第147回芥川賞受賞作品「冥土めぐり」鹿島田真希作
冥土と云う言葉を辞書で引くと「死者の霊魂が、さ迷い行く道、暗黒の世界」と出ている。「めぐり」は、その世界をさまよい歩くことであろう。
作者・鹿島田真希は、一泊二日のこの作品の主人公である奈津子と太一夫婦のささやかな旅行の模様に、肉親(母と弟)の、豊かな生活から転落していった半生をその裏に進行させる。「冥土めぐり」は現在を描きながら、過去の「あんな生活」を追憶として重ね合わせる。現在と過去が常に交錯する素敵な作品である。
奈津子は、脳障害の手術の結果、四肢が不自由になった夫の太一と、「2月、平日に限り、区の保養所の宿泊割引一泊5000円」と云う広告に惹かれて、その保養所への旅を決定する。そこはまだ健在であった祖父母と父、そして、まだ健在である母と、弟の6人が訪れたことのある、かつての高級ホテルであった。奈津子はその時8歳、弟は4歳であった。しかし、時代の波にのみ込まれてその高級ホテルは、平日一泊5000円也の保養所に落ちぶれていた。 誰もが行ってみたいと思うほどの、高級ホテルであった当時、祖父母は誰もが成れるわけではない、そのホテルの会員であった。そのホテルのサロンで、礼服に身を包み、軽やかに、さっそうと踊る祖父母の姿が、8ミリ映画に映っていた。母はそれを誇りに思い、常に奈津子に自慢した。
その祖父母が財産らしい財産も残さずに死に、有名企業のサラリーマンであった父親も、脳の病で死んだ。豊かさは家族から去り、貧困が家族を襲う。この時点で家族の心の成長は終わった。母と弟は、かつての幸せで豊かであった生活に執着し、その思いから逃れることが出来ない。豊かな過去が、現在になると信じ、いつまでもその時代に立ち止まっていた。
父の遺族年金で暮らす母親、就職しても、こらえ性が無く、不満だらけで、長続きせず、ブラブラし、酒に浸りアルコール依存症になる、弟。カード破産を起こし、その借金の肩代わりを母親に頼む。母親はマンションを売り払い、借金の返済に充てる。貧しさは増幅する。それにも拘らず、当てもないのに、いつか必ず自分たちには豊かな生活が戻ってくると盲信している。今の不幸な生活を、仮の世界と思う。その生活は奈津子の肩にかかっていた。そこに在るのは喪失の世界であった。この喪失の世界を、奈津子は「あんな生活」と表現する。それは、貧困でも、孤独でも、病気でもない、何ものかであった。作者は、現代と過去の「あんな生活」とを、対比して描き、交互に表現していく。この作品で、「あんな生活」の実態が描かれる。
かつて、名をはした、高級ホテルの凋落は、そのまま日本社会の凋落と繋がる。戦後の復興期から、高度経済成長、バブル経済までの右肩上がりの成長は、一転して、長期の不況に見舞われ、雇用不安、格差社会を現出した。80年代の繁栄は90年代には凋落へと変化していく。そして、今、現在そこからの脱却を果たしていない。我々を取り巻く環境は一変した。未来への展望は不可知である。
この時代の変化の中で生活したのが、奈津子たちの家族である。夢よ、もう一度と云う期待は日本社会の中にも奈津子たち家族の中にも存在していない。まさに、それは喪失した世界である。この喪失した世界からの脱却は、図られなければならない。日本の社会の将来に関しては僕は分からない。しかし、奈津子たち家族には太一と云う救いがある。彼は、奈津子の母や、その弟の対極に置かれている。彼は、おおらかで、世間体など気にせず、世間的な欲望など持たず、気ままに生きている。自分の不幸を不幸と思わず、自分に対する不公平、不公正を当然の事と受け入れ、不満を云わない。働かず、稼がず、障害年金に頼り、奈津子に、ほとんど、おんぶに抱っこだが、そんな事に頓着しない。愛の表現方法を知らず、恋人とか、妻とか、そういう種類の女性を喜ばすことの出来ない不器用な男だが、ひたすら奈津子を愛している。そんな太一を奈津子は愛おしく思う。周囲の人も彼を愛する憎めない性格である。普通の男と同じで、アダルト系のDVDや雑誌を買い楽しんでいる。それを隠そうとしない。部屋の中に散らかしている。
奈津子は、太一が不自由な身体を抱え、生活が貧しくとも、足るを知る性格で、生活に不満を持たず、自分の生活を肯定して、否定に満ちた生活の中で、生きることを喜びとし、その人生は充実していることを知った。それは脳障害を持ってから、彼に生じた性格の変化であった。
しかし、我利我利亡者で自分達のことしか考えない母と弟は、奈津子が金持の男と結婚して自分たちを幸せにしてくれると信じていた。それなのに一文にもならない男と結婚した。それが自分たちの不幸の原因だと、奈津子を責める。奈津子は耳をふさぐ以外に方法がなかった。それ故、かれらは太一を憎んでいた。早く離婚しろという。しかし奈津子はそんな事を考えたこともない。二人は相思相愛の仲である。
奈津子の母は、元スチュアーデスであった。当時スチュアーデスは女性の憧れの的であり、選ばれた女性にしかなれない仕事であった。美人で背が高く、眼鏡をかけず、外国語が堪能で、人当たりが良く、よく気がつき、人を逸らさない。この世に、そんな女性は、沢山はいない。母は娘の奈津子も当然スチュアーデスとなり、素敵なお金持ちと結婚し、自分たちを幸せにしてくれると信じていた。奈津子の母も弟も、家が零落した後も、自分たちは「与えられる側の人間」だと信じ、奈津子に期待していた。しかし、奈津子はスチュアーデスには成らず、区役所のパートで働いていた時、同じく区の、しがない職員であった太一に見染められ、結婚を決める。それは、想定外の出来事であり、当然、母も弟も彼女と太一の結婚には、反対する。太一は、彼らの考えていたイメージ、理想像からは余りにも、かけ離れていたからである。
