イザヤ書XV 36~37章「信頼」と「救出」
はじめに:イスラエルの王エラの子ホセヤの第3年に、南ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となります。彼はイスラエルの神・主に信頼を寄せていました。そして、後にも先にもユダの王たちの中で彼ほどの者は、誰もいませんでした。彼は主に堅くすがって離れることがなかったのです。ヒゼキヤ王はイスラエルの危機に際して、「主は必ず我々を救い出して下さる。この町は決してアッシリヤの手に渡されることはない。」と語って、イスラエルの民に、主への信仰を勧めています。アッシリヤに滅ぼされた国々は、偶像礼拝の国であり、人の手の細工、木や石に過ぎない偶像を信じ、真の神を忘れていました。このとき、神は怒り、アッシリヤを使って、これらの国を滅ぼしたのです。このとき、イスラエルの民も罪に満ちていました。しかし、彼らの中には、主に選ばれた「残りの者」がいました。主は、一人でも自分を信じる者がいる限り、その民を滅ぼすことはありません。「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしの僕ダビデのために(37~35)」。アッシリヤは、この主の力によって、エルサレムの包囲を解かざるを得ず、み使いに殺害された18万8千人の遺体を残して、この町から撤退しました。撤退したセナケブリは国に帰り、その地で、彼は暗殺されます。主は自分に反抗する罪びとを決してお赦しにならないのです。ここに神・主の正義を、私は感じました。
36及び37章を読む方は、併せてⅡ列王記18章1節~20章6節を読んでください。ほぼ同じ内容が綴られています。しかし1点だけ異なっています。Ⅱ列王記18章14~16節はイザヤ書では省略されています。イザヤ書36章の1節から2節の間に入るべき文章です。そこにはヒデキヤ王がアッシリヤに無条件降伏し、金銀財宝を、講和を求めて治めたことが記されています。しかし、アッシリヤは、この平和交渉を裏切って、エルサレムを包囲します。
36章:「ヒゼキヤの王の第14年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダの全ての城壁のある町々を攻めて、これを取った(36:1)」。このときヒゼキヤ王は講和を求めて貢納金を治めています。先に述べた通りです。
「アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍を付けてラキシュからエルサレムへ、(約束を破って)ヒゼキヤ王のところに送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った(36:2)」。エルサレムは包囲されたのです。1節と2節の間には12~13年の経過があったと言われています。「そこで、ヒルキヤの子である宮内庁長官エルヤキム、書記セブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った(36:3)」。「ラブ・シャケは彼らに言った。『ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。『いったい、お前は何により頼んでいるのか』(36:4)』と、お前たちがより頼んでいるもの、エジプト、ヒゼキヤ王、ユダの戦力、神々のうち、だれが自分の国をアッシリヤの王セナケリブから救い出したか。全ては私にとっては、取るに足りないものだ。これらの全ては「お前たちを救い出すことは出来ない。」と、これらの「頼りにするもの」を、民の心から、引き離そうとしています。そして自分こそ救い主だと、イスラエルの民の味方を装います。「アルム語で語れと言う3人の高官の言葉に逆らってユダの言葉へブル語で語ります(36:11~12参照)」。また、「私と和を結び、わたしに降参せよ。そうすれば命と生活は保障しよう。また、移された地での快適な生活も保障しよう。(36:16~17)」と、優しさを装います。しかしそれは民の心に寄り添っているかのように見えて、これまで進攻した国々での彼らの行動、迫害、拉致、捕囚を見れば、これは明らかに偽りであり、欺瞞です。
頼りにならない者の筆頭に挙げられたものは、エジプトです。エジプトに関しては、「この国は裏切りを常とし(36:6参照)」おり、「おまえは戦車と騎兵のことでエジプトにより頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来の一人の総督をさえ撃退することは出来ないのだ(36:9)」と、これを貶め、自分の力を誇ります。実際に、セナケリブはエジプトを滅ぼしています。
次は、ヒデキヤ王です。「王はこういわれる。ヒデキヤにごまかされるな。あれはお前たちを救い出すことは出来ない(36:14)」。とラブ・シャケは、ヒゼキヤの頼りなさを列挙し、自分の力を誇示します。「主は必ず我々を救い出して下さる。この町は、決してアッシリヤの王の手に渡されることはない。………(36:15)」。「ヒゼキヤの言うことを聞くな………(36:16)」「おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ………(36:16A)」。このように、ヒゼキヤ王の言葉は、あくまでもポジティブであり、肯定的で希望に満ち、信頼に足るものであるのに対して、それに続くラブ・シャケの言葉はネガティブであり、否定的であり罪に、満ちています。これは、主が彼(ヒゼキヤ)と共にあり、明日の祝福を暗示しているのです。ここには、天なる神と地なる悪魔の対比があります。
