日常一般

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山崎豊子作『暖簾』 暖簾の力

2012年09月30日 | Weblog
山崎豊子作「暖簾

この作品は明治29年から昭和30年代前半、高度経済成長の始まるまで、明治。大正、昭和という三世紀を生き抜いた、船場の大阪商人・昆布問屋、浪花屋吾平と、その二男孝平の立身出世の物語と言って良いであろう。しかしこの作品を単なる立身出世の物語に終わらせないのは、その基礎に「暖簾」があることである。

暖簾という言葉を辞書で引くと「商家の軒先に貼って、日よけにする布」とあり、「江戸時代以降、商家で屋号などを染め抜いて商業用とした」とある。それは次第に大阪商人の命となり、旗印になり、信用と格式を象徴するものに変わった。分家、別家はもとより、主家の一族も、暖簾には一礼して通り、頭で、押し分け通る無礼は絶対に許されなかった。暖簾の中には大阪商人が守らなければならない商人道があり、帝王学があった。道徳的な規制があり、闇商売は厳しく規制されていた。大戦後の混乱期、多くの商人が闇商売に手を出し不当な利益を得ていたが、吾平は決して、闇商売には手を出さなかった。闇商売は暖簾を汚すものとして自らを戒めていたのである。
暖簾は大阪商人としてのモラルの象徴であると同時に、豊かな有形、無形の財産の象徴でもあった。丁稚、手代、番頭と、15~6年ほど修業し、老舗の旦那から暖簾分けの指示で分家する。お礼奉公を1年した後、いくばくかの別家料と商い道具一式を頂戴して独立する。暖簾を生かすも殺すも、その人間の、その後の努力と才覚にかかっていた。吾平は、暖簾分けの後、血の出るような努力によって、一財産を作り上げ、得意先、仕入先の信用を獲得していった。「商人の氏・素性はまさに暖簾なり」であった。
水害で全ての財産を流され、工場再建のために金策に飛び回るが、銀行の担保要求に対して吾平は胸を張って応じる。「本家から分けていただいた浪花屋の暖簾が抵当だす。大阪商人にとってこれほど、堅い抵当はほかにおまへん信じておくれやす。暖簾は商人の命だす」相手をした銀行の支店長は「浪花屋さん結構な抵当だす。お貸ししまひょ」という。吾平は危機を乗り切る。ここには暖簾の持つ重み、力、信用がある。吾平は暖簾の持つ力をフルに使うことによって、人に出来ない努力が出来、工場は再建された。

梗概
この作品は、大阪の老舗昆布商の商魂を親子二代にわたって綴った山崎豊子のデビュー作であり出世作である。
第2次大戦を挿んで1章と2章に分かれる。第1章では浪花屋吾平が、第2章では、吾平死後の、その息子二男孝平の活躍が描かれる。

第1章
明治29年、15歳の春、大阪に出た八田吾平は、浪花屋の主人利兵衛に拾われ、丁稚奉公から始め、手代、番頭と出世し、その名も、吾吉、吾七、吾助と変わる。その努力を買われ明治41(1908)年暖簾分けを受ける。27歳の春であった。名前も本名の吾平に戻る。別家して半年後、27歳の秋、お千代と結婚する。始末屋で所帯上手、健康な女性であった。
明治43年の大火事、大正4年の関東大震災、昭和9年の大水害によって吾平は、財産を失い、昭和12年に起こった中毒事件(えん罪と判る)と、その度に店は危機的状況に陥るが、吾平は、その才覚と、努力によって無事切り抜け、店を再建する。この間に、長男辰平、次男孝平、三男忠平、一人娘の年子と、3男1女を儲ける。店は順調に発展していた。しかし、ノモンハン事件から日華事変は拡大し、日本は第2次世界大戦へと突入していく。辰平、孝平、忠平の3兄弟は戦争に駆り出される。そして辰平は戦死する。戦争は敗色が濃くなり、米軍の本土空襲で、大阪船場は灰燼に帰す。勿論吾平の店も工場も例外ではなく全焼する。いままで苦労を重ね築きあげたものは一瞬にして消失してしまったのである。焼け跡にたたずみ吾平は、は途方に暮れる。