しかし、二人は結婚する。太一は結婚して間もなく、泡を吹いて倒れる。脳の病であることが分かる。脳に電極を組み込む難しい手術をする、危険な手術ではあったが、成功裏に終わる。しかし、四肢の動きが不自由になり、杖と車椅子の生活を余儀なくされる。その後、入退院を繰り返して3年、病名が判ってから5年が経つ。当然仕事は無くなり、障害年金と奈津子の児童館での収入が唯一の稼ぎとなる。しかし、それで奈津子の太一に対する愛情が冷めたわけではない。太一には自分だけが頼りだと思うと、かえって太一を愛おしく思う。これまでも、父の遺族年金に頼る母と、アルコール依存症で無職の弟に、その収入のほとんどを、むしり取られていたので、太一が働けなくなっても同じだと思う。そんな風に奈津子は自分を慰めていた。
旅の途中、新幹線の窓から、流れ去る風景を眺めながら、奈津子は追憶に耽っていた。太一は隣で穏やかに寝息を立てて眠っていた。まるで赤ん坊である。奈津子は生きるなら、この人と生きていきたいと心から思った。
新幹線は目的の駅に着いた。バス発車までには少し間があったので地元で獲れた新鮮な魚料理を食べさせる定食屋に入る。注文の料理はなかなか来なかった。その間奈津子は過去に戻っていく。太一の出会い、付き合い、結婚に至るまでの追憶に浸る。だから太一との間には会話はなかった。というより必要が無かった。太一は何処にいようと、どんな時にいようと充実していると奈津子は知っていたから。太一も黙っていた。それでもお互いの間には意思の疎通があった。だから奈津子は気遣いせずに自分の追憶に浸っていた。
食事を終えて奈津子と太一はバスに乗る。バスはホテルに到着する。ホテルを取り巻く環境は変わっていた。
薔薇園
母親の少女趣味を満足させていた「薔薇園」は閉園になっており、枯れ草が生い茂っていた。
ホテルの外観とロビー
ホテルは大分老朽化しており、かっての豪華な面影はなかった。ロビーも季節外れの2月ということもあってか、ガランとしており、もはや弾く人の無くなったグランドピアノが放置されていた。
奈津子は受付で手続きを済ます。太一はホテルの用意した車椅子に乗り、荷物のように運ばれて来た。ホテルの従業員から奈津子に押し手が変わっても、お礼一つ言わなかった。
寝室
寝室は7階にあり、清潔に整えられてはいたが、かつてこのホテルに泊まった、このホテルで一番高いスイートルームとは比べようもなかった。一泊5000円の保養所の部屋に過ぎなかった。
サロン
サロンに行きたいという太一の希望を入れて、15階のサロンに行く。かつて、祖父母がさっそうと軽やかに踊ったサロンである。床は美しく磨かれ、舞台の上にはパーカッションやキーボードが置かれていたが、フロアーでは踊られた様子はなく、楽器も使用された形跡はなかった。踊り手のために用意された衣装部屋には、多くのドレスが掛っていたが、流行遅れのものばかりで、多くのドレスは埃を被り匂いすら発生しているようであった。踊り手の不在を証明していた。そこにあるのは快楽の喪失であった。まさに、兵どもの夢のあとであった。
温泉
二人はサロンを出る。太一は温泉に入りたいという。温泉と食事の両方を太一は楽しみにしていた。奈津子は太一を大浴場のそばまで連れて行く。男湯に入る時太一は云う「奈ちゃん男湯を覗いてはダメだよ」と。奈津子にはその言葉が冗談か本音か分からない。恐らく本音であろう。奈津子は温泉には入らず、温泉の前のソファに腰掛けぐったりとしていた。過去が再び蘇ってくる。弟のキャバクラ遊び、現金の代わりにクレジットカードを使う。いろいろと借金を
重ね2年間でカード破産。母はマンションを売って借金を返済するが、それを苦にして自殺未遂を起こす。弟はこの時代を「狂気の時代」と呼んでいる。母の思い出も蘇ってくる。豪華なスイートルーム、大きなバスタブと、トイレ等など、過去に訪れたこのホテルの豊かな生活を自慢する。母はその時代にとどまり、現在から逃避する。更に、太一の手術のことなど、過去の記憶が去来する。自分の名を呼ばれて奈津子ははっと現実に戻る。そこには風呂上がりの太一の姿があった。二人は部屋に戻る。
夕食
夕食の時間となる。太一にとってもう一つの楽しみである。太一は洋食、和食、ビュフェの中からビュフェを選ぶ。北海道生まれの彼はここで、石狩鍋、サーモンのカルパッチョ、イクラ丼を何度も往復してテーブルに運ぶ。奈津子は行ったことのない北海道に行きたいと思う。
再び記憶は過去に戻る。弟のことである。「自分は高級のものを食べているときが一番幸せで生きた心地がする」という。自分が生きていると思っている。太一に嫉妬し、早く別れろという。夢の中に生き現実を無視する。夢に憧れる自分が正しくて、それになれない現実が不正なのだ。それは母も同様である。「おなかがいっぱいだなあ、まだ入るかな!」という声に奈津子は夢から覚める。食事を終えて、7階の部屋に戻る。太一はテレビっ子。旅行に来てまでテレビにしがみつく。
高級ホテルの時代を思い出す。このホテルがもとに戻れないと同様自分たち家族も元に戻れないと思う。「もはや、自分達は、選ばれた家族ではない」のだ。
奈津子は太一に付き合ってテレビを見ていたが、そのうちに就寝する。
美術館
翌日はチェックアウト、土産物を買った後、バスを乗り継いで、美術館に行く。奈津子は美しい絵を見て心をいやしたかった。
奈津子は太一が絵を得意にしている事を知っていた。もしかしたら絵を見る目があるのではないかとも思った。幼いころ書いた絵はどれも見事だった。そこには色があり、温度があり、動きがあった。そこにはまさしく絵があった。だから奈津子は美術館に行くことに決めたのである。そこには自らの心の癒しを求めると同時に、太一の絵に対する好奇心を満足させたいという気持ちがあった。太一はそんな奈津子の気持ちに頓着せず、奈津子と二人だけでいれば、それだけで良いと満足していた。
