は、自らの行為を反省していたにもかかわらず、見せしめのため兵士達の前で射殺される。これが「分水嶺の下に」で描かれている。憲兵の一人は言う「戦争において規律を保つことが必要だからな」と。「戦いの前夜」ではお粗末な指揮、無謀な攻撃を明日に控えた一人の戦車兵の将校の姿が描かれる。そこには敗戦があり、自ら犬死が予測される。そんな闘いに参加することに怒りを感じながらも、彼は粛々として戦いの準備をする。なぜ敗北とわかっている戦争に参加しなければならないのか?戦い以外に他の方法はないのか?撤退するとか、援軍を待つとか。そういう疑問は戦争を前にして余計なことである。それは戦争の持つ不条理である。正義は規律の前では無用である。兵士たちの総意が上に反映されることなど絶対にない。「誰も死にはしない」では体制を立て直すためにバチスタ独裁政権下のキューバに一時的に帰還した人民戦線派の兵士男女二人の姿が描かれる。彼らの隠れ家は密告によりキューバの官憲に襲われる。彼らは逃げ出す。しかし、男は射殺され、女は捕われる。女には仲間の情報を聞き出すために行われる激しい拷問が待っている。しかし女は毅然としている。射殺された男=エンリケと同じく戦死した仲間たちが助けに来ると固く信じている。それは盲真でしかない。決して助けに来ることのない仲間に期待をしている。しかし、彼女にとっては「誰も死にはしない」のである。ここにも不条理の世界がある。そんな女を見て官憲は言う「女は狂っている」と。当時のバチスタ政権は内にカストロたちの反政府勢力をかかえていたため、スペインの共産政権に反抗するフランコたちの反政府勢力に共感を覚えていたのであろう。それでなければよその国の内戦に関与する理由がわからない。「蝶々と戦車」ではファシストによって何カ月にもわたって包囲されたスペインの首都マドリードの陰鬱な世界が描かれている。居酒屋「チコーテ」に一人の水鉄砲をもった陽気な男が現れる。彼は誰かれ構わず水鉄砲を発射する。最初はそんな男を歓迎していたお客も、そのやり過ぎに辟易とする。軍服を着た兵士が現れ、外につまみだすが、彼は再び中に入り同じことを繰り返す。怒った兵士は彼を射殺する。居酒屋の主人は言う「彼の陽気さが、戦争の持つ深刻さにぶつかった末の悲劇だったのだ」と。水鉄砲の男はあたかも蝶々のように浮かれていた。それが戦車のように硬く妥協を許さぬ制服姿の兵士にぶつかって跳ね飛ばされたのである。「密告」:同じく居酒屋「チコーテ」での話。嘗ては私の友人であったが、今はファシストになった男の話である。「チコーテ」で彼が情報活動(スパイ行為)をしているのを私は目撃する。官憲に通報すれば彼は逮捕され銃殺されるであろう。私は彼を密告することに躊躇する。それはかっての友人を裏切ることになるからである。嘗ては「チコーテ」の常連であったかもしれないが今は共和国政府の首都「マドリード」の居酒屋である。なぜ戻ったのかと私は怒りを感じる。葛藤の末私は密告を決意する。「橋のたもとの老人」陰惨、陰鬱な物語のなかで、この作品だけは心温まる話である。砲撃が始まるから避難しろという命令のもと、多くの人たちが続々と避難している。そんな中に歩みを止めている一人の老人を私は認める。彼は家に猫とヤギとハトを残して避難してきたのである。彼らはどうなるかと老人は心配している。私は言う「猫は大丈夫だ、ハトも扉を開けていれば飛んでいくであろう、だけどヤギは?」私には心配すること以外何もできない。
「死の遠景」これはヘミングウエイの生前未発表作品の一つである。この作品には第3番目の夫人であるマーサーゲルホーンと思われる女性記者が現れる。ヘミングウエイは報道記者としてスペイン内戦の状況を映画に撮るために訪れるのであるが、その撮影の状況が描かれる。ヘミングウエイは人民戦線派に共感を示しながらも、その描く状況は全て敗戦である。そしてその状況を批判的に描く。この作品も同様である。援護が無ければ勝てないと判っていながら、それを待たず無謀な攻撃をし、失敗をして敗れ、逃げまどい殺戮されて行く兵士たちの無残な姿を冷静な報道記者の目で描いている。そんななか視察と称して現れる“偉者”の無能で、滑稽な姿が描かれる。この偉者はおそらく無知無能自分たちのことしか考えない、人民戦線派の幹部の姿を象徴しているのであろう。同じく生前未発表作品の一つ「十字路の憂鬱」がある。これはスペインの内戦を描いたものではなく、第2次世界大戦について描いている。珍しく勝利の姿が描かれている。敗走するドイツ兵の部隊を十字路で待ち伏せし、これをせん滅する連合国の部隊の物語である。もはや戦争の帰趨は決しており、これ以上の殺戮は不要と判っていながら、なぜそれを繰り返すのか?ここにも戦争の持つ不条理が描かれる。華々しい戦果を描きながらもそこには勝利の喜びはない。無残に横たわるドイツ兵の姿を見ながら我々は憂鬱だった。