第2章
昭和20(1945)年戦争は終結する。戦後間もなくして復員した孝平が見たものは焼け野原であった。この中で孝平は店を引き継ぎ、再建しなければならなかった。吾平は、田舎に隠居し芋作りに励んでいた。
戦後の動乱期、孝平は暖簾の持つプライドを横に置き、闇市場に出入りする。背に腹は代えられなかったのである。吾平は、そんな孝平を見ながらも何も言わなかった。しかし自分自身は「大阪商人は、日本のへそや、大阪商人が闇稼ぎをしたら、日本中、本まの商人無うなってしまいよる」と言って、ぼろ儲けの話を持ってきたブローカを追い返したのである。そして言う「ほんまの大阪商人は船場と一緒に焼けてしもうた--------」と。
孝平は焼け野原の中から立ち上がっていく。戦中戦後の統制経済の中で「昆布荷受組合」という半官半民の組織が出来、その中で一部の幹部が、その地位を利用して、ぼろ儲けをしていた。その組織の幹部職員になった孝平は一部の幹部のように、仕入れ業者からリベートをとり、その額によって割当額を増減するという不正には手を染めなかった。孝平の馬鹿正直を笑う職員もいたが、統制が外され、自由経済に戻った時、彼らは没落する。
大学出ということが買われて、組合の幹部職員になった孝平は、その地位が他の食料品関係の幹部とのつきあいを可能にする地位である事を知って小躍りする。今後の商売をするうえで、どれだけ貢献するか分からなかったからである。父の吾平からは昆布職人としての技術を学び、多くの商人との中で揉みぬかれていく過程で、孝平は、商人としての駆け引きの方法を学びとっていった。
この間、一人娘の年子が、戦前からの婚約者で、梅園化粧品店の総領息子佳之と結婚する。佳之は老舗の典型的な、ぼんぼん育ちで、商売を番頭に任せ、お大尽遊びに呆けていた。孝平はそんな佳之の将来に疑問を持つ。「親苦労する、子楽する、孫乞食する」という言葉が頭をかすめたが、何も言わなかった。戦前戦中の厳しく辛い時代に育ったにも拘らず、素直に育った妹が可愛く、悲しませたくなかったからである。

荷置き場の昆布の束の上で吾平は急死する。脳溢血であった。昆布職人らしい死であった。大阪船場の昆布職人として暖簾の誇りを守り抜き、暖簾で商売する最後の職人であった。妻のお千代は死体に取りすがって号泣する。三男の忠平はまだ帰還していなかった。父の死によって、孝平は本気で独り立ちしなければならなかった。
32歳になった孝平に結婚話が持ち上がる。相手は乾物問屋の娘で、乃ぶ子と言った。健康優良児に選ばれたことのあるという。忙しく、きつい昆布商の内実を取り仕切っていくには最適な相手と考えて孝平は結婚する。帰還してから家の零落、旧円の封鎖、父の死、裸一貫からの出発と、休まる暇のなかった孝平にもやっと心を落ち着ける場所が出来たのである。一泊二日の新婚旅行に出かける。有馬温泉だった。
昆布の統制が解除される、という噂が立つ。自由経済になれば荷受組合の配給に頼らず、自由に売買が可能となる。長い間業者の間でもまれぬかれ、雌伏して商いの勉強をしていた孝平にとっては、またとない大きなチャンスであった。組合に辞表を提出する。昆布の統制はその年に解除される。

