日常一般

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エレミヤ書3 34~52章

2017年02月19日 | Weblog

  エレミヤ書 3 34章~52章
  はじめに

 今、遠藤周作の『沈黙』が映画化され話題になっている。
 時は17世紀、キリスト教禁令下の日本。長崎奉行に拘禁され獄中にあった宣教師ロドリゴは、残虐な肉体的拷問に苦しむ信者の姿を見せつけられ「棄教すれば彼らを助ける」と踏み絵を迫られる。そこには精神的な拷問があった。神の義に生きるか。人の情に生きるか。もがき、苦しみ、彼は泣く。そして神に対して怒りがこみ上げてくる。「こんなにもひたむきにあなたを信じ苦しむ信者を何故救わないのか」「なぜ沈黙を守っているのか」彼は答を求めて叫ぶ。これに対して主は沈黙を破る。「踏みなさい」「わたしは沈黙をしていたのではない。共に苦しんでいたのだ」「ユダも苦しんだ、ペテロも苦しんだ」。ユダも、ペテロも踏み絵を踏んでいる。しかし、ユダはともかくとしてペテロは、「使徒の働き」を見れば明らかのように、ローマにまで福音宣教に出かけている。この事から判断した時、踏み絵を踏むか踏まないかは、信仰とは全く関係の無いことである、と言える。主が踏めと云っているのである。だからカトリック教会は、この書を禁書にしている。僕に言わせれば「踏み絵」とは主が最も嫌う偶像崇拝である。極端はいけない。信者のひたむきさは狂信に繋がる。自爆テロは狂信から生まれる。私はこの書『沈黙』の中で一番好きな人物は人間的弱さを典型的に現す隠れキリシタン漁師のキチジローである。気弱で、常におびえ、何度も裏切り、役人からも相手にされなくなり、その度にロドリゴに泣いて許しを乞う。弱さゆえにロドリゴを役人に売り渡す。まるでキリストを売ったユダのようだ。こうありたいと思い悩みながらも、弱さゆえにこうあることが出来ない。しかし私はそんなキチジローを憎むことが出来ない。そんな人間らしい、いい加減さが、僕は好きだ。こんな人間に厳しさや、試練を要求することは出来ない。こんな人間こそ救われなければならないと思う。
 エレミヤ書とは直接関係ないにもかかわらず、何故『沈黙』を取り上げたのか。それは、「エレミヤ書」に限らず、聖書は神と人との関係を扱っているからである。神とは何か、人とは何か、信仰とは何か、罪とは何か、これは『沈黙』の課題でもある。
 この問題がイスラエルの最後の王たち(ヨシヤ、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤ=マカヌヤ)の時代(陥落以前、陥落、陥落後)に生きたエレミヤを通して語られている。そして、恵みの預言と災いの預言とがセットで語られる。アッシリア、バビロンは主の裁きの杖である。


①アッシリアから独立、申命記改革、エジプトとの戦いで戦死
②聖書には名前は出てこない。
③主の預言の記録、(エレミヤが作製し、バルクが口述筆記し、朗読する。災いの預言集)。エホヤキム王はこれを焼却する。         エレミヤこれを加筆再生する。
④第一次バビロン捕囚(この時王を含め全ての有能な者たちがバビロンに拉致される。BC597年)
⑤捕囚されたエホヤキンの恩赦と優遇。
⑥剣と疾病と飢饉によって国を滅ぼす悪王の典型として描かれる。
⑦バビロンに反抗して敗れ、逃走、途中で捕まり、バビロンに連行され、目はえぐられ、2人の息子は家来と共に虐殺され、死ぬ         まで獄に繋がれる。
⑧第二次バビロン捕囚。
⑨第二次捕囚に残された者、主の命に逆らってエジプトに逃走。

 エルサレムの陥落
 ユダの最後の王ゼデキヤはバビロンの包囲下(兵糧攻め)、陥落の危機を前にして監視の庭にいたエレミヤを呼び今後の対策を尋ねる。エレミヤは「バビロンに降伏せよ」「そうすればあなた方は助かり、エルサレムが火で焼かれることはない」と勧告する(38:17~19)。「降伏すれば生きる」「戦えば死ぬ」戦力差を考えれば、選択の余地は無かったはずである。主の約束には「必ずそうなる」と云う確実性がある。しかし、これを信じるか否かは、その人間の信仰心にかかっている。王はエレミヤの言葉に疑心暗鬼だった。バビロンの王ネブカデネザルは、兵糧攻めによってゼデキヤの降伏を待っていた。しかし降伏は無かった。業を煮やしたバビロン軍は攻撃を仕掛け、城郭の一角は破れる。ゼデキヤ王とその戦士は逃走を図るが、追手に捕まる。バビロンに連行され、目はえぐられ、2人の息子は家来と共に虐殺され、死ぬまで獄に繋がれた。⑦⑧参照。
エレミヤ書の46~50章にはエルサレムの周辺諸国に対する預言がまとめられています。