不条理という言葉を辞書で引くと英語ではabsurdであり、道理に合わぬこと、常識に反していること、滑稽、馬鹿らしいと出る。まさにスペイン内戦について述べているようだ。
国際旅団:スペイン内戦の際、スペイン共和国政府によって編成された、外国人義勇兵による部隊。部隊には延べ6万人の男女が参加したが、うち1万人以上が戦死した。部隊には55以上の国から参加者がいた。総参加者の60~85%が各国の共産党員であり、社会階層は知識人や学生が20%、労働者が80%であった。マルローやヘミングウエイ等の文化人が指導的立場にあった。
海の冒険
次に彼の人生に大きな影響を与えたものに屋外活動がある。彼は若いころからスポーツに興じ、父の指導のもとにサッカーやボクシング、射撃、渓流釣りと多彩である。妻のハドリーと共にパリに居を移してからはスイスでのスキー、森に分け入っての渓流釣り、スペインに訪れ闘牛に感動し、自らも体験する。
キー・ウエスト時代には、アフリカの原野でサファリを楽しみ、大型船「ピラール号」を建造し。それを操って大魚釣りを楽しんでいる。さらに「海流の中の島々」の「洋上」の章で紹介したとおり、第二次世界大戦のときにはピラール号を改造して、ドイツのUボート探索も行っている。
この短編集にある作品「ある渡航」と「密輸業者の帰還」では海の冒険が描かれる。「ある渡航」では12人の密航者を助けるために船をチャーターしたギャングの大物の中国人を殺害する話である。密航はリスクを伴う話である。船の借主は、密航者から金だけを受け取って、途中で彼らの殺害を計画していたのである。船長のハリーはこの意図を見抜き、これを未然に防ぐ。「密輸業者の帰還」では酒の密輸を試みた男=ハリーが官憲に追われ銃撃戦の末に重傷を負う。そして港に帰還する途中、時の大統領に対しても影響力をもつ政界の大物(黒幕)をのせた釣り船に遭遇する。この大物は密輸船を捕え、これを官憲に引き渡そうとする。しかしこの釣り船の船長ウイリーの機転で密輸船の船長=ハリーとその仲間は救われる。彼は大物に言う「密輸しなければ食っていけない人がいる反面、政治・経済の裏側で価格を操り膨大な利益をむさぼっているお前たちは許せない」と。この二つの作品は当時のアメリカ社会の裏面を批判的に語っている。
第三に彼の人生を彩るものがその多彩な女性遍歴である。その女性遍歴を通じて彼は成長する。パリ時代の著名な作家であり、ヘミングウエイの友人でもあったフィツジェラルドは言っている「ヘミングウエイは長編を書くたびに新しい女性が必要なのさ」と。「武器よさらば」の時は第2番目の夫人ポーリーンが、「誰がために鐘は鳴る」の時は第3の夫人となるマーサ・ゲルホーンが存在している。ヘミングウエイは言う「わたしが生涯で本当に愛したのは2人しかいない。他は女性を愛したのではなく女体を愛したのだ」と。それは「異卿」の中でヘミングウエイの変身であるロジャーに言わしている言葉である。異郷とはまさに女体であり、人を歓喜の世界に導く不可思議な世界なのである。ロジャーは一緒に旅をした愛人ヘレーナの身体にのめりこんでいく。数度にわたる彼女との交わりの後に、それまで常に味わっていた孤独感や虚無感からは解放されていた。真実の愛に目覚めたのである。 ヘミングウエイは4人の女性と結婚し、3度離婚している。彼女たち以外にも数人の女性と浮名を流している。この作品の童話、「善良なライオン(邪悪なライオンにいじめられていた善良なライオンが攻撃を逃れて故郷に帰り幸せになった話)」「一途な雄牛(恋にも闘牛にも一途な雄牛の話)」はそんな女性の一人アドリアーナ(珍しくプラトニックラブ)の甥っ子の為に書かれた作品である。アドリアーナはこの作品の挿絵を担当している。
さらに彼の作品を特徴づけるものはその自然描写である。絵を描くように自然を書きたいと言っているように、彼の描く自然は一服の名画を見ているように美しい。セザンヌを愛した彼は、セザンヌの描く絵のように文章を書きたかったのであろう。「汽車の旅」「ポーター」「異卿」では車窓の外に広がる自然を描き、兄妹の逃避行を描いた「最後の良き故郷」での森林の描写は、とても美しい。