まず、どこに浪花屋を再建するかということが、航平にとってやらなければならないことであった。戦後の厳しい時代を血の出るような努力で生き抜いた孝平には、ある程度の資金的余裕が出来ていた。更に父吾平が生きていたころの境の加工場を売り、30万円ほどを手に入れたが、その全てを建設資金に回すわけにはいかなかった。生活はあるし、経営資金も必要であった。場所は心斎橋付近の日本橋2丁目を選ぶ。資金繰りには苦労する。そんな中友人からの推薦で、大阪府の住宅協会から資金供給を受け、建設資金を手に入れる。
昭和23年12月中旬に孝平が最初にスタートする店が開店する。朝7時から買い付け(仕入れ)昼は販売、夜は11時まで商品の手入れ、詰め合わせと1日16時間労働で働いた。8時間労働が叫ばれていた時代にである。
昭和24(1949)年、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と新米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。戦勝国ソ連も力を持ち、世界は冷戦時代へと突入していた。日本経済は高インフレに苦しみ、この年1月に実施された衆議院議員選挙では、日本共産党は4議席から35議席と躍進する。このような国際情勢下GHQが対日政策を民主化から反共の砦へと転換したとしても不思議ではない。
物価はいつまでも下がらず、人々は高インフレにあえいでいた。このような中、GHQは、共産党をはじめとする革新勢力に乗じられないため、経済の立て直しを図る。緊縮財政策を実施する。全公務員で約28万人、国鉄に対しては約10万人に近い人員整理を迫ったのである。当然労働者は反発する。共産党系の産別会議、国鉄労働組合はこの人員整理に対してストライキなどで、頑強に抵抗する。このような中、国鉄3大事件と言う謎に満ちた事件が起ったのである。下山事件、三鷹事件、松川事件等々。いずれも共産党が関与したと云われる事件である。これはのちにアメリカGHQの策謀であり、共産党に罪を負わせ、共産党の撲滅を図ったものと言われている。勿論その真相はいまだに闇の中である。この前年に起こった帝銀事件もGHQが関与しその捜査を妨害している。
組織労働者は力を持ち、賃上げ要求、ストライキ、と、夏になれば夏季手当、冬は越冬資金、春は春季闘争、とその活動を広げていた。それがインフレを加速していた。物価はいつまでたっても下がらず、インフレ、徴税、支払いと中小企業者は苦しめられていた。経営に行き詰って中小業者の中には自殺者の出るほどであった。こんな中、第3次吉田内閣の大蔵大臣池田勇人は『中小企業者の一人や二人、死んでも仕方がない』『貧乏人は麦を食え』と暴言を吐く。世の中は騒然となる。
大企業は何とか、その場をしのぎ、組織労働者の要求を飲めるほどには成長していた。25年に始まった緒戦戦争とその特需はこれを可能にしていた。社会党は「8時間労働制」を叫び、全国組織労働者を固めていた。しかし中小企業者はそれどころではなく1日10時間労働は当たり前のことであった。
こんな不況の中、年子の夫梅園佳幸が「阿呆なことをした」という遺書を残してピストル自殺する。経営不振にもかかわらず、それから抜け出す才覚を持たず、経営の全てを番頭に任せ、放蕩三昧のあげく、財産を食いつぶし、にっちもさっちも行かなくなった上での自殺であった。孝平の懸念は当たったのである。
佳幸は、孝平とは対照的な人間であった。豊かな大阪商人の2代目、3代目にはよくあるタイプで、大尽遊びの結果、どうにもならなくなると、それからの脱却を図ることなく『阿呆なことをした』と、あっさりと人生を投げ出してしまえる人間であった。年子母娘の事など気にもかけなかった。もうこんな佳幸のようなボンボン旦那はこれが最後であろうと孝平は思った。年子を店に置き、その生活を保障した。
