日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

エレミヤ書 2 災害預言と救済預言

2017年01月19日 | Weblog

  エレミヤ書 2 災害預言と救済預言

  はじめに
 「すべての赤ちゃんは、神が人間に絶望していないというメッセージを抱えて生れてくる」(インド哲人の言葉)。
 「いざ、地上へと船出となった時、(子供達に、前に押し出されながら逆らっている子供を見て)子供達を送りだすおじいさん「時」がたしなめた『こら、お前はどうしたんだ?時刻がきたことは、わかっているだろう------不正とたたかう英雄がひとりいるんだ。お前がそれなんだ、さあ、出かけねばならんぞ』」(メーテルリンク作、若月紫欄訳「青い鳥」未来の国から。岩波少年文庫(第35版)P、205より。
 たとえどんなに神が正しく、イスラエルの民が間違っていても、わたしはイスラエルの民の側に立ちたい。(その意味で、厳密な意味で、私はクリスチャンではないかもしれない)。彼らは常に信念を持って行動し、決してあきらめなかった。敢えて破れると判っている戦いに挑み、散っていく、そのロマンに共感するからだ。主なる神は絶対的な権威者であり、権力者だ。イスラエルの民はそれに挑戦する反権威者であり反権力者である。それに対抗し、そして破れ去る。
 主(権威、権力)に頼ることは、人に安心を与えるが、他方、それに規制されて、思考が停止し自由な活動が出来なくなる。神は思考などするなと云う。わたしを信じ、従えという。祈れという。信じる者は救われるという。しかし、イスラエルの民は自由(自立)を求めて主に対立する。
 ネヘミヤ書に限らず、聖書は神目線で描かれている。民に向かって、上から、云う。「こうせよ、そうすれば、こうなる、そうでなければこうなる」と。聖書の定型句である。その典型例が「わが前に全きものであれ、されば汝に大地を与え、子々孫々の増大繁栄を約束しよう」である。これは神とアブラハムとの間で交わされた契約である。この契約を守らなかったイスラエルの民は最終的には、流浪の民となる。ここに神とイスラエルの民との葛藤がある。神は恵みの預言をする。しかし預言はあくまでも預言であって実現を保証するものではない。そこには希望(hope)があると同時に、懸念(fear)もある。そのリスクを冒してまでイスラエルの民は神に従わなければならないのか。神の預言は必ず実現するのか。

  主とイスラエルの民との葛藤
 何故、神の命に従わないのか,というエレミヤの問いにイスラエルの民は応える。「私たちは、私たちの口から出た言葉をみな必ず行って、私たちも、先祖たちも、私たちの王たちも、首長たちも、ユダの町々やエルサレムの巷で行っていたように、天の女王に生贄を捧げ、それに注ぎの葡萄酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽きたり、幸せで災いに会わなかったから。私たちが天の女王に生贄を捧げ、それに注ぎの葡萄酒を注ぐのを止めた時から、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされた(44:17~18)」と云う。要するに異教の神が恵みを、イスラエルの神は災いもたらした、と云うのである。イスラエルの民は、主なる神よりも異教の神に軍杯を挙げるのである。
 カナンの地に定着したイスラエルの民はその生活の基盤を徐々に牧畜から農業へと変えて行った。イスラエルの神は牧畜の神である。その捧げものには動物の血を要求する。カインとアベルの捧げものの話はこのことを如実に示している。異教の神としてイスラエルの民が信じた典型例はバアル神であった。バアルは豊饒の神であり、農業の神であり、土着の神である。それへの信仰は生活に根差していた。そこには平穏があり、安定があり平和があった。イスラエルの民がこの神を信じるようになったとしても、当然ではなかろうか。このような事実に対し、イスラエルの神――万軍の主――は、猛烈に反発する。「わたしは妬み深い神である。わたし以外の神を信じるな、律法を堅く守って生活の糧にせよ、さもないと、わたしはあなた方を罰する」と。これはイスラエルの民にとって拘束以外の何ものでもない。イスラエルの神は、イスラエルの民の生活上の変化を心の変化を理解せず、これを罰するのである。少なくともイスラエルの民にはそう感じられた。 
主はイスラエルの民の罪を裁きはするが、彼らを滅ぼしたりしない。イスラエルの民の苦しみや悩みが判っていたからである。決して無理解であったのではない。それは母子の関係に似ている。いたずらっ子をどんなに叱っても、時には手をあげても、母は決してその子を殺したりしない。母の怒りは、母の愛である。主の裁きも母の愛である。「人は愛される為生まれた」。時に子(民)はそれを誤解する。