最後に神についてです。アッシリヤは多神教の国です。それが一つの神のみを信仰するユダは、霊的に赦せないのです。彼らにとっては、自分たちの神々を無視し、唯一の神を祀り、「我々の神、主により頼め」と言って、他の神々を排除し、『この祭壇の前で拝め』と言うのは、自分たちの神に対する冒涜なのです(36:7参照)。それで、アッシリヤは、主を信じる国(イスラエル)を、その神と共に滅ぼそうと決心したのです。
「今、私(セナケリブ)がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか、主が私に『この国に攻め上ってこれを滅ぼせ』と言われたのだ(36:10)」と、エルサレムへの進攻を正当化しています。もしかしたら罪に満ちたエルサレムを罰するために、アッシリヤを神は使われたのかもしれません。
「………。これらの国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。(36;18)」「ハマテやアルバデの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。(36:19)」これらの国の神々は人の細工、木や石から作られた偽の神(偶像)です。いずれ、滅びる運命にあります。「………。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか(36:20)」。」と自分の力をセナケリブは、主に勝るものとし、主の上に置き、その力を誇示しています。しかし、主は滅びることのない永遠のお方です。天におわすと同時に、われわれと共におられます。アッシリヤはそのことを知りません。イスラエルに開城と降伏を勧告します。
「しかし、人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に応えるな』と言うのが、王の命令だったからである。(36:21)」。アッシリヤによるエルサレムの包囲と言うこの国家的危機に際して、王と民との間に揺るぎの無い信頼関係を見ることができます。それは主と民との信頼関係にと進化していきます。
さらに、神々に関しては「お前たちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出して下さると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。(36:18)」。「主がエルサレムを私(セナケリブ)の手から救い出すとでも言うのか(36:20B)」。と主を他の神々と同一に扱います。
3人の政府高は民の理解しないアラム語で語ってほしいとラブ・シャケに要求します。それに対して、彼は、イスラエルの民の理解できるユダの言葉へブル後で語ります。しかし、それは民の心に寄り添っているかのように見えても欺瞞と偽りに満ちています。これまで侵攻した国々での彼らの行動、迫害、拉致、捕囚を見れば、これは明らかです。だからこそ、「これを聞いた人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に応えるな』と言うのが王(ヒゼキヤ)の命令だったからである(36:21)」。ここに民とヒゼキヤ王、または、神との間の霊的一致を見ることができます。
37章:滅亡の危機にあったイスラエルにアッシリヤは開城と降伏を求めました。イスラエルの高官たちは、これを拒否し「自分たちの衣を引き裂いてヒデキヤのもとに行きラブ・シャケの言葉を告げた(36;22参照)」のです。「ヒデキヤ王はこれを聞いて自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った(37:1)」のです。「衣を裂く」とは、悲しみや、酷い辛さなどを表現する言葉で、「荒布を身に纏う」とは、自分の心の痛みを体で表現するときに使う言葉です。「主の宮」に入るものは、謙虚に自分の弱さを表現する必要があるからです。ヒデキヤ王が第1に訪れたところは「主の宮」でした。「主の宮」とは、主を信頼し、崇める者が、悩みを打ち明け、主の言葉を、聞くことのできる場所です。そして第2にしたことは、預言者イザヤのもとに政府の高官たちを遣わしたことです。預言者は主の言葉を預かって、それを民に伝える役割を担っています。ヒゼキヤ王はその言葉を聞きたいと願ったのです。彼らはヒゼキヤの言葉を次のようにイザヤに伝えます。「きょうは苦難と懲らしめと侮辱の日です。子供が生まれようとするのに、それを生み出す力がないのです。(37;3)」と。アッシリヤに囲まれ、滅びは直前に迫っていました。その苦しみの中にあって、何もできず、脱力感に苛まれている状況が描かれています。それに反して、アッシリヤは、イスラエルの神・主を自分の下に置き、「おまえたちの神・主は私に勝つことは出来ない」と、セナケリブは神を謗り、自分の力を誇ります。イスラエルはその罪ゆえ(エジプトにより頼むなど)に罰せられていたのですが、「イスラエルにまだいる「残りの者」のために、祈りを捧げてほしい」と言う高官たちの言葉に応じて、イザヤは、神の言葉として「彼らの謗りの言葉を恐れるな」と、励まします。主は、一転して、その裁きの対象をイスラエルからアッシリヤに変え、その王セナケリブの滅亡を預言します(37:7参照)」。