ヘミングウエイをうつ病にまで追い込み自殺にまで追い込んだものの一つに数々の事故歴がある。第1次世界大戦中イタリア戦線で被弾し重傷を負ったのを皮切りに、2度の交通事故、2度の飛行機の墜落事故と生涯に大事故を経験している。とくに2度目の飛行機事故では九死に一生を得たものの、左目の視力と左目の聴力を失い脳震とう、腎臓、脾臓、肝臓、の損傷と惨憺たる状況だったという。この結果自力で執筆が出来なくなり口述筆記に頼らざるを得なかったという。「盲導犬としてではなく」ではそんなヘミングウエイを献身的に看病する4番目の夫人メアリー・ウイルシュの姿がある。
最後に述べたいのはその家族愛である。「ニック・アダムス物語」という短編集の中には、ヘミングウエイ自身の家族愛(特に父と子の)について描かれているのだが、それは短編集として日本では発刊されていない。ヘミングウエイの父クレランスは、ヘミングウエイのキーウエスト時代に拳銃自殺をしているのでその作品は主に思い出話になっている。
「アフリカ物語」「汽車の旅」「ポーター」「何を見ても何かを思い出す」には父の子に対する愛が描かれている。そのほか兄と妹の愛が「最後の良き故郷」に、また夫婦の愛を描いたものに「盲導犬としてではなく」がある。さらに家族愛ではないが略奪愛も「サマーピープル」の中で描かれている。
「アフリカ物語」では、その象牙を商品として売るために年老いた像を殺害することに怒りを感ずる純真な少年の姿が描かれている。父は「余計なことは考えるな」という。「いつか判る時が来る」という。父は現実の営みとは何かをその長い年月の経験から知り尽くしているので、その子デーヴィトが大人になるまではと思い、その優しい気持ちを大切にしようと思う。
「汽車の旅」「ポーター」には父と子の汽車での旅行中の出来事が描かれている。「汽車の旅」では、護送中の殺人容疑者の脱走事件が描かれており、子はその一部始終を目撃する。「ポーター」では子とポーターとの心の交流が描かれている。
旅には様々な出来事があり、人との交流がある。車窓の外には美しいが、時には嵐のように人に脅威を与える自然がある。ヘミングウエイは自然と人とを同時に描くことにより、人生とは変化し、移りゆくものであり、決して一か所に留まるものではないものであり(『諸行無常』)、人はその中で成長すると考える。そして人生の真実を見つめる。
旅と人生を同一視する思想は別にヘミングウエイに限ったことではないが、「人生とは何か」などとは一言も書かず具体的な事実を描くことにより、それを読者に知らせようとする。読者の感性に期待する。ここにも「氷山の理論」がある。
「何を見ても何かを思い出す」は、作文によって賞を取った息子の作品が、実は他人の文章の剽窃であったと、後年知り、嘆く父親の姿が描かれている。そこには人間の社会にはそんなこともあるのだというあきらめの気持ちがある。それが人の世の真実である。純真な少年の心は、世の荒波の中で不純なものに変わっていく。いや世の中を受け入れるようになる。それが成長なのである。ここにも世の不条理がある。この不条理を正すには革命しかないと叫べば、そんな子供っぽいことは言うなと笑われる。人は幻想を追いかけ、破滅する。そんな姿を僕はあまりに見過ぎてきた。ヘミングウエイ自身「ポーター」の中でいう。「なまじ妄想を抱くと、監獄入りになっちまう」「--------結局、この世で価値あるものなんざあ、何もないのさ」と。この言葉はヘミングウエイ自身がスペイン内戦で人民戦線派に期待したことの結論だったのだろう。その他、家族愛を描いたものに「最後の故郷」、「盲導犬としてではなく」がある。「最後の故郷」では法律で狩猟することが禁じられている保護獣の鹿を過って殺害した男が、妹と共に密漁監視官の追及を逃れて森に分け入る物語であり、兄と妹の愛情があたかも恋人同士のようにリアリスチックに描かれる。妹は兄と結婚したいとまで思う。同時に森林の美しさがさながら絵を見るように描かれている。「盲導犬としてではなく」は回復の望みを断たれた療養中の盲目の男が、自分を気遣って、看病に努める妻への愛情に応えようとする。夫の妻に対する愛情が描かれている。お互いがお互いを思いやる愛、その中に晩年のヘミングウエイの第4番目の妻メアリー・ウィルシュに対する愛を見ることができる。彼女は生前のヘミングウエイに対し献身的に尽くしたといわれている。とくに第2の飛行機事故で重傷を負った後はそうであったという。その愛は、ポーリーンやゲルホーン等の強烈な自己主張を伴った愛とは一味違った自己を殺した相手を思いやるものだったという。その点では7歳年上の最初の夫人ハドリーの母親的な愛と共通するものがあったに違いない。事故とその療養生活を通じて2人の愛は深められたという。彼女はヘミングウエイの最後を看取り、生前未発表の作品を整理、統合、編集して、発刊に努力している。「サマーピープル」は他人の恋する女を奪ってわがものにする身勝手な男の話である。