美術館で用意された車椅子に乗った太一と、奈津子は展示された絵を見て回った。風景やオブジェや肖像画、を見て画家が表現したいことや、その絵が人の心にもたらすものについて思いをはせた。
太一は全ての絵を平等に見て歩いたが、奈津子は印象に残る絵を中心に見て歩き、それ以外は通り過ぎていった。次々と絵を見て歩く。しばらくして幸せな家族の食事の様子を描いた絵に出会う。自分の家族と比べて、こんな幸せな家族の存在が信じられなかった。
性的嫌がらせを受け、さらにストーカーとして、しつっこく迫る上役から逃れるため会社を辞め、訴訟に踏み切り、いくばくかの金を手に入れる。しかしその金は奈津子の手に入らず、母親の懐の中にしまわれ、高級中華料理屋で消えてしまった。その無念さや、怒りを奈津子は思い出す。絵に現れた食事をする家族の幸せなど微塵もなかった。太一に話せば奈津子には我慢の出来ないことも、すべて吸収してしまうかもしれない。受け止めてしまうかもしれない。鼻水を垂らして泣くかもしれない。しかし不平一つ言わないで済ましてしまうであろう。太一は怒ることを忘れた人である。だから太一には話さない。
絵は奈津子の前を通り過ぎていく。もはやそこには感動はなかった。絵の表現する意味も考えなかった。絵だけを見ていた。
かくして奈津子も太一も全ての絵を見終わった。全ての絵を体験した。
この追憶と追想の旅を終えるにあたって奈津子はこの旅が、過去の恵まれた時代の思い出に過ぎなかった事に気づく。母と弟はその過去にとらわれ抜け出すことが出来ない。弟はキャバクラ遊びをしてその憂さを晴らしている。弟の飲み代で、母の持つ年金も手元に残ったわずかな金も消えていくであろう。いま、家族は崩壊寸前にあった。しかし母も弟も危機感はない。この家族は何処に行くのか?
海
二人は美術館を出る。奈津子はこの旅が自分だけの旅であった事に気づく。太一に負い目を感じた。「他に行きたいところある?」「海のそばに行こうよ」太一は応える。
二人は海へ出る。太一は突然「明日電動車椅子の試験がある」という。試験に合格すれば、付き添いなしで一人で何処へでも行けるのだ。奈津子は云う「私はどうすればいいの、ついていけばいいの」「奈っちゃんは何もしなくていいよ、奈っちゃんの荷物だって車椅子で運べるんだ」
奈津子の抱えている荷物とは何か?それは自分にのしかかってくる、肉親からの理不尽や、不当な扱いであろう。太一はその重荷を自分が運んでやるという。何もしなくて良いという。ついて来いという。太一は、もはや脳障害者としての厄介ものでは無かった。立派に自立した男性であった。太一は脳障害を起こして以来、自分に降りかかってくる災厄を神からの贈り物として、それを当然のものとして、受け入れている。だからその生活には不満はない。あらゆる煩悩から解放されている。しかし、奈津子にはそんな境地にはなれない。自分を含めて母も弟も煩悩のかたまりである。そこから逃れることが出来ない。だから太一は「特別な人間」だと奈津子は思う。大切なものを拾ったのだと思う。それは一時の預かり物であって時期が来れば、落とし主である神に返さねばならないと思う。太一は神からの啓示に従って生きる「聖なる愚者」である。この愚者とのつきあいでどれだけ奈津子は癒されたかしれない。
太一は砂浜に腹を出して大の字になって寝ていた。奈津子はシャツを引っ張りへそを隠した。理不尽という大海原を前にして眠っているのだと奈津子は思った。
足湯
新幹線の駅に向かう途中に足湯があった。
「うわぁ、あったかいなあ」太一は満足そうに笑みを浮かべる。太一を支えるため足湯に入れない奈津子のことなど何の疑問も感じない。悪気があるのでなく気がつかないのだ。
旅を終わり、奈津子と太一は新幹線のお客となる。「足湯気持ち良かった?」太一は頷く。「旅行、楽しかった?」太一はまた頷く。「また私とどこか、別のところへ行きたいと思った?」太一はしばらく考えた。そして大きく頷いた。
二人は相思相愛であった。
旅が終わって
かくして、栄光と破滅の、追想と追憶の旅は終わる。そしてこの旅が自分だけの旅だったと奈津子は思う。しかし太一はそんな事に気を使う性格ではない。この旅に満足し充足していた。
新幹線は東京駅に到着する。
翌日は、電動車椅子の試験の日であった。物や人にぶつからなければ合格する。易しいようで難しく太一は不合格になる。しかし付き添いがいれば良いということになる。
一ヶ月後に電動車椅子が到着する。「これからは、僕が買い物に行けるんだよ、奈っちゃんの欲しいものも、僕のお小遣いで買ってあげるよ!」「車椅子に乗って外国にも、何処へも行けるんだ、何処にもだよ」と喜びを身体いっぱいに示す。区の条例で、本人1割負担で買った電動車椅子を愛おしげに眺めまわす。そんな太一を奈津子は可愛く思う。この人と結婚して本当に良かったと思う。「これからお菓子を買ってくるんだー」といって駐輪場から一人で飛び出していく。お菓子ではなく角の書店でいやらしい雑誌を買うに違いない、お菓子はそのついでに過ぎない、と奈津子は思う。太一は手足は不自由でも普通の身体を持った男である。奈津子はそれに満足している。きっと子供も欲しいに違いない。しかし、今の経済状態では無理だと思う。
「ほんとうは付き添いが必要なのになー」と、心配しながら、じっと一人で走り去る太一を奈津子は見つめる。太一はそんな事に気を使う男ではない。
登場人物
奈津子
この作品の女主人公。
