日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

渡辺淳一『失楽園』 愛の倒錯2

2007年08月17日 | Weblog
 この文章は渡辺淳一『失楽園』愛の倒錯の続編である。それ故この文章から読み始める人は、前の文章から読んで欲しい。
 文壇の寵児、有島武雄と美貌の婦人記者、波多野秋子の心中が、その遺書に『今、歓喜の頂点において、死を迎える』と書かれているように、2人はその愛の最高の時点で死を迎えたのである。凛子は問う『幸せだから死んだというの?』久木は答える『『遺書からはそうとしか思えない』そして彼ら(久木と凛子)を死に導くベクトルとして安部定による愛人石田吉蔵の猟奇殺人事件が挙げられる。吉蔵を愛し、その独占欲から、彼を殺しその局部を切り取り、その愛しき局部とともに死を願いながらも果たせず逮捕された事件である。有島武雄の心中も阿部定の殺人もともに愛の頂点において事件を起こしている。確かに愛は不確かであり、永遠には続かないかもしれない。永遠の愛を誓いながらも、時とともに風化し、破局を迎える愛は多い。人間の愛に絶対は無い。それゆえ愛の頂点において死を迎えたい、と言う気持ちはわかっても、そこに必然性は無い。不自然である。更に一般性は無い。一高生(今の東大)の藤村操が哲学上の煩悶から『人生これ不可解なり』と叫んで日光の華厳の滝に身を投じて自殺した事件はあまりに有名である。この考えに共感してこの場所で自殺をした若者が増えたと言う。しかし幸いなことに『失楽園』を読んで心中したという話は聞かない。一般性の問題である。
 愛は不確かなものであり、永遠性が保障されていないからこそ、その時々の一瞬の愛を大切にすべきではないのか?その努力もせず死を選ぶと言うことは、神が与えたもうた生にたいする冒涜である。
 『愛と死を見つめて』という往復書簡がある。不治の病(軟骨肉腫)に冒された女子高生みこ(大島みち子)と大学生まこ(河野実)の間で、出会いからその死に至るまでの3年間に交わされた往復書簡である。その愛ゆえに生きたいと願い、その限られた人生を『死(生)とは何か』『愛とは何か』と真剣に悩み苦しみ、死んでいった一人の人間の本物の純愛の物語である。それに比較して『失楽園』の愛はあまりにお粗末である。そこには『人生とは何か』『愛とは何か』『死とは何か』という真剣な悩みは無い。ただれた倒錯の愛にうつつを抜かし、それを本物の愛と勘違いして死を選ぶ。その死にざまも倒錯している。お互いにきつく抱き合ったまま青酸カリをあおったため、発見された時、死後硬直による局所の結合が固く、引き離すのが大変だったと言う。
 性の源は生(誕生)である。性愛から家族愛、精神愛を得て死によって聖に至る。それは無から無への弁証法的発展である。ホスピスの中で末期がんを宣告された男が、その延命治療を拒否し、死への恐怖、、家族への愛、物(者)への執着、生への執着、それらの煩悩の一つ一つを一心に念仏を唱えながら取り去り、百体近い仏像を彫り上げて死んでいった。死と直面し、限られた命を真剣に見詰め、死んでいった人間の素晴らしさをそこに見る。死は絶対であり、死は相対である。神によって与えられた命は自分だけのものではない。自分勝手な論理によって死を選ぶのは生に対する冒涜である。


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