「異卿」では男とその愛人の愛情生活がマイアミから西部までの四日間の旅の間に描かれる。そこには常に自分に対する男の愛を確かめざるを得ない切ない女心がある。このように父と子、夫婦、愛人、兄妹、の愛が時の状況を背景にして描かれているが、何故か、母に対する愛は描かれていない。母はヘミングウエイを嫌っていたという。それ故、ヘミングウエイは母の葬式への出席を拒否している。
異郷
この作品については部分的には紹介したが、全体として述べてみたい。この作品は愛人(ヘレーナ)と共にマイアミから西部へ向かった一人の男(ロジャ―)の4日間のドライブの途中で起こった出来事について語ったものであり、自らの内面を見つめるラブストーリーでもある。そこにはヘミングウエイの人生観のすべてが凝縮されている。ヘミングウエイの女性観があり、スペイン戦争に関与すべきか否かの葛藤があり、書けないことの焦りがあり、キー・ウエスト時代の「くだらない連中」とのつきあいと、その反省とが描かれている。さらに、共に旅をした女性との関係を通じて愛とは何かが語られる。おそらくヘミングウエイはこの後を書くことを予定していたのではなかろうか?それはこの作品の最後の2たりの会話の中から想像できるのである。ヘレナは言う「----それから、続きを話してちょうだい」と。この作品が未発表の作品に含まれていることを考えてもそう思われる。それに終わり方が尻切れトンボだからである。それはともかくも、この作品の最後に掲載されている最初の夫人ハドリーのヘミングウエイのこれから書くことを予定していた、すべての原稿(コピーも含む)の紛失(盗難か?) 事件はヘミングウエイを底なしの絶望へ陥れたのである。そこから再生するには多くの時間を要したという。その衝撃の深さが詳細に描かれている。しかし、この事件は彼の文学活動に一つの転機をもたらしたのである。「氷山の理論」はここから生まれたといわれている。
終わりに
このようにしてヘミングウエイの短編集1,2,3の紹介をもって長編、短編を含めてすべての作品の紹介を終わりとする。そこにはヘミングウエイの波乱万丈の人生が描かれている。もちろんその作品のすべてはフィクションであるが、その底流にはヘミングウエイ自身の人生がある。そこには人間ヘミングウエイの実像があり、真実がある。これらの作品を読むとき一般に流布されているスーパーマン的イメージはあくまでも彼の一面の真実であって、全体像ではないと感じるのである。その戦争体験、愛情生活、屋外活動、そして作家活動は、波乱万丈の20世紀を背景にして一人の作家ヘミングウエイが、人生において信じられる価値とは何かと探し求め、悩み、苦しみ、真剣かつ真摯に生きたあかしを我々の前に提示してくれる。その意味でヘミングウエイは20世紀を代表する偉大な作家の一人といって過言ではあるまい。
「蝶々と戦車・何を見ても何かを思い出す」ヘミングウエイ短編集3 高見浩訳
新潮文庫 新潮社刊
彼の人生に大きな影響を与えたものの一つに戦争体験がある。第1次世界大戦(1914年~18年)、ギリシャ・トルコ戦争(1919年~39年)、スペイン内戦(1936年~39年)第2次世界大戦(1939年~45年)と戦争の世紀といわれた20世紀のほとんどの戦争に兵士として、新聞記者としては冷徹な観察者として関与している。そしてその残酷さ、非情さ、恐ろしさに接して、虚無感に襲われる。この短編集ではスペイン内戦の状況が語られる。「橋のたもとの老人」「密告」「蝶々と戦車」「戦いの前夜」「分水嶺のもとで」「誰も死にはしない」「死の遠景」とヘミングウエイ自身はスペイン人民をファシズムの脅威から守るという正義感から人民戦線派内閣に共感を示すが、その指揮の無知・無能ゆえの戦況を誤っての無謀な攻撃、そんな無意味・無益な戦闘を繰り返し、多くの犠牲者を出し敗北していく人民戦線派の部隊。人民戦線派内部の矛盾を浮き彫りにした作品が展開される。ヘミングウエイは必ずしも進んでスペイン内戦に関与したわけではない。「異卿」の中でその葛藤が描かれる。「この世の何ものにもまして自分の子供の面倒をみる義務がある。そう、子供たちが平和に暮らせる世界を取り戻すための戦いを強いられるまでは、----」、「子供たちと過ごすより闘うほうが重要な時が来るまでは」と自分が元妻たちのもとに残してきた息子たちのことを思う。
戦争この不条理なもの
