遠藤周作作『沈黙』踏み絵
江戸時代前期、寛永14年~15年に起こった島原の乱(1837~38年)が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に密入国をしたポルトガル人宣教師セバスチャン・ロドリゴは、嘗てキリシタンであり、棄教したキチジロウと云う男に密告され逮捕され獄舎に繋がれる。そこで、日本人信徒に加えられる残忍な拷問(穴吊り、水磔等)と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩する。役人は「お前が棄教すれば、あれらの者は救われる」という。彼は、神の義に生きて、彼らを見捨てるか、神の愛に生きて彼らを救うか、二者択一を迫られて苦悩する。本来神の義と愛は同一のものである筈である。信仰は愛を意味している。そこには心の拷問があった。神の愛は彼らを救えと命じる、しかし神の義(信仰)はこれを拒否する。この時ロドリゴは神に問う「何故、これらみじめな百姓たちに迫害や拷問という試練を与えるのですか」「神はなぜ沈黙をお守りになるのですか?」「なぜ我々をお救いにならないのですか」と。この時、獄舎の中から歌声が聞こえて来た。「主のなし賜うことは全て善きこと、参ろうや、参ろうや、パライソ(天国)の寺に参ろうや、パライソの寺とはもうすれど--------、遠い寺とはもうすれど」と。彼らは心から信じている。地上の苦しみの代わりに、神の国において永遠の喜びを得ると云う事を。そこには死をも恐れぬ真実の信仰があった。その信仰ゆえに肉体上の拷問に耐える事が出来たのである。その目は澄んで清らかであった。肉体の拷問をまぬかれ、自分たちを見守るロドリゴに対して恨みも無ければ、怒りも無かった。ロドリゴを見つめる目は神の眼であった。これ以上の心の拷問はなかった。ロドリゴは泣く、心の底から泣く。そして、神に対する怒りが、恨みがこみあげてきた。「何故、あなた(神)は私たちを見捨てるのですか?」と、それはイエスが十字架の上で叫んだ言葉であった。
島原の乱の時も、神は信徒たちの願いを無視して、沈黙を守り、幕府軍の蹂躙に任せ、これを救わなかった。イスラエルの民が、ローマに対し反抗したときも、ヒットラーによるユダヤの民に対するホロコーストの時も、神は救いの手を差し伸べなかった。虐殺に任している。
果たして神は存在するのか?これはキリスト者にとって重大な、根本的な問題を提供する。神あってのキリスト教である。この神の存在を否定する時、棄教は正当化する。存在しないものを信じても意味はない。これはロドリゴの気持ちであったと同時に作者遠藤周作の気持でもあったであろう。
嘗て、まだ日本においてキリスト教に対する弾圧が始まっていなかったころ、日本に派遣され、日本における布教の重職を担っていた、ロドリゴ達の師でもあったクリストバン・フェレイラ教父が、禁制時代に入り、逮捕され、拷問に会い、棄教する。その根本原因は、拷問によるというより、神の存在に対する疑問であり、不信であった。彼は神を捨てる。フェレイラはロドリゴの取り調べに現れる(棄教したものが、役人の手先になり、信者の取り調べに現れるということはよくあることであった)。フェレイラとロドリゴは対決する。フェレイラもロドリゴと同じく神の存在を疑った。何故神はその愛を我々に与えないのか?慈悲心と愛は神の本質ではないのか?神は救いのためにいるのではないのか?何故現れるべき時に現れないのか?神は我々の永遠の同伴者ではないのか?