ラブ・シャケはユダのヒゼキヤ王に城壁の開門と降伏を勧めます。しかし、彼はそれを拒否します。これまで沈黙を守っていたイスラエルの神が、動き始めたからです(37:7参照)」。アッシリヤの軍隊と戦う姿勢を明らかにします。ラブ・シャケは闘うという選択を避け、エルサレムの包囲を解きエルサレムを退き、リブナを攻めていたセナケリブと合流します。クシュ(エチオピヤ)の王ティルハカもアッシリヤと共にイスラエルと戦うことに同意しています。これに力を得たセナケリブは、ヒゼキヤのもとに使者を送り「おまえはお前の神に信を置き、主の守りがあるから敗れることはない」と言っているが、ごまかされてはならない」「私が、私に反逆した国々を滅ぼしたことを知らなければならない」「それらの国々が信じる神が、それぞれの国を救ったか。同様に、お前の神も、私からお前を救い出すことは出来ない」。と傲慢にも豪語し、自分を神と同等、あるいはそれ以上においています。神の最も嫌う態度です。「実るほど、首を垂れる稲穂かな」。力あるものは謙虚であらねばならないのです。
「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上っていって、それを主の前に広げた。(37:14)」。「ヒゼキヤは主に祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地の全ての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ、御耳を傾けて聞いてください。主よ、御目を開いてご覧ください。生ける神を謗るために言ってよこしたセナケリブの言葉をみな聞いてください。主よ、アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石に過ぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。今。私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地の全ての王国は、あなたが主であることを知るでしょう』」(37:15~20)。「アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。『イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたが、アッシリヤの王セナケリブついて、私に祈ったことを、わたしは聞いた』(37:21)」と。
ケルビム:旧約聖書で神殿の奉仕者としての天使として考えられています。人間、獅子、牡牛、鷲の顔と4枚の翼を付けた姿で現わされています。
ただ、あなただけが神です:神の唯一性、至高性、無比性、永遠性を現しています。そこには滅びはありません。そこが、人の手の細工、木や石に過ぎない偽の神=偶像と異なっています。偶像はいつか滅びます。アッシリヤが滅ぼし「火に投げ込んだ」のは、この偽の神=偶像です。
ヒゼキヤの祈りの目的は、すべての国々に、主の御名があがめられることです。この当時、異国では、異教の神々があがめられていました。神の力でイスラエルが救われれば、彼の目的は達成されるのです。
「あなたが、アッシリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったことをわたしは聞いた。(37:21)」。神、主は、「信仰の人」の祈りには必ず応えてくださいます。主は、ヒゼキヤの祈りに対して、イザヤを通して答えます。「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。『彼はこの町に侵入しない。またこの町に矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いて、これを攻めることもない。(37:33)』「彼はもと来た道を引き返し、この町に入らない。――主の御告げ――わたしは、この町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべ、ダビデのために(37:35)」」。
「主のみ使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を撃ち殺した。人びとが翌朝早く起きてみると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは、立ち去り、帰ってニネベに住んだ(37:36~37)」。セナケリブは自分の神ニスロクの宮の前で拝んでいるとき2人の息子に殺されます。自分の神の前で殺されるとは皮肉なことです。