 諸国はなにゆえ神に裁かれたのか
エレミヤ書46章から51章にかけてはエルサレムの周辺諸国に対する災いの預言が語られています(上記表参照)。北イスラエルはアッシリアにユダがバビロンに滅ぼされたように、エルサレムの周辺諸国も主の警告を無視したが故に、裁きの杖であるバビロンに滅ぼされます。イスラエルの民がカナンの地に侵入して以来敵対していたペリシテ人の国もバビロンによって滅ぼされます。要するに主の御心を離れた故の結果なのです。しかし、○印のある国は、終わりの日に主によって繁栄を回復します。
 この主の裁きの杖であったバビロンも最終的には主によって滅ぼされます。具体的にはイスパニアのクロス王によって滅ぼされるのですが、神の僕として、裁きの杖として、一時は周辺諸国を打ち破った輝かしい存在としてのバビロンが、何故、天から落ち、地に倒されたのか。聖書は言います「お前が主に争いをしかけたからだ(50:24)」「主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ(50:29後半)」と。イザヤ書でも同様のことが言われています(イザヤ書14:12~15参照)。ユダをはじめその周辺諸国を滅ぼしたバビロンにとって、飛ぶ鳥を落とすような存在になったことによって、その力が主によって与えられていたにもかかわらず、自己過信をして、おごり高ぶり、自己神格化を図り、主に比すべき存在として主に争いを挑んだのです。これは主の最も嫌う事だったのです。主にとって、自分以外に神があってはならないのです。主は言います「大水のほとりに住む財宝豊かな者(バビロン)よ、あなたの最期、断ち滅ぼされる時が来た(51:13)」と。

言 葉
 レカブ人(35章 エホヤキム王の時代):「レカブ人に酒を飲ませよ」と云う主の命令に彼らは、これを拒否する。彼らは家訓を守る、清く正しい一族であった。イスラエルとユダの民との対比で描かれている。主に歯向かう者と、主に従順なる者の違いを鮮明にしている。より霊的な存在であれと諭す。誠実と不誠実が対比されている。レカブ人の存在が主のメッセージの一面を現している。
 バルク:エレミヤが主の言葉を口述し、バルクがこれを筆記した。これを神殿で朗読する。エホヤキム王の前でも朗読するが、その内容が王の意に添わなかったが故に王はこれを焼却する。エレミヤとバラクはこれに追加し再生する。後にバルクの逮捕を王は命じる。しかし、主がこれを隠された(保護された)。45章はバルク専用の章であり、主が、エレミヤがいかに彼を重要視していたかが判る。
残りの者のエジプトへの逃走:エレミヤはネブカドネザル王の好意によって救われ、エルサレムの総督ゲダルヤのもとに身を寄せる。ゲダルヤは、「バビロンに従え」と、イスラエルの民に言う。イシュマエルがこれに反発して彼を暗殺する。巡礼者も殺し、人質を取ってアモンに向かって逃走する。ヨナハンがこれを追いい、人質を奪い返す。ヨナハンは、主の命「この地に残れ」と云う言葉に逆らってエジプトに逃走する。主は怒りエジプトを滅ぼすと宣言する。
 バビロン捕囚は主のご計画である
 「わたしはあなた方のために立てている計画をよく知っているからだ―主の御告げ―それは災いではなく平安を与えるためのものだ」バビロンの捕囚は一見、災いであるかのように見えるが、「バビロンに70年に満ちる頃、私はあなた方を顧み、あなた方をこの地に帰らせる」と主が言われるように、恵みの預言の実現は長期にわたる場合もあるといえよう。
 歴史的結論(52章): 
 この章の主な項目は、バビロンの傀儡王であったゼデキヤの悲劇と、反対に在位3か月のエホヤキンの捕囚地で受けた恵みについてです。主は常に言います。「わたしに従いなさい、そうすれば恵みが与えられます。反対に逆らえば災いを受けます」と。この言葉を地で行ったのがこの二人です。ゼデキヤは主に逆らい続けました。反対にエホヤキンは主との葛藤は起こしていません。主は恐らくバビロンの王を通じて彼に恵みを施したものと思われます。彼は一生の間バビロンの王に優遇され、食事を共にし、楽しんだのです。主はその罪を憎み罰しはしても、滅ぼしたりはしません。ゼデキヤは罰せられ、その子孫は断たれたが、エホヤキンは主によって選ばれ、終わりの日に現れるメシアの先ぶれと見做されたのです(かな?)。
平成2017年2月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会


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