スペイン革命は、ソ連(当時)や中国、キューバなどと違って選挙による平和革命であり、暴力革命ではなかった。だからそこには流血の惨事はない。第一次共和制を経験しマヌエル・アサーニャ率いる第二次共和制の時に内戦が勃発する。この共和国政府は寄り合い所帯であり左派共和党、社会党、共産党、アナーキストグループと互いにしのぎを削っていた。そのため政府は統一的な政策を打ち出すことができず、労働者はストライキを頻発し、それによる生産低下、資本の国外逃亡を招き、失業者は増大し、税収は不足し、インフレは昂進し、民心は乱れた。このようにスペイン経済状況は麻痺寸前にあった。それに対して共和国政府は有効な対策を取れず政治、経済、社会は混乱した。フランコによる軍部右派の反乱はある意味では必然だったのである。 軍部は資本家、地主、教会と結び共和国政府が組織した人民戦線派内閣と対峙した。ファシストドイツ、イタリア王国、ポルトガル共和国は反乱側に付き、共和国政府にはメキシコとソ連がつき義勇兵の集まりである国際旅団が組織された。こんな危機的な状況の中でも、政府は統一的な政策を打ち出せず、戦争が先か、革命が先かと争っていた。
このような状況は戦いの現場にも反映し、指揮は乱れた。
軍隊とは縦割り組織であり、上からの命令は絶対である。粗末な指揮とわかっていながら兵士はそれに従わなければならない。その結果の敗北がわかっており、そのために犬死にすることを嫌った義勇兵のフランス人は敵前逃亡して、憲兵に追われ射殺される。攻撃を前にし、恐怖に襲われ、自らを傷つけ前線を離脱し、傷が癒え、前線に復帰した少年兵は、自らの行為を反省していたにもかかわらず、見せしめのため兵士達の前で射殺される。これが「分水嶺の下に」で描かれている。憲兵の一人は言う「戦争において規律を保つことが必要だからな」と。「戦いの前夜」ではお粗末な指揮、無謀な攻撃を明日に控えた一人の戦車兵の将校の姿が描かれる。そこには敗戦があり、自ら犬死が予測される。そんな闘いに参加することに怒りを感じながらも、彼は粛々として戦いの準備をする。なぜ敗北とわかっている戦争に参加しなければならないのか?戦い以外に他の方法はないのか?撤退するとか、援軍を待つとか。そういう疑問は戦争を前にして余計なことである。それは戦争の持つ不条理である。正義は規律の前では無用である。兵士たちの総意が上に反映されることなど絶対にない。「誰も死にはしない」では体制を立て直すためにバチスタ独裁政権下のキューバに一時的に帰還した人民戦線派の兵士男女二人の姿が描かれる。彼らの隠れ家は密告によりキューバの官憲に襲われる。彼らは逃げ出す。しかし、男は射殺され、女は捕われる。女には仲間の情報を聞き出すために行われる激しい拷問が待っている。しかし女は毅然としている。射殺された男=エンリケと同じく戦死した仲間たちが助けに来ると固く信じている。それは盲真でしかない。決して助けに来ることのない仲間に期待をしている。しかし、彼女にとっては「誰も死にはしない」のである。ここにも不条理の世界がある。そんな女を見て官憲は言う「女は狂っている」と。当時のバチスタ政権は内にカストロたちの反政府勢力をかかえていたため、スペインの共産政権に反抗するフランコたちの反政府勢力に共感を覚えていたのであろう。それでなければよその国の内戦に関与する理由がわからない。「蝶々と戦車」ではファシストによって何カ月にもわたって包囲されたスペインの首都マドリードの陰鬱な世界が描かれている。居酒屋「チコーテ」に一人の水鉄砲をもった陽気な男が現れる。彼は誰かれ構わず水鉄砲を発射する。最初はそんな男を歓迎していたお客も、そのやり過ぎに辟易とする。軍服を着た兵士が現れ、外につまみだすが、彼は再び中に入り同じことを繰り返す。怒った兵士は彼を射殺する。居酒屋の主人は言う「彼の陽気さが、戦争の持つ深刻さにぶつかった末の悲劇だったのだ」と。水鉄砲の男はあたかも蝶々のように浮かれていた。それが戦車のように硬く妥協を許さぬ制服姿の兵士にぶつかって跳ね飛ばされたのである。「密告」:同じく居酒屋「チコーテ」での話。嘗ては私の友人であったが、今はファシストになった男の話である。「チコーテ」で彼が情報活動(スパイ行為)をしているのを私は目撃する。官憲に通報すれば彼は逮捕され銃殺されるであろう。私は彼を密告することに躊躇する。それはかっての友人を裏切ることになるからである。嘗ては「チコーテ」の常連であったかもしれないが今は共和国政府の首都「マドリード」の居酒屋である。なぜ戻ったのかと私は怒りを感じる。葛藤の末私は密告を決意する。「橋のたもとの老人」陰惨、陰鬱な物語のなかで、この作品だけは心温まる話である。砲撃が始まるから避難しろという命令のもと、多くの人たちが続々と避難している。そんな中に歩みを止めている一人の老人を私は認める。彼は家に猫とヤギとハトを残して避難してきたのである。彼らはどうなるかと老人は心配している。私は言う「猫は大丈夫だ、ハトも扉を開けていれば飛んでいくであろう、だけどヤギは?」私には心配すること以外何もできない。