もしも神が存在しないとしたら、すべては無となる。神の愛なんて存在しない、神の救いなんてありえない。
彼は今「顕偽録」を書いているという。デウスの教えと、切支丹の誤りと、不正を暴露する本だという。ロドリゴはそれが信じられなかった。嘗て、彼が自分の生涯をかけて信じてきたキリスト教を不正だという。神の愛を、栄光を信仰し、その教えを伝え広めようとしていた聖なる人の、なれの果ての姿をロドリゴは見る。「これ以上の拷問があるか」ロドリゴは叫ぶ。フェレイラの眼に涙が光る。神を信じられなくなったものの絶望と、悲しみがその涙によってあらわされていた。彼は書かされていたのではない、それが彼の真実の心だったのである。彼はロドリゴに言う。「踏み絵を踏め」。「棄教しろ」。「偽りの神を信じるな」と。
嘗て、洗礼まで受けたクリスチャンであり、今は信徒たちの取り締まりの責任者である宗門奉行の井上筑後守は言う「お前たち異国の司祭たちが捕えられる度に、日本人の血が流れる。お前らの身勝手な夢のために、死ぬのは日本人たちだ」「お前は彼らのために死のうとしてこの国に来たという。だが、事実はお前のためにあの者たちが死んでいくわ」と。
お前が棄教すれば、拷問に苦しむ信者たちを助けるという。しかし、神の義を守るために、それを拒否しているロドリゴを筑後守は、怒りを持って諭す。「神の愛に生きよ」と。勝手にキリスト教弾圧の法律を作り、それを犯すものをとらえ、拷問にかけ、彼らを救いたければ司祭であるお前が率先して踏み絵を踏めという。あまりに身勝手な言い分である。キリスト教禁制を辞めればよいのだ。そうすればすべてが救われる。しかしそれが権力者というものである。
神の義と、神の愛との相克に悩み、神の存在すら疑うロドリゴの上に、神の声が響く「踏むがいい。お前の足は、今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むであろう。だが、その足の痛さだけで私は充分だ。私はお前たちのその痛さを、苦しみを分かち合う。その為に私はいるのだから」、「主よ、あなたがいつも沈黙しているのを恨んでいました」「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、成すことを成せと云われた、ユダはどうなるのですか?」「私はそうは言わなかった。今、お前に踏み絵を踏むがいいと云っているように、ユダになすがいいと云ったのだ。お前の足が痛むように、ユダの心も痛んだのだから」。
その声に啓示され、ロドリゴは踏み絵を踏む。愛する者の顔の真上を5本の足指は覆った。激しい喜びと感動が彼の心に湧きあがった。この時、鶏が3度鳴いた。
聖職者たちはこの冒涜行為を激しく攻めるであろう。神の義を犯したロドリゴに対してフェレイラになしたと同じように、すべての地位をはく奪し、教会から追放するであろう。しかし、ロドリゴは「今まで誰もなしえなかった一番辛い愛の行為をしたのである」。彼は自分の中の神(こだわり)を捨て、本来の神に返ったのである。信仰とは我を捨てることである。そこには神の愛に生きた「聖職者」の姿があった。
曽野綾子はその著「現代に生きる聖書」の中で次のように述べている。「人は、国家的、社会的、家族的相克に悩むものです。しかし、それらの事は決して意外なものではありません。すべては神の視野のもとに、あるいは神の試しの中に、そのシナリオは書かれているのです。そして神は、与えられた試練を私たちがどのように担うかの自由を任せて下さったのです。--------。その時の苦しみをあなたは担わなければならない、ということを「剣をもたらすために来たのだ」という表現になっているのだと思います」と。ここには神と人との役割の違いが述べられている。
言 葉
穴吊りの刑:手足を動かぬように簀巻きにして穴に吊る(その穴には汚物(人糞)が詰まっている。即座に絶命しないように、耳の後ろに穴をあけて、一滴、一滴、血が滴り落ちるようにする。殺すことが目的ではない。生かさぬように殺さぬように痛めつけ、棄教を迫る刑である。