はじめに:イスラエルの王エラの子ホセヤの第3年に、南ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となります。彼はイスラエルの神・主に信頼を寄せていました。そして、後にも先にもユダの王たちの中で彼ほどの者は、誰もいませんでした。彼は主に堅くすがって離れることがなかったのです。ヒゼキヤ王はイスラエルの危機に際して、「主は必ず我々を救い出して下さる。この町は決してアッシリヤの手に渡されることはない。」と語って、イスラエルの民に、主への信仰を勧めています。アッシリヤに滅ぼされた国々は、偶像礼拝の国であり、人の手の細工、木や石に過ぎない偶像を信じ、真の神を忘れていました。このとき、神は怒り、アッシリヤを使って、これらの国を滅ぼしたのです。このとき、イスラエルの民も罪に満ちていました。しかし、彼らの中には、主に選ばれた「残りの者」がいました。主は、一人でも自分を信じる者がいる限り、その民を滅ぼすことはありません。「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしの僕ダビデのために(37~35)」。アッシリヤは、この主の力によって、エルサレムの包囲を解かざるを得ず、み使いに殺害された18万8千人の遺体を残して、この町から撤退しました。撤退したセナケブリは国に帰り、その地で、彼は暗殺されます。主は自分に反抗する罪びとを決してお赦しにならないのです。ここに神・主の正義を、私は感じました。
36及び37章を読む方は、併せてⅡ列王記18章1節~20章6節を読んでください。ほぼ同じ内容が綴られています。しかし1点だけ異なっています。Ⅱ列王記18章14~16節はイザヤ書では省略されています。イザヤ書36章の1節から2節の間に入るべき文章です。そこにはヒデキヤ王がアッシリヤに無条件降伏し、金銀財宝を、講和を求めて治めたことが記されています。しかし、アッシリヤは、この平和交渉を裏切って、エルサレムを包囲します。
36章:「ヒゼキヤの王の第14年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダの全ての城壁のある町々を攻めて、これを取った(36:1)」。このときヒゼキヤ王は講和を求めて貢納金を治めています。先に述べた通りです。
「アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍を付けてラキシュからエルサレムへ、(約束を破って)ヒゼキヤ王のところに送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った(36:2)」。エルサレムは包囲されたのです。1節と2節の間には12~13年の経過があったと言われています。「そこで、ヒルキヤの子である宮内庁長官エルヤキム、書記セブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った(36:3)」。「ラブ・シャケは彼らに言った。『ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。『いったい、お前は何により頼んでいるのか』(36:4)』と、お前たちがより頼んでいるもの、エジプト、ヒゼキヤ王、ユダの戦力、神々のうち、だれが自分の国をアッシリヤの王セナケリブから救い出したか。全ては私にとっては、取るに足りないものだ。これらの全ては「お前たちを救い出すことは出来ない。」と、これらの「頼りにするもの」を、民の心から、引き離そうとしています。そして自分こそ救い主だと、イスラエルの民の味方を装います。「アルム語で語れと言う3人の高官の言葉に逆らってユダの言葉へブル語で語ります(36:11~12参照)」。また、「私と和を結び、わたしに降参せよ。そうすれば命と生活は保障しよう。また、移された地での快適な生活も保障しよう。(36:16~17)」と、優しさを装います。しかしそれは民の心に寄り添っているかのように見えて、これまで進攻した国々での彼らの行動、迫害、拉致、捕囚を見れば、これは明らかに偽りであり、欺瞞です。
頼りにならない者の筆頭に挙げられたものは、エジプトです。エジプトに関しては、「この国は裏切りを常とし(36:6参照)」おり、「おまえは戦車と騎兵のことでエジプトにより頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来の一人の総督をさえ撃退することは出来ないのだ(36:9)」と、これを貶め、自分の力を誇ります。実際に、セナケリブはエジプトを滅ぼしています。
次は、ヒデキヤ王です。「王はこういわれる。ヒデキヤにごまかされるな。あれはお前たちを救い出すことは出来ない(36:14)」。とラブ・シャケは、ヒゼキヤの頼りなさを列挙し、自分の力を誇示します。「主は必ず我々を救い出して下さる。この町は、決してアッシリヤの王の手に渡されることはない。………(36:15)」。「ヒゼキヤの言うことを聞くな………(36:16)」「おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ………(36:16A)」。このように、ヒゼキヤ王の言葉は、あくまでもポジティブであり、肯定的で希望に満ち、信頼に足るものであるのに対して、それに続くラブ・シャケの言葉はネガティブであり、否定的であり罪に、満ちています。これは、主が彼(ヒゼキヤ)と共にあり、明日の祝福を暗示しているのです。ここには、天なる神と地なる悪魔の対比があります。