世の中は戦後近代化が進み、百貨店が勢力を持つようになっていた。闇市は次第に廃れていく。こんな中孝平は「暖簾」という言葉の持つ古いイメージを改めていった。孝平はその精神だけは尊重し、丁稚は「吉」、手代は「七」、番頭は「助」という呼び名をあらため、~どんを排し名前で呼ぶ事にする。自分を呼ぶ場合も、「旦那はん」を「主人」に、妻乃ぶ子の呼び名も「御寮人はん」から「奥さん」と呼ぶように改めた。お仕着せも、木綿の丁稚縞の厚司と前垂れを、紺の木綿のズボンに鼠色のジャンパー式の上着に替えた。上着のポケットだけは昔と同じ「大黒様と打ち出の小槌」に「なにわ」と記したマークを入れた。
昭和24年7月、忠平が復員してくる。孝平と同じく、しばらく休養をとる。こんな中、忠平は孝平の商法を見つめていた。そこには、父吾平の時代とは異なった商法と、しきたりがあった。父の時代は、明治、大正という平穏で、単調な時代であり、暖簾は心のよりどころであり、武士が氏、素性を拠り所にするように商人の心構えを決めるところであった。暖簾さえ掲げておれば、安易に手堅く商いの出来る時代であった。商人の厳しさも、ただ一徹で、その中には、飄々とした面白さがあった。しかし、兄孝平が生きた戦後は、激しい、激動の時代であった。伝統的な氏・素性は覆され、暖簾だけに頼っておれなくなっている。戦後、徐々に復活してきたお客の暖簾に対する懐古趣味に安易に頼っているものはそのまま没落してしまう。近代社会の中での暖簾の価値はこれを活用する人の力にかかっている。近代的な緻密な計算が無くてはならない。暖簾の持つ、信用と、重み、それを生かす計算された知恵と努力、この両者によって、暖簾は生きてくる。暖簾という古い器には、新しい水が注がれなくてはならない。
忠平は暖簾の持つ近代的意味を理解する。
大学を出て間もなく、昆布職人としての技術も、商いの方法も未熟なまま軍隊に取られた孝平であったが、軍隊は大阪商人としての心構え、魂を植え付けてくれた。軍隊では、名門も、学歴もない。同じ軍服、軍靴、帽子、をつけ、階級はあっても、その中では平等であり、何百人という軍人が、同じ質と同じ量の労働によって訓練され、叩きあげられていく。その中から、強靭な肉体と知恵と実力のあるものが出世していく。出発点は同じでも、出世はその後の努力にかかっている。それは大阪船場の商人孝平の場合も同じであった。戦災によって、金はない、暖簾は無力、力と頼っていた父の死、等々。そこには、丁稚から叩ぎ上げていった父と同じゼロからの出発があった。そんな兄孝平の姿を見て弟忠平は感動し、尊敬の念を抱く。
孝平は仕入れと拡販に努力し、忠平は算盤や帳簿の整理、店員の指図など内々の仕事を受け持った。無駄な経費を引き締め、着々と立売掘に本店を再建する準備を進めていた。
及ぶ子が出産する。女児であった。孝平は失望する。大阪商家の初産は男の子でなければならなかった。子供もまた資本の一つで、商いを受け継ぐ蓄積資本と考えられていた。しかし、養子という手もある。実子でも年子の夫佳之の様な出来損ないになる可能性もある。養子ならより取り見取りである。と考えて孝平は納得する。三千子と名づける。後年及ぶ子は朝太郎という男児を出産する。
昭和25年に起きた朝鮮戦争とその軍需景気は、株式暴落以来沈滞していた大坂の街に活況をもたらした。不況に苦しめられていた人々もやっと一息つく事が出来た。孝平もまた、この好景気の中、昆布工場を設けようとしていた。これまでは家内工業的に加工した昆布と、昆布問屋から仕入れたものを売って生計を立てていたのである。しかしそれには飽き足らず、原草昆布の加工から、製造販売まで一貫体制を作り上げようとした。
加工場は店の裏の空き地に立てる。住まいよりも、店よりも立派で、食品工場としての清潔さを保った。新たに機械を備え付け、高級昆布は手製で、大衆品は機械製と分類した。どちらもそれほどの違いはなかったが、食通にはその違いが判った。機械化によって能率は格段と上がった。その分価格を下げることが可能となる。しかし高級品は高く売った。それでもお客を減らすことはなかった。