彼女は1人の客観的観察者として、かつての有名ホテルの栄枯盛衰の模様に、自分の家族の栄枯盛衰を重ね合わせて語っていく。彼女には、豊かな時代が去り、とうの昔に夢も希望もなくなっているのに、豊かであった時代に立ち止まり、不平不満を言う家族(母と弟)がいる。奈津子はこの家族を「死んだのに成仏できない亡霊」と呼ぶ。こんなところに「冥土めぐり」という題名の由来がある。
彼女はこんな家族に全く受け身で向き合う。抵抗はしない。彼女には脳障害の結果、四肢が不自由になった太一という夫がいる。手術の結果、性格が変わり神のごとくになる。芥川賞の選者の一人は「聖なる愚者」と彼を呼ぶ。彼女はそんな彼から、何かを学び、家族から受ける理不尽で、不当な行為に対する怒りを癒していた。
彼女は家族が希望する過大な要求を夢として退ける。彼女にはアイドルになりたいとか、スチュアーデスになりたいとかいう夢はなかった。物心ついたころから貧しく、それ故、将来に対する希望や未来を信じられなくなっていた。そこには、家族とは違う冷静な目があった。そんな時に太一という一人の青年にあったのである。彼は、区役所の一職員であり、家族の希望する結婚相手とは程遠い存在であり、家族を幸せにする存在にはなりえなかった。金もなければ地位もない、その上脳障害まで起こす。そんなところから奈津子は家族に対して絶対的受け身の存在になったのである。
奈津子は夫・太一と共に追想と、追憶の旅に出かける。この作品は、ここから始まる。
太一
奈津子の夫。区の職員のとき奈津子と知り合い、3カ月後にプロポーズ、奈津子の家族の反対を押し切って結婚。結婚後間もなくして脳障害を起こす。手術の結果、四肢が不自由になり、杖と車椅子に頼る生活を余儀なくされる。身体の変化と同時にその性格も神のごとくに変化する。彼は自分に降りかかる災厄・災難を素直に受けいれ、理不尽、不公正を当然の如くに感じている。だからそこには不満や不平はない。そこが金銭の亡者・奈津子の家族と全く異なる点である。「聖なる愚者」である。
洋の東西を問わず、脳障害者を神とみなす伝説は多く、その一例として、ドストエフスキーの「白痴」を挙げることが出来るであろう。この作品に出てくるムイシュキン侯爵は、脳障害者であり、その純真無垢な性格は太一に通ずるものがある。
太一を神とみなすなら、奈津子の家族は悪魔と表現して良いであろう。対極にある存在である。
彼は奈津子を愛し、奈津子も彼を愛する。相思相愛である。
奈津子の祖父母
嘗て豊かであった頃の奈津子の家族。豊かさを象徴する人物。祖父は暖かいところを好み、戦地まで南方を選ぶ。復員し、小さな店の社長になり、ひと財産を築く。今は落ちぶれているが、かつての有名ホテルの会員。そのサロンで、祖父母は華やかに、軽やかに踊る。その姿を8ミリに撮る。母の自慢である。そんな頼もしい祖父は、晩年肺気腫にかかり、家族に財産を残さず、あっけなく死んでしまう。
父:
一流企業の高給取りのサラリーマン。工業高校出身。元スチュアーデスの母と結婚する。その生活は豊かで、将来の心配はなかった。脳の病を発症して痴呆になり死にいたる。死んだあと奈津子は遺品を整理するが、その中に多くの絵を発見する。絵に才能があったことを確認する。
母:
もとスチュアーデス。スチュアーデスを辞め、一流企業に勤める父と結婚する。高給取りの父との結婚生活は豊かで、貯金も出来、もう一つのマンションを買います余裕も出来る。それを、賃貸マンションにして、ひと儲けすることを企む。働かずして、豊かな生活の満喫を考えたのである。しかし好事魔多し、父は得体の知れない脳の病に侵され、あっけなく死んでしまう。豊かな生活は絵空事になり、夢は破れる。残されたマンションも弟のカード破産で売るはめになり郊外の安アパートでの生活を余儀なくされる。しかしこの生活の変化に対応できない。父の遺族年金と、奈津子に頼って生きている。奈津子が金持の男と結婚し、自分たちを援助してくれることを期待したのに、二束三文にしかならない男と結婚した奈津子を恨む
これが、こんなことになる筈でなかった母親の人生であり、更にこんなことになる筈でなかった祖父から続く一族の末路もであった。母は、「与えられる側の人間」であると、いつまでたっても思い、その思いから抜け出ることが出来ない。母親にとって男とは搾取の対象でしかなく、結婚とはその手段であった。奈津子の結婚もその延長線上に考えていた。それ故自立して生きることが出来ない。彼女は、子離れも出来ない。それが弟を不幸にしている事に気づかない。
弟:
まだ、奈津子たち一家が豊かな時代に生まれ、育つ。しかし、大学を卒業する頃には家は没落していた。就職するものの、長続きせず、仕事を持たない。就職してすぐにクレジットカードを作るが、金銭感覚はなく、借金を重ねる。キャバクラに行ったり、高級料理店へ行ったり、高級服飾店へ行ったりして散財を繰り返す。キャバクラ行きが嵩じてアルコール依存症になる。高級服飾店では姉の奈津子に沢山の高い衣服を買い与える。等など、その結果カード破産を起こす。その返済を母に頼む。母親はただ一つ残ったマンションを売り払い、返済に充て、郊外の安アパートに移り住む。彼は親離れが出来ない。
夢は持っているが、金が無いからと空想の中だけで生きる。そんな生活を仮の世界と盲信して、今までの豊かな生活が何時か、戻ってくるものと何の根拠もないのに信じている。母と同じで「自分は与えられる側の人間」だと思っていた。だから奈津子の結婚には期待し、裏切られ、失望する。自分達の不幸の原因を奈津子たち夫婦に求める。勝手な性格である。姉の奈津子に、肉親であるにもかかわらず、ほのかな恋心を持ち、太一に嫉妬する。いい歳をしていまだ自立せず、いまだ独身である。奈津子の母と弟を見ていると、搾取って何だろうと思う。
鹿嶋田真紀作「冥土めぐり」月刊『文芸春秋』9月号掲載
次回は、山崎豊子作『暖簾』を予定している。乞うご期待。