水磔(すいたく):海中に木柱を立て、信者を縛り付ける。潮が満ちてきて、顎のあたりまで水につかる、放置すれば水死するが、この刑の目的は棄教であって、殺人ではない。死の恐怖を与え、棄教を迫る。棄教しない限り、身体は海中に没して水死する。
熱湯による拷問:煮えたぎる温泉に信者を連れて行き、両手両足を縄で括り、柄杓で熱湯をすくい、信者に振りかける。それも一気にするのではなく柄杓の底に沢山の穴をあけ、苦痛が長引くようにする。これも殺人が目的ではない。棄教が目的なので棄教したものには医療が施される。
告悔(コンビサン):キリスト教用語。罪のゆるしの秘跡の全体を指すこともあるが,より厳密にはこの秘跡の第1の段階,すなわち神のゆるしを受けるために,権限を授けられた司祭にたいしてみずからの罪を言いあらわす行為を意味する。初代教会では公的な告解も行われたが,後に司祭にたいして個人的になされる秘密告解が一般的慣行となった。第4ラテラノ公会議(1215)以来,年1回の告解がすべての信徒にとって最小限の責務とされており,また告解の秘密は不可侵であることが教会法によって規定されている。
信心戻し:一度棄教したものが、もう一度信仰に立ち返ることを言う。
登場人物
キチジロー:彼は銀300枚でロドリゴを奉行所に売った男である。日本への旅の途中立ち寄ったマカオでロドリゴが初めて会った日本人が彼であった。彼は、いわゆる転び伴天連で、日本の隠れキリシタンたちと接点を持ち、その住む村にロドリゴを案内する。ここでロドリゴは多くの村民に洗礼を与える。しかしこれが日本でロドリゴが行った最初で最後の司祭としての活動であった。キチジローの裏切りに会い奉行所に収監されたからである。遠藤周作は、このキチジローを背徳者ユダに見立てている。ユダは銀30枚でキリストを裏切った後、後悔の念に耐えきれず、首をつって自殺している。キチジローも同じく後悔の念に耐えきれず、信心戻しの告悔をしてまで、ロドリゴに近づき、その赦しを求める。義務として告悔を受け入れはするものの、ロドリゴはキチジローにキリストがユダに「去れ」と言ったように「去れ」という。キリストがユダを許すことが出来なかったようにロドリゴも、この汚らしい、口臭と、体臭のきつい不潔な背徳者キチジローを許すことが出来なかった。嫌悪していた。遠藤周作はこの男を、弱さを典型的にあらわした男として描いている。棄教と信心戻しを繰り返すキチジローをもはや、奉行所は相手にしなくなる。しかしこんな弱く、意志薄弱な人間こそ救われなければならないのである。神の優しい眼を感じてロドリゴは恥じ入る。もしもこんな厳しい時代でなければキチジローも健全なキリスト者としての生活が可能であったであろう。棄教した後のロドリゴのキチジローを見る目は変化していた。その本質は異なっていたけれど、お互いに踏み絵を踏んだ中なのである。
クリストバン・フェレイラ:ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していた教父で、日本にいること20数年、地区長(スペリオ)として最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老であった。その長老が長崎で「穴吊り」の拷問にあって棄教したという。キリスト教迫害のもと不屈の精神で隠れキリシタンとして宣教を続けているという彼の報告に接していただけに、この知らせは衝撃であった。信者たちはこの報告をにわかには信じる事が出来なかった。それまで続いていた報告は途絶え、その消息は不明となる。司祭ロドリゴは奉行所で彼と再会し、その棄教の理由を知る。彼は言う、今、日本の信者の信じている神は、我々の信じる神ではないと。在来の宗教と結びついた彼らの作り出した神であると。神と人との断絶を意味する信仰を彼らは理解できないと。そして今日本のキリスト教は、根付く事はない。今咲いているものは仇花過にぎないと云う。