  預言者エレミヤの苦悩
 主は預言者エレミヤを通じて、ある時は尽きせぬ愛を持って、ある時は、厳しい怒りを持ってイスラエルの民に語りかけ、民を神への応答へと招いている。それは片思いの女が恋い慕う男を求めるのに似ている。拒否されればされるほど、その愛は募る。しかしイスラエルの民は主に背を向け、愛人である他の神々に付いていった。特にバアル神は魅力的であった。「なぜ異教の神を拝んではいけないのか」恐らくイスラエルの民はこの疑問をエレミヤを通じて、主に投げかけたであろう。しかし主の答は「NO」であった。ここに至って、イスラエルの民は主を捨てたのである。これに関してはイスラエルの民は頑なであった。それは主においても同じであった。主はイスラエルの民の声に対して頑なであった。この間にあってエレミヤは悩み、苦しむ。エレミヤはその預言者としての立場から民の罪を主に告知したが、同時に、民の苦悩、願い、疑い、悲しみ等を率直に神にぶつけたのである。彼はイスラエルの民をこよなく愛していた。彼ほど神と民との軋轢を経験した預言者は他に居ないであろう。彼は神と民との軋轢の中で、真摯な努力は報われず、自分の限界を感じ、死すら考えている。

  主に抵抗する民
 主は預言者を通してイスラエルの民や王に対してその罪に対する裁きを預言して、警告を発したが、彼らはその預言を信じず、耳を傾けることは無かった。それ故、主は、心ならずも彼らを裁かざるを得なかった。目に見ることの出来ない主は、アッシリアやバビロンを目で見える裁きの杖として、イスラエルの民に災いを下したのである。
イスラエルの民が、耳を傾けなかった預言とは何か?それは次の二つであった。
1.わたしの言葉を聞かないならわたしはイスラエルの民を滅ぼす
2.バベルの王に服従し、バベルの王ネブカドネザルとその民に仕えよ。それはバビロニアに降伏せよという事であった。
  これはバベルの軍隊に包囲されていたイスラエルの守るべき絶対条件であった。
 この言葉に対しイスラエルの民は反発し、「エレミヤはエルサレムに対して、この町に敵対する預言を行った」として、彼に死刑を宣告する。しかし、ユダの高官たちは、「エレミヤは主の言葉を語ったにすぎない」と、この訴えを退ける。
 この時、イスラエルの民に対してその心に心地よい預言をする偽預言者(ハナヌヤ、シェマヤ他)が横行していた。イスラエルの民はこれを歓迎し、それ故、厳しい預言をするエレミヤを拒否したのである。真実は時に民にとって苛酷である。

  偽預言者の出現
 偽預言者の一人にハナヌヤがいた。彼はユダヤの民が喜ぶ預言を語りイスラエルの民の関心を引こうとしていた。主は怒り、この預言を信じるな、と警告を発し、彼に死を与える。更に云う「わたしがあなた方を引いていったその町の繁栄を求め、その為に主に祈れ、そこの繁栄があなた方の繁栄になるからだ」と。この地に同化し、ユダヤ人としてのアイデンティティーを失う事を主はイスラエルの民に求めたのであろうか。主はイスラエルを選んだのである。何故。しかし神は言う「バビロンに70年の満ちる頃、私はあなた方を顧み、わたしに幸いの約束を果たしてあなた方をこの地に帰らせる」。「彼の国に時が来ると多くの民や大王たちが彼(バビロン)を自分達の奴隷にする」と。神はそれまで忍耐せよと云うのである。それは主が立てたご計画だったのである。それはイスラエルとユダの民に対する試練だったのである。この試練に耐え、自分に立ち返ることを主は望んでいたのである。ここにはイスパニアの王クロスの出現を予言していたのである。クロスはバビロンを滅ぼした後、イスラエルの民を捕囚から解放し祖国への帰還を許している。イスラエルの民はクロスを救世主と見なした。クロスは主の遣わした恵みの杖だったのである。

  救済預言(イスラエルの回復) 
これから述べる29章から33章までは「慰めの書」と言われ救済預言が語られている。主は言う「かつて、わたしが引き抜き、引き倒し、壊し、滅ぼし、災いを与えようと見張っていたように、今度は彼らを建て直し、また植えるために見守ろう(31:28)」「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民になる(31:28)。そして彼らに与えたわたしの災いは、わたしに出会うための産みの苦しみであったと、イスラエルの民は知るであろう。「見よ、その日が来る―主の御告げ―、その日、わたしは、わたしの民とユダの繁栄を元どおりにする」「わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する(30:3)」「もはや異国がイスラエルの民を奴隷にすることは無い(30:8)」「わたしがあなたとともにいて―主の御告げ―あなたを救うからだ。わたしは、あなたを散らした先の全ての国々を滅び尽くすからだ。しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公儀によってあなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが(30:11)」。
 

平成29年1月10日(火)制作者 守武 戢 楽庵会


コメントを投稿