冥土と云う言葉を辞書で引くと「死者の霊魂が、さ迷い行く道、暗黒の世界」と出ている。「めぐり」は、その世界をさまよい歩くことであろう。
作者・鹿島田真希は、一泊二日のこの作品の主人公である奈津子と太一夫婦のささやかな旅行の模様に、肉親(母と弟)の、豊かな生活から転落していった半生をその裏に進行させる。「冥土めぐり」は現在を描きながら、過去の「あんな生活」を追憶として重ね合わせる。現在と過去が常に交錯する素敵な作品である。
奈津子は、脳障害の手術の結果、四肢が不自由になった夫の太一と、「2月、平日に限り、区の保養所の宿泊割引一泊5000円」と云う広告に惹かれて、その保養所への旅を決定する。そこはまだ健在であった祖父母と父、そして、まだ健在である母と、弟の6人が訪れたことのある、かつての高級ホテルであった。奈津子はその時8歳、弟は4歳であった。しかし、時代の波にのみ込まれてその高級ホテルは、平日一泊5000円也の保養所に落ちぶれていた。 誰もが行ってみたいと思うほどの、高級ホテルであった当時、祖父母は誰もが成れるわけではない、そのホテルの会員であった。そのホテルのサロンで、礼服に身を包み、軽やかに、さっそうと踊る祖父母の姿が、8ミリ映画に映っていた。母はそれを誇りに思い、常に奈津子に自慢した。
その祖父母が財産らしい財産も残さずに死に、有名企業のサラリーマンであった父親も、脳の病で死んだ。豊かさは家族から去り、貧困が家族を襲う。この時点で家族の心の成長は終わった。母と弟は、かつての幸せで豊かであった生活に執着し、その思いから逃れることが出来ない。豊かな過去が、現在になると信じ、いつまでもその時代に立ち止まっていた。
父の遺族年金で暮らす母親、就職しても、こらえ性が無く、不満だらけで、長続きせず、ブラブラし、酒に浸りアルコール依存症になる、弟。カード破産を起こし、その借金の肩代わりを母親に頼む。母親はマンションを売り払い、借金の返済に充てる。貧しさは増幅する。それにも拘らず、当てもないのに、いつか必ず自分たちには豊かな生活が戻ってくると盲信している。今の不幸な生活を、仮の世界と思う。その生活は奈津子の肩にかかっていた。そこに在るのは喪失の世界であった。この喪失の世界を、奈津子は「あんな生活」と表現する。それは、貧困でも、孤独でも、病気でもない、何ものかであった。作者は、現代と過去の「あんな生活」とを、対比して描き、交互に表現していく。この作品で、「あんな生活」の実態が描かれる。
かつて、名をはした、高級ホテルの凋落は、そのまま日本社会の凋落と繋がる。戦後の復興期から、高度経済成長、バブル経済までの右肩上がりの成長は、一転して、長期の不況に見舞われ、雇用不安、格差社会を現出した。80年代の繁栄は90年代には凋落へと変化していく。そして、今、現在そこからの脱却を果たしていない。我々を取り巻く環境は一変した。未来への展望は不可知である。
この時代の変化の中で生活したのが、奈津子たちの家族である。夢よ、もう一度と云う期待は日本社会の中にも奈津子たち家族の中にも存在していない。まさに、それは喪失した世界である。この喪失した世界からの脱却は、図られなければならない。日本の社会の将来に関しては僕は分からない。しかし、奈津子たち家族には太一と云う救いがある。彼は、奈津子の母や、その弟の対極に置かれている。彼は、おおらかで、世間体など気にせず、世間的な欲望など持たず、気ままに生きている。自分の不幸を不幸と思わず、自分に対する不公平、不公正を当然の事と受け入れ、不満を云わない。働かず、稼がず、障害年金に頼り、奈津子に、ほとんど、おんぶに抱っこだが、そんな事に頓着しない。愛の表現方法を知らず、恋人とか、妻とか、そういう種類の女性を喜ばすことの出来ない不器用な男だが、ひたすら奈津子を愛している。そんな太一を奈津子は愛おしく思う。周囲の人も彼を愛する憎めない性格である。普通の男と同じで、アダルト系のDVDや雑誌を買い楽しんでいる。それを隠そうとしない。部屋の中に散らかしている。
奈津子は、太一が不自由な身体を抱え、生活が貧しくとも、足るを知る性格で、生活に不満を持たず、自分の生活を肯定して、否定に満ちた生活の中で、生きることを喜びとし、その人生は充実していることを知った。それは脳障害を持ってから、彼に生じた性格の変化であった。
しかし、我利我利亡者で自分達のことしか考えない母と弟は、奈津子が金持の男と結婚して自分たちを幸せにしてくれると信じていた。それなのに一文にもならない男と結婚した。それが自分たちの不幸の原因だと、奈津子を責める。奈津子は耳をふさぐ以外に方法がなかった。それ故、かれらは太一を憎んでいた。早く離婚しろという。しかし奈津子はそんな事を考えたこともない。二人は相思相愛の仲である。
奈津子の母は、元スチュアーデスであった。当時スチュアーデスは女性の憧れの的であり、選ばれた女性にしかなれない仕事であった。美人で背が高く、眼鏡をかけず、外国語が堪能で、人当たりが良く、よく気がつき、人を逸らさない。この世に、そんな女性は、沢山はいない。母は娘の奈津子も当然スチュアーデスとなり、素敵なお金持ちと結婚し、自分たちを幸せにしてくれると信じていた。奈津子の母も弟も、家が零落した後も、自分たちは「与えられる側の人間」だと信じ、奈津子に期待していた。しかし、奈津子はスチュアーデスには成らず、区役所のパートで働いていた時、同じく区の、しがない職員であった太一に見染められ、結婚を決める。それは、想定外の出来事であり、当然、母も弟も彼女と太一の結婚には、反対する。太一は、彼らの考えていたイメージ、理想像からは余りにも、かけ離れていたからである。