セバスチャン・ロドリゴ、フランシス・ガルベ、ホワン・サンタ・マリア:嘗てこの3人はフェレイラ教父の弟子であった。3人は教父が激しい拷問に会ったとはいえ、神を捨て、その愛を捨てたとは信じられなかった。それ故、彼らは、日本への旅は危険に満ちていると反対されながらも、教父の消息を知ることを望んだし、なおかつ日本における布教が危機に瀕している事実を知り、これを放置する事は出来なかった。反対を押し切って日本に向かって出発する。途中マカオに立ち寄りそこでキチジローを拾い、日本での案内役にする。ホワン・サンタ・マリアは病に倒れ同行は不可能となる。とにかく2人はキチジローを伴って、日本に向かって出発する。
そしてキチジローの案内によって、隠れキリシタンたちの住む村に到着する。密航は成功する。
ロドリゴ達はここで日本の百姓たちの悲惨な境遇を知る。彼らは牛馬以下の生活を強いられ、牛馬のように死んでいった。彼らはキリストの教えを知って、その足かせ捨てる一筋の光明を見つけたのである。救いの道を知ったのである。ロドリゴ達は彼らに洗礼を与え、キリストが山上でその説教を述べたように、その教えをきかした。百姓たちは安息を得、慰めを得、癒しを得た。しかし、いつまでもこの村にとどまっているわけにはいかなかった。危険が迫っていた。村人にこれ以上迷惑をかけないためにも、この村を去ることにする。ここでロドリゴとガルベは別れる。何があっても1人だけは生き残ろうと決めたからである。しかしロドリゴはキチジローの密告により、役人に逮捕される。ロドリゴがその本来の役割を果たしたのは、しばらく過ごしたこの隠れキリシタンの住む村だけであった。一人だけは何があっても生き残ろうと誓ったにもかかわらずガルベもほどなく逮捕される。彼も棄教すれば拷問に苦しむ信者たちを助けようと説得されるが、彼は神の義を守り信者たちと共に死を選び水磔された信者たちとともに海のもずくとして死んでいく。
フェレイラは神を捨て、ガルベは神の義を守り、その信仰を貫いて、信者たちと共に死んでいく。そしてロドリゴは踏み絵を踏み愛に生きた。ここには3人の司祭の3様の生き方が示されている。
真実の神とは何か?神の義とは何か?神の愛とは何か?棄教を象徴する踏み絵を巡ってキリスト者に対する根本問題が提起されている。果たして神の成されることは全て善きことなのか?現実の苦しみは、死後の神の国のためにあるのか?永遠の命を得るためにあるのか?それは、現実の苦しみから、自らを守るにすぎない現実逃避ではないのか?神様の中に逃げ込めばすべてが解決されるのか?遠藤周作は言う。神は人との永遠の同伴者であり、共に苦しみ、共に喜ぶ存在であると。遠藤周作は神の根本問題に触れてはいるが、人間と神との間の正しい関係とは何かについては、述べていない。曽野綾子は前記の通り、神と人との役割の違いを述べ、人に剣を持てと言っている。それは圧政者に対する革命を意味している。悪魔からの解放を意味している。
井上筑前守
島原の乱以後、キリスト教徒弾圧の指導者。宗門奉行。嘗てキリスト教を信じ洗礼まで受けた男。それ故、クリスチャンの心を知りつくしており、拷問や脅しに屈することのない信者達を棄教に追い込んでいる。フェレイラ教父も彼の説得の結果棄教している。彼はロドリゴには肉体的拷問は与えない。そんなことで殉教されたら、却って信者達を結束させて逆効果になる。彼の目的はあくまでも神への不信をロドリゴに植え付け、棄教させることであって殺人ではない。彼は言う日本におけるキリスト教は悪女の深情けであると。男(日本)にとっては迷惑なだけだと。また不生女(うまずめ)は日本では嫁になる資格はないと云われていると。キリスト教はこの国では子をうめず、育てる事が出来ない、と。この指摘は現在でも通用する。現在日本におけるキリスト教徒の数は全人口の1%に満たない。弾圧も無ければ規制も無く、自由に伝道の出来る現在においてである。それは伝道活動に難があると云うよりは、日本人の性格に原因があると思はれる。多神教の伝統を持ち、おおらかな神を知っている日本人にとって、一神教の厳しい神はなじまないのである。遠藤周作は井上筑前守の言葉を通じて、自分の考えを述べているのであろう。