「死の遠景」これはヘミングウエイの生前未発表作品の一つである。この作品には第3番目の夫人であるマーサーゲルホーンと思われる女性記者が現れる。ヘミングウエイは報道記者としてスペイン内戦の状況を映画に撮るために訪れるのであるが、その撮影の状況が描かれる。ヘミングウエイは人民戦線派に共感を示しながらも、その描く状況は全て敗戦である。そしてその状況を批判的に描く。この作品も同様である。援護が無ければ勝てないと判っていながら、それを待たず無謀な攻撃をし、失敗をして敗れ、逃げまどい殺戮されて行く兵士たちの無残な姿を冷静な報道記者の目で描いている。そんななか視察と称して現れる“偉者”の無能で、滑稽な姿が描かれる。この偉者はおそらく無知無能自分たちのことしか考えない、人民戦線派の幹部の姿を象徴しているのであろう。同じく生前未発表作品の一つ「十字路の憂鬱」がある。これはスペインの内戦を描いたものではなく、第2次世界大戦について描いている。珍しく勝利の姿が描かれている。敗走するドイツ兵の部隊を十字路で待ち伏せし、これをせん滅する連合国の部隊の物語である。もはや戦争の帰趨は決しており、これ以上の殺戮は不要と判っていながら、なぜそれを繰り返すのか?ここにも戦争の持つ不条理が描かれる。華々しい戦果を描きながらもそこには勝利の喜びはない。無残に横たわるドイツ兵の姿を見ながら我々は憂鬱だった。
不条理という言葉を辞書で引くと英語ではabsurdであり、道理に合わぬこと、常識に反していること、滑稽、馬鹿らしいと出る。まさにスペイン内戦について述べているようだ。
国際旅団:スペイン内戦の際、スペイン共和国政府によって編成された、外国人義勇兵による部隊。部隊には延べ6万人の男女が参加したが、うち1万人以上が戦死した。部隊には55以上の国から参加者がいた。総参加者の60~85%が各国の共産党員であり、社会階層は知識人や学生が20%、労働者が80%であった。マルローやヘミングウエイ等の文化人が指導的立場にあった。
海の冒険
次に彼の人生に大きな影響を与えたものに屋外活動がある。彼は若いころからスポーツに興じ、父の指導のもとにサッカーやボクシング、射撃、渓流釣りと多彩である。妻のハドリーと共にパリに居を移してからはスイスでのスキー、森に分け入っての渓流釣り、スペインに訪れ闘牛に感動し、自らも体験する。
キー・ウエスト時代には、アフリカの原野でサファリを楽しみ、大型船「ピラール号」を建造し。それを操って大魚釣りを楽しんでいる。さらに「海流の中の島々」の「洋上」の章で紹介したとおり、第二次世界大戦のときにはピラール号を改造して、ドイツのUボート探索も行っている。
この短編集にある作品「ある渡航」と「密輸業者の帰還」では海の冒険が描かれる。「ある渡航」では12人の密航者を助けるために船をチャーターしたギャングの大物の中国人を殺害する話である。密航はリスクを伴う話である。船の借主は、密航者から金だけを受け取って、途中で彼らの殺害を計画していたのである。船長のハリーはこの意図を見抜き、これを未然に防ぐ。「密輸業者の帰還」では酒の密輸を試みた男=ハリーが官憲に追われ銃撃戦の末に重傷を負う。そして港に帰還する途中、時の大統領に対しても影響力をもつ政界の大物(黒幕)をのせた釣り船に遭遇する。この大物は密輸船を捕え、これを官憲に引き渡そうとする。しかしこの釣り船の船長ウイリーの機転で密輸船の船長=ハリーとその仲間は救われる。彼は大物に言う「密輸しなければ食っていけない人がいる反面、政治・経済の裏側で価格を操り膨大な利益をむさぼっているお前たちは許せない」と。この二つの作品は当時のアメリカ社会の裏面を批判的に語っている。