しかし、二人は結婚する。太一は結婚して間もなく、泡を吹いて倒れる。脳の病であることが分かる。脳に電極を組み込む難しい手術をする、危険な手術ではあったが、成功裏に終わる。しかし、四肢の動きが不自由になり、杖と車椅子の生活を余儀なくされる。その後、入退院を繰り返して3年、病名が判ってから5年が経つ。当然仕事は無くなり、障害年金と奈津子の児童館での収入が唯一の稼ぎとなる。しかし、それで奈津子の太一に対する愛情が冷めたわけではない。太一には自分だけが頼りだと思うと、かえって太一を愛おしく思う。これまでも、父の遺族年金に頼る母と、アルコール依存症で無職の弟に、その収入のほとんどを、むしり取られていたので、太一が働けなくなっても同じだと思う。そんな風に奈津子は自分を慰めていた。
旅の途中、新幹線の窓から、流れ去る風景を眺めながら、奈津子は追憶に耽っていた。太一は隣で穏やかに寝息を立てて眠っていた。まるで赤ん坊である。奈津子は生きるなら、この人と生きていきたいと心から思った。
新幹線は目的の駅に着いた。バス発車までには少し間があったので地元で獲れた新鮮な魚料理を食べさせる定食屋に入る。注文の料理はなかなか来なかった。その間奈津子は過去に戻っていく。太一の出会い、付き合い、結婚に至るまでの追憶に浸る。だから太一との間には会話はなかった。というより必要が無かった。太一は何処にいようと、どんな時にいようと充実していると奈津子は知っていたから。太一も黙っていた。それでもお互いの間には意思の疎通があった。だから奈津子は気遣いせずに自分の追憶に浸っていた。
食事を終えて奈津子と太一はバスに乗る。バスはホテルに到着する。ホテルを取り巻く環境は変わっていた。
薔薇園
母親の少女趣味を満足させていた「薔薇園」は閉園になっており、枯れ草が生い茂っていた。
ホテルの外観とロビー
ホテルは大分老朽化しており、かっての豪華な面影はなかった。ロビーも季節外れの2月ということもあってか、ガランとしており、もはや弾く人の無くなったグランドピアノが放置されていた。
奈津子は受付で手続きを済ます。太一はホテルの用意した車椅子に乗り、荷物のように運ばれて来た。ホテルの従業員から奈津子に押し手が変わっても、お礼一つ言わなかった。
寝室
寝室は7階にあり、清潔に整えられてはいたが、かつてこのホテルに泊まった、このホテルで一番高いスイートルームとは比べようもなかった。一泊5000円の保養所の部屋に過ぎなかった。
サロン
サロンに行きたいという太一の希望を入れて、15階のサロンに行く。かつて、祖父母がさっそうと軽やかに踊ったサロンである。床は美しく磨かれ、舞台の上にはパーカッションやキーボードが置かれていたが、フロアーでは踊られた様子はなく、楽器も使用された形跡はなかった。踊り手のために用意された衣装部屋には、多くのドレスが掛っていたが、流行遅れのものばかりで、多くのドレスは埃を被り匂いすら発生しているようであった。踊り手の不在を証明していた。そこにあるのは快楽の喪失であった。まさに、兵どもの夢のあとであった。
温泉
二人はサロンを出る。太一は温泉に入りたいという。温泉と食事の両方を太一は楽しみにしていた。奈津子は太一を大浴場のそばまで連れて行く。男湯に入る時太一は云う「奈ちゃん男湯を覗いてはダメだよ」と。奈津子にはその言葉が冗談か本音か分からない。恐らく本音であろう。奈津子は温泉には入らず、温泉の前のソファに腰掛けぐったりとしていた。過去が再び蘇ってくる。弟のキャバクラ遊び、現金の代わりにクレジットカードを使う。いろいろと借金を
重ね2年間でカード破産。母はマンションを売って借金を返済するが、それを苦にして自殺未遂を起こす。弟はこの時代を「狂気の時代」と呼んでいる。母の思い出も蘇ってくる。豪華なスイートルーム、大きなバスタブと、トイレ等など、過去に訪れたこのホテルの豊かな生活を自慢する。母はその時代にとどまり、現在から逃避する。更に、太一の手術のことなど、過去の記憶が去来する。自分の名を呼ばれて奈津子ははっと現実に戻る。そこには風呂上がりの太一の姿があった。二人は部屋に戻る。
夕食
夕食の時間となる。太一にとってもう一つの楽しみである。太一は洋食、和食、ビュフェの中からビュフェを選ぶ。北海道生まれの彼はここで、石狩鍋、サーモンのカルパッチョ、イクラ丼を何度も往復してテーブルに運ぶ。奈津子は行ったことのない北海道に行きたいと思う。
再び記憶は過去に戻る。弟のことである。「自分は高級のものを食べているときが一番幸せで生きた心地がする」という。自分が生きていると思っている。太一に嫉妬し、早く別れろという。夢の中に生き現実を無視する。夢に憧れる自分が正しくて、それになれない現実が不正なのだ。それは母も同様である。「おなかがいっぱいだなあ、まだ入るかな!」という声に奈津子は夢から覚める。食事を終えて、7階の部屋に戻る。太一はテレビっ子。旅行に来てまでテレビにしがみつく。
高級ホテルの時代を思い出す。このホテルがもとに戻れないと同様自分たち家族も元に戻れないと思う。「もはや、自分達は、選ばれた家族ではない」のだ。
奈津子は太一に付き合ってテレビを見ていたが、そのうちに就寝する。
美術館
翌日はチェックアウト、土産物を買った後、バスを乗り継いで、美術館に行く。奈津子は美しい絵を見て心をいやしたかった。
奈津子は太一が絵を得意にしている事を知っていた。もしかしたら絵を見る目があるのではないかとも思った。幼いころ書いた絵はどれも見事だった。そこには色があり、温度があり、動きがあった。そこにはまさしく絵があった。だから奈津子は美術館に行くことに決めたのである。そこには自らの心の癒しを求めると同時に、太一の絵に対する好奇心を満足させたいという気持ちがあった。太一はそんな奈津子の気持ちに頓着せず、奈津子と二人だけでいれば、それだけで良いと満足していた。