棄教した後、ロドリゴは日本に永住しその天寿を全うしている。勿論小説としての脚色はあるものの、そのモデルは現実に存在していたのである。
江戸時代前期、寛永14年~15年に起こった島原の乱(1837~38年)が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に密入国をしたポルトガル人宣教師セバスチャン・ロドリゴは、嘗てキリシタンであり、棄教したキチジロウと云う男に密告され逮捕され獄舎に繋がれる。そこで、日本人信徒に加えられる残忍な拷問(穴吊り、水磔等)と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩する。役人は「お前が棄教すれば、あれらの者は救われる」という。彼は、神の義に生きて、彼らを見捨てるか、神の愛に生きて彼らを救うか、二者択一を迫られて苦悩する。本来神の義と愛は同一のものである筈である。信仰は愛を意味している。そこには心の拷問があった。神の愛は彼らを救えと命じる、しかし神の義(信仰)はこれを拒否する。この時ロドリゴは神に問う「何故、これらみじめな百姓たちに迫害や拷問という試練を与えるのですか」「神はなぜ沈黙をお守りになるのですか?」「なぜ我々をお救いにならないのですか」と。この時、獄舎の中から歌声が聞こえて来た。「主のなし賜うことは全て善きこと、参ろうや、参ろうや、パライソ(天国)の寺に参ろうや、パライソの寺とはもうすれど--------、遠い寺とはもうすれど」と。彼らは心から信じている。地上の苦しみの代わりに、神の国において永遠の喜びを得ると云う事を。そこには死をも恐れぬ真実の信仰があった。その信仰ゆえに肉体上の拷問に耐える事が出来たのである。その目は澄んで清らかであった。肉体の拷問をまぬかれ、自分たちを見守るロドリゴに対して恨みも無ければ、怒りも無かった。ロドリゴを見つめる目は神の眼であった。これ以上の心の拷問はなかった。ロドリゴは泣く、心の底から泣く。そして、神に対する怒りが、恨みがこみあげてきた。「何故、あなた(神)は私たちを見捨てるのですか?」と、それはイエスが十字架の上で叫んだ言葉であった。
島原の乱の時も、神は信徒たちの願いを無視して、沈黙を守り、幕府軍の蹂躙に任せ、これを救わなかった。イスラエルの民が、ローマに対し反抗したときも、ヒットラーによるユダヤの民に対するホロコーストの時も、神は救いの手を差し伸べなかった。虐殺に任している。
果たして神は存在するのか?これはキリスト者にとって重大な、根本的な問題を提供する。神あってのキリスト教である。この神の存在を否定する時、棄教は正当化する。存在しないものを信じても意味はない。これはロドリゴの気持ちであったと同時に作者遠藤周作の気持でもあったであろう。
嘗て、まだ日本においてキリスト教に対する弾圧が始まっていなかったころ、日本に派遣され、日本における布教の重職を担っていた、ロドリゴ達の師でもあったクリストバン・フェレイラ教父が、禁制時代に入り、逮捕され、拷問に会い、棄教する。その根本原因は、拷問によるというより、神の存在に対する疑問であり、不信であった。彼は神を捨てる。フェレイラはロドリゴの取り調べに現れる(棄教したものが、役人の手先になり、信者の取り調べに現れるということはよくあることであった)。フェレイラとロドリゴは対決する。フェレイラもロドリゴと同じく神の存在を疑った。何故神はその愛を我々に与えないのか?慈悲心と愛は神の本質ではないのか?神は救いのためにいるのではないのか?何故現れるべき時に現れないのか?神は我々の永遠の同伴者ではないのか?