第三に彼の人生を彩るものがその多彩な女性遍歴である。その女性遍歴を通じて彼は成長する。パリ時代の著名な作家であり、ヘミングウエイの友人でもあったフィツジェラルドは言っている「ヘミングウエイは長編を書くたびに新しい女性が必要なのさ」と。「武器よさらば」の時は第2番目の夫人ポーリーンが、「誰がために鐘は鳴る」の時は第3の夫人となるマーサ・ゲルホーンが存在している。ヘミングウエイは言う「わたしが生涯で本当に愛したのは2人しかいない。他は女性を愛したのではなく女体を愛したのだ」と。それは「異卿」の中でヘミングウエイの変身であるロジャーに言わしている言葉である。異郷とはまさに女体であり、人を歓喜の世界に導く不可思議な世界なのである。ロジャーは一緒に旅をした愛人ヘレーナの身体にのめりこんでいく。数度にわたる彼女との交わりの後に、それまで常に味わっていた孤独感や虚無感からは解放されていた。真実の愛に目覚めたのである。 ヘミングウエイは4人の女性と結婚し、3度離婚している。彼女たち以外にも数人の女性と浮名を流している。この作品の童話、「善良なライオン(邪悪なライオンにいじめられていた善良なライオンが攻撃を逃れて故郷に帰り幸せになった話)」「一途な雄牛(恋にも闘牛にも一途な雄牛の話)」はそんな女性の一人アドリアーナ(珍しくプラトニックラブ)の甥っ子の為に書かれた作品である。アドリアーナはこの作品の挿絵を担当している。
さらに彼の作品を特徴づけるものはその自然描写である。絵を描くように自然を書きたいと言っているように、彼の描く自然は一服の名画を見ているように美しい。セザンヌを愛した彼は、セザンヌの描く絵のように文章を書きたかったのであろう。「汽車の旅」「ポーター」「異卿」では車窓の外に広がる自然を描き、兄妹の逃避行を描いた「最後の良き故郷」での森林の描写は、とても美しい。
ヘミングウエイをうつ病にまで追い込み自殺にまで追い込んだものの一つに数々の事故歴がある。第1次世界大戦中イタリア戦線で被弾し重傷を負ったのを皮切りに、2度の交通事故、2度の飛行機の墜落事故と生涯に大事故を経験している。とくに2度目の飛行機事故では九死に一生を得たものの、左目の視力と左目の聴力を失い脳震とう、腎臓、脾臓、肝臓、の損傷と惨憺たる状況だったという。この結果自力で執筆が出来なくなり口述筆記に頼らざるを得なかったという。「盲導犬としてではなく」ではそんなヘミングウエイを献身的に看病する4番目の夫人メアリー・ウイルシュの姿がある。
最後に述べたいのはその家族愛である。「ニック・アダムス物語」という短編集の中には、ヘミングウエイ自身の家族愛(特に父と子の)について描かれているのだが、それは短編集として日本では発刊されていない。ヘミングウエイの父クレランスは、ヘミングウエイのキーウエスト時代に拳銃自殺をしているのでその作品は主に思い出話になっている。
「アフリカ物語」「汽車の旅」「ポーター」「何を見ても何かを思い出す」には父の子に対する愛が描かれている。そのほか兄と妹の愛が「最後の良き故郷」に、また夫婦の愛を描いたものに「盲導犬としてではなく」がある。さらに家族愛ではないが略奪愛も「サマーピープル」の中で描かれている。
「アフリカ物語」では、その象牙を商品として売るために年老いた像を殺害することに怒りを感ずる純真な少年の姿が描かれている。父は「余計なことは考えるな」という。「いつか判る時が来る」という。父は現実の営みとは何かをその長い年月の経験から知り尽くしているので、その子デーヴィトが大人になるまではと思い、その優しい気持ちを大切にしようと思う。
「汽車の旅」「ポーター」には父と子の汽車での旅行中の出来事が描かれている。「汽車の旅」では、護送中の殺人容疑者の脱走事件が描かれており、子はその一部始終を目撃する。「ポーター」では子とポーターとの心の交流が描かれている。
旅には様々な出来事があり、人との交流がある。車窓の外には美しいが、時には嵐のように人に脅威を与える自然がある。ヘミングウエイは自然と人とを同時に描くことにより、人生とは変化し、移りゆくものであり、決して一か所に留まるものではないものであり(『諸行無常』)、人はその中で成長すると考える。そして人生の真実を見つめる。
旅と人生を同一視する思想は別にヘミングウエイに限ったことではないが、「人生とは何か」などとは一言も書かず具体的な事実を描くことにより、それを読者に知らせようとする。読者の感性に期待する。ここにも「氷山の理論」がある。
「何を見ても何かを思い出す」は、作文によって賞を取った息子の作品が、実は他人の文章の剽窃であったと、後年知り、嘆く父親の姿が描かれている。そこには人間の社会にはそんなこともあるのだというあきらめの気持ちがある。それが人の世の真実である。純真な少年の心は、世の荒波の中で不純なものに変わっていく。いや世の中を受け入れるようになる。それが成長なのである。ここにも世の不条理がある。この不条理を正すには革命しかないと叫べば、そんな子供っぽいことは言うなと笑われる。人は幻想を追いかけ、破滅する。そんな姿を僕はあまりに見過ぎてきた。ヘミングウエイ自身「ポーター」の中でいう。「なまじ妄想を抱くと、監獄入りになっちまう」「--------結局、この世で価値あるものなんざあ、何もないのさ」と。