美術館で用意された車椅子に乗った太一と、奈津子は展示された絵を見て回った。風景やオブジェや肖像画、を見て画家が表現したいことや、その絵が人の心にもたらすものについて思いをはせた。
太一は全ての絵を平等に見て歩いたが、奈津子は印象に残る絵を中心に見て歩き、それ以外は通り過ぎていった。次々と絵を見て歩く。しばらくして幸せな家族の食事の様子を描いた絵に出会う。自分の家族と比べて、こんな幸せな家族の存在が信じられなかった。
性的嫌がらせを受け、さらにストーカーとして、しつっこく迫る上役から逃れるため会社を辞め、訴訟に踏み切り、いくばくかの金を手に入れる。しかしその金は奈津子の手に入らず、母親の懐の中にしまわれ、高級中華料理屋で消えてしまった。その無念さや、怒りを奈津子は思い出す。絵に現れた食事をする家族の幸せなど微塵もなかった。太一に話せば奈津子には我慢の出来ないことも、すべて吸収してしまうかもしれない。受け止めてしまうかもしれない。鼻水を垂らして泣くかもしれない。しかし不平一つ言わないで済ましてしまうであろう。太一は怒ることを忘れた人である。だから太一には話さない。
絵は奈津子の前を通り過ぎていく。もはやそこには感動はなかった。絵の表現する意味も考えなかった。絵だけを見ていた。
かくして奈津子も太一も全ての絵を見終わった。全ての絵を体験した。
この追憶と追想の旅を終えるにあたって奈津子はこの旅が、過去の恵まれた時代の思い出に過ぎなかった事に気づく。母と弟はその過去にとらわれ抜け出すことが出来ない。弟はキャバクラ遊びをしてその憂さを晴らしている。弟の飲み代で、母の持つ年金も手元に残ったわずかな金も消えていくであろう。いま、家族は崩壊寸前にあった。しかし母も弟も危機感はない。この家族は何処に行くのか?
海
二人は美術館を出る。奈津子はこの旅が自分だけの旅であった事に気づく。太一に負い目を感じた。「他に行きたいところある?」「海のそばに行こうよ」太一は応える。
二人は海へ出る。太一は突然「明日電動車椅子の試験がある」という。試験に合格すれば、付き添いなしで一人で何処へでも行けるのだ。奈津子は云う「私はどうすればいいの、ついていけばいいの」「奈っちゃんは何もしなくていいよ、奈っちゃんの荷物だって車椅子で運べるんだ」
奈津子の抱えている荷物とは何か?それは自分にのしかかってくる、肉親からの理不尽や、不当な扱いであろう。太一はその重荷を自分が運んでやるという。何もしなくて良いという。ついて来いという。太一は、もはや脳障害者としての厄介ものでは無かった。立派に自立した男性であった。太一は脳障害を起こして以来、自分に降りかかってくる災厄を神からの贈り物として、それを当然のものとして、受け入れている。だからその生活には不満はない。あらゆる煩悩から解放されている。しかし、奈津子にはそんな境地にはなれない。自分を含めて母も弟も煩悩のかたまりである。そこから逃れることが出来ない。だから太一は「特別な人間」だと奈津子は思う。大切なものを拾ったのだと思う。それは一時の預かり物であって時期が来れば、落とし主である神に返さねばならないと思う。太一は神からの啓示に従って生きる「聖なる愚者」である。この愚者とのつきあいでどれだけ奈津子は癒されたかしれない。
太一は砂浜に腹を出して大の字になって寝ていた。奈津子はシャツを引っ張りへそを隠した。理不尽という大海原を前にして眠っているのだと奈津子は思った。
足湯
新幹線の駅に向かう途中に足湯があった。
「うわぁ、あったかいなあ」太一は満足そうに笑みを浮かべる。太一を支えるため足湯に入れない奈津子のことなど何の疑問も感じない。悪気があるのでなく気がつかないのだ。
旅を終わり、奈津子と太一は新幹線のお客となる。「足湯気持ち良かった?」太一は頷く。「旅行、楽しかった?」太一はまた頷く。「また私とどこか、別のところへ行きたいと思った?」太一はしばらく考えた。そして大きく頷いた。
二人は相思相愛であった。
旅が終わって
かくして、栄光と破滅の、追想と追憶の旅は終わる。そしてこの旅が自分だけの旅だったと奈津子は思う。しかし太一はそんな事に気を使う性格ではない。この旅に満足し充足していた。
新幹線は東京駅に到着する。
翌日は、電動車椅子の試験の日であった。物や人にぶつからなければ合格する。易しいようで難しく太一は不合格になる。しかし付き添いがいれば良いということになる。
一ヶ月後に電動車椅子が到着する。「これからは、僕が買い物に行けるんだよ、奈っちゃんの欲しいものも、僕のお小遣いで買ってあげるよ!」「車椅子に乗って外国にも、何処へも行けるんだ、何処にもだよ」と喜びを身体いっぱいに示す。区の条例で、本人1割負担で買った電動車椅子を愛おしげに眺めまわす。そんな太一を奈津子は可愛く思う。この人と結婚して本当に良かったと思う。「これからお菓子を買ってくるんだー」といって駐輪場から一人で飛び出していく。お菓子ではなく角の書店でいやらしい雑誌を買うに違いない、お菓子はそのついでに過ぎない、と奈津子は思う。太一は手足は不自由でも普通の身体を持った男である。奈津子はそれに満足している。きっと子供も欲しいに違いない。しかし、今の経済状態では無理だと思う。
「ほんとうは付き添いが必要なのになー」と、心配しながら、じっと一人で走り去る太一を奈津子は見つめる。太一はそんな事に気を使う男ではない。
登場人物
奈津子
この作品の女主人公。
彼女は1人の客観的観察者として、かつての有名ホテルの栄枯盛衰の模様に、自分の家族の栄枯盛衰を重ね合わせて語っていく。彼女には、豊かな時代が去り、とうの昔に夢も希望もなくなっているのに、豊かであった時代に立ち止まり、不平不満を言う家族(母と弟)がいる。奈津子はこの家族を「死んだのに成仏できない亡霊」と呼ぶ。こんなところに「冥土めぐり」という題名の由来がある。