もしも神が存在しないとしたら、すべては無となる。神の愛なんて存在しない、神の救いなんてありえない。
彼は今「顕偽録」を書いているという。デウスの教えと、切支丹の誤りと、不正を暴露する本だという。ロドリゴはそれが信じられなかった。嘗て、彼が自分の生涯をかけて信じてきたキリスト教を不正だという。神の愛を、栄光を信仰し、その教えを伝え広めようとしていた聖なる人の、なれの果ての姿をロドリゴは見る。「これ以上の拷問があるか」ロドリゴは叫ぶ。フェレイラの眼に涙が光る。神を信じられなくなったものの絶望と、悲しみがその涙によってあらわされていた。彼は書かされていたのではない、それが彼の真実の心だったのである。彼はロドリゴに言う。「踏み絵を踏め」。「棄教しろ」。「偽りの神を信じるな」と。
嘗て、洗礼まで受けたクリスチャンであり、今は信徒たちの取り締まりの責任者である宗門奉行の井上筑後守は言う「お前たち異国の司祭たちが捕えられる度に、日本人の血が流れる。お前らの身勝手な夢のために、死ぬのは日本人たちだ」「お前は彼らのために死のうとしてこの国に来たという。だが、事実はお前のためにあの者たちが死んでいくわ」と。
お前が棄教すれば、拷問に苦しむ信者たちを助けるという。しかし、神の義を守るために、それを拒否しているロドリゴを筑後守は、怒りを持って諭す。「神の愛に生きよ」と。勝手にキリスト教弾圧の法律を作り、それを犯すものをとらえ、拷問にかけ、彼らを救いたければ司祭であるお前が率先して踏み絵を踏めという。あまりに身勝手な言い分である。キリスト教禁制を辞めればよいのだ。そうすればすべてが救われる。しかしそれが権力者というものである。
神の義と、神の愛との相克に悩み、神の存在すら疑うロドリゴの上に、神の声が響く「踏むがいい。お前の足は、今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むであろう。だが、その足の痛さだけで私は充分だ。私はお前たちのその痛さを、苦しみを分かち合う。その為に私はいるのだから」、「主よ、あなたがいつも沈黙しているのを恨んでいました」「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、成すことを成せと云われた、ユダはどうなるのですか?」「私はそうは言わなかった。今、お前に踏み絵を踏むがいいと云っているように、ユダになすがいいと云ったのだ。お前の足が痛むように、ユダの心も痛んだのだから」。
その声に啓示され、ロドリゴは踏み絵を踏む。愛する者の顔の真上を5本の足指は覆った。激しい喜びと感動が彼の心に湧きあがった。この時、鶏が3度鳴いた。
聖職者たちはこの冒涜行為を激しく攻めるであろう。神の義を犯したロドリゴに対してフェレイラになしたと同じように、すべての地位をはく奪し、教会から追放するであろう。しかし、ロドリゴは「今まで誰もなしえなかった一番辛い愛の行為をしたのである」。彼は自分の中の神(こだわり)を捨て、本来の神に返ったのである。信仰とは我を捨てることである。そこには神の愛に生きた「聖職者」の姿があった。
曽野綾子はその著「現代に生きる聖書」の中で次のように述べている。「人は、国家的、社会的、家族的相克に悩むものです。しかし、それらの事は決して意外なものではありません。すべては神の視野のもとに、あるいは神の試しの中に、そのシナリオは書かれているのです。そして神は、与えられた試練を私たちがどのように担うかの自由を任せて下さったのです。--------。その時の苦しみをあなたは担わなければならない、ということを「剣をもたらすために来たのだ」という表現になっているのだと思います」と。ここには神と人との役割の違いが述べられている。
言 葉
穴吊りの刑:手足を動かぬように簀巻きにして穴に吊る(その穴には汚物(人糞)が詰まっている。即座に絶命しないように、耳の後ろに穴をあけて、一滴、一滴、血が滴り落ちるようにする。殺すことが目的ではない。生かさぬように殺さぬように痛めつけ、棄教を迫る刑である。