最後に神についてです。アッシリヤは多神教の国です。それが一つの神のみを信仰するユダは、霊的に赦せないのです。彼らにとっては、自分たちの神々を無視し、唯一の神を祀り、「我々の神、主により頼め」と言って、他の神々を排除し、『この祭壇の前で拝め』と言うのは、自分たちの神に対する冒涜なのです(36:7参照)。それで、アッシリヤは、主を信じる国(イスラエル)を、その神と共に滅ぼそうと決心したのです。
「今、私(セナケリブ)がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか、主が私に『この国に攻め上ってこれを滅ぼせ』と言われたのだ(36:10)」と、エルサレムへの進攻を正当化しています。もしかしたら罪に満ちたエルサレムを罰するために、アッシリヤを神は使われたのかもしれません。
「………。これらの国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。(36;18)」「ハマテやアルバデの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。(36:19)」これらの国の神々は人の細工、木や石から作られた偽の神(偶像)です。いずれ、滅びる運命にあります。「………。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか(36:20)」。」と自分の力をセナケリブは、主に勝るものとし、主の上に置き、その力を誇示しています。しかし、主は滅びることのない永遠のお方です。天におわすと同時に、われわれと共におられます。アッシリヤはそのことを知りません。イスラエルに開城と降伏を勧告します。
「しかし、人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に応えるな』と言うのが、王の命令だったからである。(36:21)」。アッシリヤによるエルサレムの包囲と言うこの国家的危機に際して、王と民との間に揺るぎの無い信頼関係を見ることができます。それは主と民との信頼関係にと進化していきます。
さらに、神々に関しては「お前たちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出して下さると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。(36:18)」。「主がエルサレムを私(セナケリブ)の手から救い出すとでも言うのか(36:20B)」。と主を他の神々と同一に扱います。
3人の政府高は民の理解しないアラム語で語ってほしいとラブ・シャケに要求します。それに対して、彼は、イスラエルの民の理解できるユダの言葉へブル後で語ります。しかし、それは民の心に寄り添っているかのように見えても欺瞞と偽りに満ちています。これまで侵攻した国々での彼らの行動、迫害、拉致、捕囚を見れば、これは明らかです。だからこそ、「これを聞いた人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。『彼に応えるな』と言うのが王(ヒゼキヤ)の命令だったからである(36:21)」。ここに民とヒゼキヤ王、または、神との間の霊的一致を見ることができます。
37章:滅亡の危機にあったイスラエルにアッシリヤは開城と降伏を求めました。イスラエルの高官たちは、これを拒否し「自分たちの衣を引き裂いてヒデキヤのもとに行きラブ・シャケの言葉を告げた(36;22参照)」のです。「ヒデキヤ王はこれを聞いて自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った(37:1)」のです。「衣を裂く」とは、悲しみや、酷い辛さなどを表現する言葉で、「荒布を身に纏う」とは、自分の心の痛みを体で表現するときに使う言葉です。「主の宮」に入るものは、謙虚に自分の弱さを表現する必要があるからです。ヒデキヤ王が第1に訪れたところは「主の宮」でした。「主の宮」とは、主を信頼し、崇める者が、悩みを打ち明け、主の言葉を、聞くことのできる場所です。そして第2にしたことは、預言者イザヤのもとに政府の高官たちを遣わしたことです。預言者は主の言葉を預かって、それを民に伝える役割を担っています。ヒゼキヤ王はその言葉を聞きたいと願ったのです。彼らはヒゼキヤの言葉を次のようにイザヤに伝えます。「きょうは苦難と懲らしめと侮辱の日です。子供が生まれようとするのに、それを生み出す力がないのです。(37;3)」と。アッシリヤに囲まれ、滅びは直前に迫っていました。その苦しみの中にあって、何もできず、脱力感に苛まれている状況が描かれています。それに反して、アッシリヤは、イスラエルの神・主を自分の下に置き、「おまえたちの神・主は私に勝つことは出来ない」と、セナケリブは神を謗り、自分の力を誇ります。イスラエルはその罪ゆえ(エジプトにより頼むなど)に罰せられていたのですが、「イスラエルにまだいる「残りの者」のために、祈りを捧げてほしい」と言う高官たちの言葉に応じて、イザヤは、神の言葉として「彼らの謗りの言葉を恐れるな」と、励まします。主は、一転して、その裁きの対象をイスラエルからアッシリヤに変え、その王セナケリブの滅亡を預言します(37:7参照)」。