この言葉はヘミングウエイ自身がスペイン内戦で人民戦線派に期待したことの結論だったのだろう。その他、家族愛を描いたものに「最後の故郷」、「盲導犬としてではなく」がある。「最後の故郷」では法律で狩猟することが禁じられている保護獣の鹿を過って殺害した男が、妹と共に密漁監視官の追及を逃れて森に分け入る物語であり、兄と妹の愛情があたかも恋人同士のようにリアリスチックに描かれる。妹は兄と結婚したいとまで思う。同時に森林の美しさがさながら絵を見るように描かれている。「盲導犬としてではなく」は回復の望みを断たれた療養中の盲目の男が、自分を気遣って、看病に努める妻への愛情に応えようとする。夫の妻に対する愛情が描かれている。お互いがお互いを思いやる愛、その中に晩年のヘミングウエイの第4番目の妻メアリー・ウィルシュに対する愛を見ることができる。彼女は生前のヘミングウエイに対し献身的に尽くしたといわれている。とくに第2の飛行機事故で重傷を負った後はそうであったという。その愛は、ポーリーンやゲルホーン等の強烈な自己主張を伴った愛とは一味違った自己を殺した相手を思いやるものだったという。その点では7歳年上の最初の夫人ハドリーの母親的な愛と共通するものがあったに違いない。事故とその療養生活を通じて2人の愛は深められたという。彼女はヘミングウエイの最後を看取り、生前未発表の作品を整理、統合、編集して、発刊に努力している。「サマーピープル」は他人の恋する女を奪ってわがものにする身勝手な男の話である。
「異卿」では男とその愛人の愛情生活がマイアミから西部までの四日間の旅の間に描かれる。そこには常に自分に対する男の愛を確かめざるを得ない切ない女心がある。このように父と子、夫婦、愛人、兄妹、の愛が時の状況を背景にして描かれているが、何故か、母に対する愛は描かれていない。母はヘミングウエイを嫌っていたという。それ故、ヘミングウエイは母の葬式への出席を拒否している。
異郷
この作品については部分的には紹介したが、全体として述べてみたい。この作品は愛人(ヘレーナ)と共にマイアミから西部へ向かった一人の男(ロジャ―)の4日間のドライブの途中で起こった出来事について語ったものであり、自らの内面を見つめるラブストーリーでもある。そこにはヘミングウエイの人生観のすべてが凝縮されている。ヘミングウエイの女性観があり、スペイン戦争に関与すべきか否かの葛藤があり、書けないことの焦りがあり、キー・ウエスト時代の「くだらない連中」とのつきあいと、その反省とが描かれている。さらに、共に旅をした女性との関係を通じて愛とは何かが語られる。おそらくヘミングウエイはこの後を書くことを予定していたのではなかろうか?それはこの作品の最後の2たりの会話の中から想像できるのである。ヘレナは言う「----それから、続きを話してちょうだい」と。この作品が未発表の作品に含まれていることを考えてもそう思われる。それに終わり方が尻切れトンボだからである。それはともかくも、この作品の最後に掲載されている最初の夫人ハドリーのヘミングウエイのこれから書くことを予定していた、すべての原稿(コピーも含む)の紛失(盗難か?) 事件はヘミングウエイを底なしの絶望へ陥れたのである。そこから再生するには多くの時間を要したという。その衝撃の深さが詳細に描かれている。しかし、この事件は彼の文学活動に一つの転機をもたらしたのである。「氷山の理論」はここから生まれたといわれている。
終わりに
このようにしてヘミングウエイの短編集1,2,3の紹介をもって長編、短編を含めてすべての作品の紹介を終わりとする。そこにはヘミングウエイの波乱万丈の人生が描かれている。もちろんその作品のすべてはフィクションであるが、その底流にはヘミングウエイ自身の人生がある。そこには人間ヘミングウエイの実像があり、真実がある。これらの作品を読むとき一般に流布されているスーパーマン的イメージはあくまでも彼の一面の真実であって、全体像ではないと感じるのである。その戦争体験、愛情生活、屋外活動、そして作家活動は、波乱万丈の20世紀を背景にして一人の作家ヘミングウエイが、人生において信じられる価値とは何かと探し求め、悩み、苦しみ、真剣かつ真摯に生きたあかしを我々の前に提示してくれる。その意味でヘミングウエイは20世紀を代表する偉大な作家の一人といって過言ではあるまい。
「蝶々と戦車・何を見ても何かを思い出す」ヘミングウエイ短編集3 高見浩訳
新潮文庫 新潮社刊
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