水磔(すいたく):海中に木柱を立て、信者を縛り付ける。潮が満ちてきて、顎のあたりまで水につかる、放置すれば水死するが、この刑の目的は棄教であって、殺人ではない。死の恐怖を与え、棄教を迫る。棄教しない限り、身体は海中に没して水死する。
熱湯による拷問:煮えたぎる温泉に信者を連れて行き、両手両足を縄で括り、柄杓で熱湯をすくい、信者に振りかける。それも一気にするのではなく柄杓の底に沢山の穴をあけ、苦痛が長引くようにする。これも殺人が目的ではない。棄教が目的なので棄教したものには医療が施される。
告悔(コンビサン):キリスト教用語。罪のゆるしの秘跡の全体を指すこともあるが,より厳密にはこの秘跡の第1の段階,すなわち神のゆるしを受けるために,権限を授けられた司祭にたいしてみずからの罪を言いあらわす行為を意味する。初代教会では公的な告解も行われたが,後に司祭にたいして個人的になされる秘密告解が一般的慣行となった。第4ラテラノ公会議(1215)以来,年1回の告解がすべての信徒にとって最小限の責務とされており,また告解の秘密は不可侵であることが教会法によって規定されている。
信心戻し:一度棄教したものが、もう一度信仰に立ち返ることを言う。
登場人物
キチジロー:彼は銀300枚でロドリゴを奉行所に売った男である。日本への旅の途中立ち寄ったマカオでロドリゴが初めて会った日本人が彼であった。彼は、いわゆる転び伴天連で、日本の隠れキリシタンたちと接点を持ち、その住む村にロドリゴを案内する。ここでロドリゴは多くの村民に洗礼を与える。しかしこれが日本でロドリゴが行った最初で最後の司祭としての活動であった。キチジローの裏切りに会い奉行所に収監されたからである。遠藤周作は、このキチジローを背徳者ユダに見立てている。ユダは銀30枚でキリストを裏切った後、後悔の念に耐えきれず、首をつって自殺している。キチジローも同じく後悔の念に耐えきれず、信心戻しの告悔をしてまで、ロドリゴに近づき、その赦しを求める。義務として告悔を受け入れはするものの、ロドリゴはキチジローにキリストがユダに「去れ」と言ったように「去れ」という。キリストがユダを許すことが出来なかったようにロドリゴも、この汚らしい、口臭と、体臭のきつい不潔な背徳者キチジローを許すことが出来なかった。嫌悪していた。遠藤周作はこの男を、弱さを典型的にあらわした男として描いている。棄教と信心戻しを繰り返すキチジローをもはや、奉行所は相手にしなくなる。しかしこんな弱く、意志薄弱な人間こそ救われなければならないのである。神の優しい眼を感じてロドリゴは恥じ入る。もしもこんな厳しい時代でなければキチジローも健全なキリスト者としての生活が可能であったであろう。棄教した後のロドリゴのキチジローを見る目は変化していた。その本質は異なっていたけれど、お互いに踏み絵を踏んだ中なのである。
クリストバン・フェレイラ:ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していた教父で、日本にいること20数年、地区長(スペリオ)として最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老であった。その長老が長崎で「穴吊り」の拷問にあって棄教したという。キリスト教迫害のもと不屈の精神で隠れキリシタンとして宣教を続けているという彼の報告に接していただけに、この知らせは衝撃であった。信者たちはこの報告をにわかには信じる事が出来なかった。それまで続いていた報告は途絶え、その消息は不明となる。司祭ロドリゴは奉行所で彼と再会し、その棄教の理由を知る。彼は言う、今、日本の信者の信じている神は、我々の信じる神ではないと。在来の宗教と結びついた彼らの作り出した神であると。神と人との断絶を意味する信仰を彼らは理解できないと。そして今日本のキリスト教は、根付く事はない。今咲いているものは仇花過にぎないと云う。