彼女はこんな家族に全く受け身で向き合う。抵抗はしない。彼女には脳障害の結果、四肢が不自由になった太一という夫がいる。手術の結果、性格が変わり神のごとくになる。芥川賞の選者の一人は「聖なる愚者」と彼を呼ぶ。彼女はそんな彼から、何かを学び、家族から受ける理不尽で、不当な行為に対する怒りを癒していた。
彼女は家族が希望する過大な要求を夢として退ける。彼女にはアイドルになりたいとか、スチュアーデスになりたいとかいう夢はなかった。物心ついたころから貧しく、それ故、将来に対する希望や未来を信じられなくなっていた。そこには、家族とは違う冷静な目があった。そんな時に太一という一人の青年にあったのである。彼は、区役所の一職員であり、家族の希望する結婚相手とは程遠い存在であり、家族を幸せにする存在にはなりえなかった。金もなければ地位もない、その上脳障害まで起こす。そんなところから奈津子は家族に対して絶対的受け身の存在になったのである。
奈津子は夫・太一と共に追想と、追憶の旅に出かける。この作品は、ここから始まる。
太一
奈津子の夫。区の職員のとき奈津子と知り合い、3カ月後にプロポーズ、奈津子の家族の反対を押し切って結婚。結婚後間もなくして脳障害を起こす。手術の結果、四肢が不自由になり、杖と車椅子に頼る生活を余儀なくされる。身体の変化と同時にその性格も神のごとくに変化する。彼は自分に降りかかる災厄・災難を素直に受けいれ、理不尽、不公正を当然の如くに感じている。だからそこには不満や不平はない。そこが金銭の亡者・奈津子の家族と全く異なる点である。「聖なる愚者」である。
洋の東西を問わず、脳障害者を神とみなす伝説は多く、その一例として、ドストエフスキーの「白痴」を挙げることが出来るであろう。この作品に出てくるムイシュキン侯爵は、脳障害者であり、その純真無垢な性格は太一に通ずるものがある。
太一を神とみなすなら、奈津子の家族は悪魔と表現して良いであろう。対極にある存在である。
彼は奈津子を愛し、奈津子も彼を愛する。相思相愛である。
奈津子の祖父母
嘗て豊かであった頃の奈津子の家族。豊かさを象徴する人物。祖父は暖かいところを好み、戦地まで南方を選ぶ。復員し、小さな店の社長になり、ひと財産を築く。今は落ちぶれているが、かつての有名ホテルの会員。そのサロンで、祖父母は華やかに、軽やかに踊る。その姿を8ミリに撮る。母の自慢である。そんな頼もしい祖父は、晩年肺気腫にかかり、家族に財産を残さず、あっけなく死んでしまう。
父:
一流企業の高給取りのサラリーマン。工業高校出身。元スチュアーデスの母と結婚する。その生活は豊かで、将来の心配はなかった。脳の病を発症して痴呆になり死にいたる。死んだあと奈津子は遺品を整理するが、その中に多くの絵を発見する。絵に才能があったことを確認する。
母:
もとスチュアーデス。スチュアーデスを辞め、一流企業に勤める父と結婚する。高給取りの父との結婚生活は豊かで、貯金も出来、もう一つのマンションを買います余裕も出来る。それを、賃貸マンションにして、ひと儲けすることを企む。働かずして、豊かな生活の満喫を考えたのである。しかし好事魔多し、父は得体の知れない脳の病に侵され、あっけなく死んでしまう。豊かな生活は絵空事になり、夢は破れる。残されたマンションも弟のカード破産で売るはめになり郊外の安アパートでの生活を余儀なくされる。しかしこの生活の変化に対応できない。父の遺族年金と、奈津子に頼って生きている。奈津子が金持の男と結婚し、自分たちを援助してくれることを期待したのに、二束三文にしかならない男と結婚した奈津子を恨む
これが、こんなことになる筈でなかった母親の人生であり、更にこんなことになる筈でなかった祖父から続く一族の末路もであった。母は、「与えられる側の人間」であると、いつまでたっても思い、その思いから抜け出ることが出来ない。母親にとって男とは搾取の対象でしかなく、結婚とはその手段であった。奈津子の結婚もその延長線上に考えていた。それ故自立して生きることが出来ない。彼女は、子離れも出来ない。それが弟を不幸にしている事に気づかない。
弟:
まだ、奈津子たち一家が豊かな時代に生まれ、育つ。しかし、大学を卒業する頃には家は没落していた。就職するものの、長続きせず、仕事を持たない。就職してすぐにクレジットカードを作るが、金銭感覚はなく、借金を重ねる。キャバクラに行ったり、高級料理店へ行ったり、高級服飾店へ行ったりして散財を繰り返す。キャバクラ行きが嵩じてアルコール依存症になる。高級服飾店では姉の奈津子に沢山の高い衣服を買い与える。等など、その結果カード破産を起こす。その返済を母に頼む。母親はただ一つ残ったマンションを売り払い、返済に充て、郊外の安アパートに移り住む。彼は親離れが出来ない。
夢は持っているが、金が無いからと空想の中だけで生きる。そんな生活を仮の世界と盲信して、今までの豊かな生活が何時か、戻ってくるものと何の根拠もないのに信じている。母と同じで「自分は与えられる側の人間」だと思っていた。だから奈津子の結婚には期待し、裏切られ、失望する。自分達の不幸の原因を奈津子たち夫婦に求める。勝手な性格である。姉の奈津子に、肉親であるにもかかわらず、ほのかな恋心を持ち、太一に嫉妬する。いい歳をしていまだ自立せず、いまだ独身である。奈津子の母と弟を見ていると、搾取って何だろうと思う。
鹿嶋田真紀作「冥土めぐり」月刊『文芸春秋』9月号掲載
次回は、山崎豊子作『暖簾』を予定している。乞うご期待。
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