ラブ・シャケはユダのヒゼキヤ王に城壁の開門と降伏を勧めます。しかし、彼はそれを拒否します。これまで沈黙を守っていたイスラエルの神が、動き始めたからです(37:7参照)」。アッシリヤの軍隊と戦う姿勢を明らかにします。ラブ・シャケは闘うという選択を避け、エルサレムの包囲を解きエルサレムを退き、リブナを攻めていたセナケリブと合流します。クシュ(エチオピヤ)の王ティルハカもアッシリヤと共にイスラエルと戦うことに同意しています。これに力を得たセナケリブは、ヒゼキヤのもとに使者を送り「おまえはお前の神に信を置き、主の守りがあるから敗れることはない」と言っているが、ごまかされてはならない」「私が、私に反逆した国々を滅ぼしたことを知らなければならない」「それらの国々が信じる神が、それぞれの国を救ったか。同様に、お前の神も、私からお前を救い出すことは出来ない」。と傲慢にも豪語し、自分を神と同等、あるいはそれ以上においています。神の最も嫌う態度です。「実るほど、首を垂れる稲穂かな」。力あるものは謙虚であらねばならないのです。
「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上っていって、それを主の前に広げた。(37:14)」。「ヒゼキヤは主に祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地の全ての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ、御耳を傾けて聞いてください。主よ、御目を開いてご覧ください。生ける神を謗るために言ってよこしたセナケリブの言葉をみな聞いてください。主よ、アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石に過ぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。今。私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地の全ての王国は、あなたが主であることを知るでしょう』」(37:15~20)。「アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。『イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたが、アッシリヤの王セナケリブついて、私に祈ったことを、わたしは聞いた』(37:21)」と。
ケルビム:旧約聖書で神殿の奉仕者としての天使として考えられています。人間、獅子、牡牛、鷲の顔と4枚の翼を付けた姿で現わされています。
ただ、あなただけが神です:神の唯一性、至高性、無比性、永遠性を現しています。そこには滅びはありません。そこが、人の手の細工、木や石に過ぎない偽の神=偶像と異なっています。偶像はいつか滅びます。アッシリヤが滅ぼし「火に投げ込んだ」のは、この偽の神=偶像です。
ヒゼキヤの祈りの目的は、すべての国々に、主の御名があがめられることです。この当時、異国では、異教の神々があがめられていました。神の力でイスラエルが救われれば、彼の目的は達成されるのです。
「あなたが、アッシリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったことをわたしは聞いた。(37:21)」。神、主は、「信仰の人」の祈りには必ず応えてくださいます。主は、ヒゼキヤの祈りに対して、イザヤを通して答えます。「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。『彼はこの町に侵入しない。またこの町に矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いて、これを攻めることもない。(37:33)』「彼はもと来た道を引き返し、この町に入らない。――主の御告げ――わたしは、この町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべ、ダビデのために(37:35)」」。
「主のみ使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、18万5千人を撃ち殺した。人びとが翌朝早く起きてみると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは、立ち去り、帰ってニネベに住んだ(37:36~37)」。セナケリブは自分の神ニスロクの宮の前で拝んでいるとき2人の息子に殺されます。自分の神の前で殺されるとは皮肉なことです。
平成5年7月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会
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