セバスチャン・ロドリゴ、フランシス・ガルベ、ホワン・サンタ・マリア:嘗てこの3人はフェレイラ教父の弟子であった。3人は教父が激しい拷問に会ったとはいえ、神を捨て、その愛を捨てたとは信じられなかった。それ故、彼らは、日本への旅は危険に満ちていると反対されながらも、教父の消息を知ることを望んだし、なおかつ日本における布教が危機に瀕している事実を知り、これを放置する事は出来なかった。反対を押し切って日本に向かって出発する。途中マカオに立ち寄りそこでキチジローを拾い、日本での案内役にする。ホワン・サンタ・マリアは病に倒れ同行は不可能となる。とにかく2人はキチジローを伴って、日本に向かって出発する。
そしてキチジローの案内によって、隠れキリシタンたちの住む村に到着する。密航は成功する。
ロドリゴ達はここで日本の百姓たちの悲惨な境遇を知る。彼らは牛馬以下の生活を強いられ、牛馬のように死んでいった。彼らはキリストの教えを知って、その足かせ捨てる一筋の光明を見つけたのである。救いの道を知ったのである。ロドリゴ達は彼らに洗礼を与え、キリストが山上でその説教を述べたように、その教えをきかした。百姓たちは安息を得、慰めを得、癒しを得た。しかし、いつまでもこの村にとどまっているわけにはいかなかった。危険が迫っていた。村人にこれ以上迷惑をかけないためにも、この村を去ることにする。ここでロドリゴとガルベは別れる。何があっても1人だけは生き残ろうと決めたからである。しかしロドリゴはキチジローの密告により、役人に逮捕される。ロドリゴがその本来の役割を果たしたのは、しばらく過ごしたこの隠れキリシタンの住む村だけであった。一人だけは何があっても生き残ろうと誓ったにもかかわらずガルベもほどなく逮捕される。彼も棄教すれば拷問に苦しむ信者たちを助けようと説得されるが、彼は神の義を守り信者たちと共に死を選び水磔された信者たちとともに海のもずくとして死んでいく。
フェレイラは神を捨て、ガルベは神の義を守り、その信仰を貫いて、信者たちと共に死んでいく。そしてロドリゴは踏み絵を踏み愛に生きた。ここには3人の司祭の3様の生き方が示されている。
真実の神とは何か?神の義とは何か?神の愛とは何か?棄教を象徴する踏み絵を巡ってキリスト者に対する根本問題が提起されている。果たして神の成されることは全て善きことなのか?現実の苦しみは、死後の神の国のためにあるのか?永遠の命を得るためにあるのか?それは、現実の苦しみから、自らを守るにすぎない現実逃避ではないのか?神様の中に逃げ込めばすべてが解決されるのか?遠藤周作は言う。神は人との永遠の同伴者であり、共に苦しみ、共に喜ぶ存在であると。遠藤周作は神の根本問題に触れてはいるが、人間と神との間の正しい関係とは何かについては、述べていない。曽野綾子は前記の通り、神と人との役割の違いを述べ、人に剣を持てと言っている。それは圧政者に対する革命を意味している。悪魔からの解放を意味している。
井上筑前守
島原の乱以後、キリスト教徒弾圧の指導者。宗門奉行。嘗てキリスト教を信じ洗礼まで受けた男。それ故、クリスチャンの心を知りつくしており、拷問や脅しに屈することのない信者達を棄教に追い込んでいる。フェレイラ教父も彼の説得の結果棄教している。彼はロドリゴには肉体的拷問は与えない。そんなことで殉教されたら、却って信者達を結束させて逆効果になる。彼の目的はあくまでも神への不信をロドリゴに植え付け、棄教させることであって殺人ではない。彼は言う日本におけるキリスト教は悪女の深情けであると。男(日本)にとっては迷惑なだけだと。また不生女(うまずめ)は日本では嫁になる資格はないと云われていると。キリスト教はこの国では子をうめず、育てる事が出来ない、と。この指摘は現在でも通用する。現在日本におけるキリスト教徒の数は全人口の1%に満たない。弾圧も無ければ規制も無く、自由に伝道の出来る現在においてである。それは伝道活動に難があると云うよりは、日本人の性格に原因があると思はれる。多神教の伝統を持ち、おおらかな神を知っている日本人にとって、一神教の厳しい神はなじまないのである。遠藤周作は井上筑前守の言葉を通じて、自分の考えを述べているのであろう。
棄教した後、ロドリゴは日本に永住しその天寿を全うしている。勿論小説としての脚色はあるものの、そのモデルは現実に存在していたのである。
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