機械化によって大量生産を可能にしたが、その分拡販が要求された。今のままでは、売れ残りの過剰在庫を抱えることになる。顧客の大手は、阪急、三越、大丸、そごう、高島屋という大阪の5大百貨店であった。しかしこれに持たれるだけでは父・吾平の時代から一歩も出るものではなかった。拡販の話は向こうからやってきた。大都百貨店からで、売り場を提供するから、大阪の老舗を集めて、何か面白いことをやってくれというのである。孝平は大阪の老舗18店舗を集めて、老舗街を作ることを提案する。了承される。各老舗は、大阪船場に拠点を置き、大都百貨店に出店したのである。この企画は成功を収める。大都百貨店は大都電鉄がそのメインであり、そのターミナルにある百貨店であった。それ以来孝平はターミナルに目を向ける。乗降客の数、流れ、交通量、人の階層、等々、観察し始める。これは昆布の拡販にとって不可欠な要素であった。
孝平は大阪から東京への進出も企てる。「東京の海苔、大阪の昆布」と言われ、東京人の舌には昆布はなじまないという忠平の忠告を無視して、東京への進出を強行する。それは忠平の云う通り冒険であった。
東横百貨店の誘いに乗ったものであったが、大丸百貨店も東京に進出するという噂を聞き、孝平は決心した。「高くても、特徴のある独自のものを」と、「高級昆布・磯福」で勝負を試み、成功する。東京進出は成功裏に終わるが、大阪摂津会館での勝負には苦労する。何とか切り抜けるが、孝平は勝負の難しさを知る。
本拠地大阪では、決してやらなかった花柳界にも出入りするようになる。商談を待ちあいや料理屋でするようになる。商談であると同時に、自分自身も楽しんでいた。東京進出で、やっと余裕が出来て来たのである。
馬車馬のような6年間であった。昆布を背負っての神戸の闇市通い、荷受組合での月6000円のサラリーマンを兼ねた生活、日本橋への開店、大都百貨店での老舗街、そして東京進出、休む暇のない多忙な生活であった。この間父・吾平の死、妹の年子の結婚、その夫佳幸の自殺、及ぶ子との結婚、三千子、朝太郎の誕生、母千代子、妻及ぶ子の甲斐甲斐しさ、忠平の律義さ、等々、東京から大阪に戻る汽車の中で、眠れぬまま、頭の中をそれらが走馬灯のように通り過ぎていく。二等席に座って、自分の生活もやっと3等から2等になったと思う。後はもう一頑張りで、立売堀に本店を開業することだと考平は思った。
昭和30年3月、孝平は立売堀に浪花屋を復興した。リュックサックを背負って帰還してから9年間、身体をすり削るように働きとうして、やっと、それだけの資力を蓄えたのである。孝平、40歳の春であった。
昆布買い付け、入札を孝平は大手企業寒水産業との間で繰り広げるが、ここでは商取引における駆け引きが描かれている。「負けて、勝つ」孝平は大企業寒水産業に最終的には勝ったのである。
ここでこの作品は終わる。時代は、戦後の混乱期を経て、高度経済成長期に入ろうとしていた。経済の中心は大阪から東京へと移りつつあった。大坂は、あくまでも軽工業(繊維産業)を中心に発展してきた都会である。戦後重工業を中心に発展してきた東京とは経済的に勝負にはならないかもしれない。しかし孝平は大坂に期待する。明治、大正の資本主義の揺籃期を培い何百年の暖簾のもとに商いをしてきた大阪である。「元通りの大阪の財力を取り戻してみせる。もう10年の辛抱や、もう10年したら、もとの大阪にして見せたる」、孝平はこう呟いた。
今は2014年、60年近い年月がたっている。この間産業社会はサービス産業優位の時代に代わっている。IT革命にみられるように、ハードよりもソフトの時代である。重工業優先の社会は去っている。東京と大阪の勝負の結果については僕は判らない。
大阪船場はどのように変わっているのだろうか?金融街、問屋街ということであるが「暖簾」という言葉は死語になっているのだろうか?


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