★☆・女の勲章 山崎豊子作(上)(下)
登場人物
大庭式子
聖和服飾学院の院長、有名なデザイナー
大阪の老舗の集まる船場のラシャ問屋の長女として生まれる。典型的なお嬢さん育ち。戦災で若くして両親を失う。残された財産を叔父に売り渡し自らを船場の持つ重苦しい暗い雰囲気と、両親の和物へのこだわりから解放する。「私は煩わしい、仕来たりや因習にとらわれない近代的な世界に憧れているのよ」と、云い、神戸・魚崎に生徒数100人近い、こじんまりとした洋裁学校を立ち上げ、そこの院長に収まる。その後、八代銀四郎という野心家の協力を得て、大阪に本校を置き、京都と甲子園に2つのチェーンスクールを持つ生徒数2500人を超える京阪神第一位の聖和服飾学院を足掛け4年という短期間で作り上げる。そこには銀四郎の協力はもとより、3人の美人講師、津川倫子、坪内かつ美、大木富江の協力があったことを付記せねばならない。ここに至る過程は、式子にとっては汚辱と、虚栄に満ちたものであった。銀四郎と関係を持ち、心ならずもその関係を続けていく。船場育ちという誇りと自尊心は事業の拡大に幻惑されて、失われつつあった。女ばかりのデザイナー界に身を置き、ねちねちとして、嫉妬と欲望の渦巻く、えげつの無い世界に染まっていく。銀四郎と関係を持ちながらも式子は本当の愛を求めていた。そんなとき式子の前に現れたのが、白石教授であった。
八代銀四郎
八代商店の4男坊。大阪弁を流ちょうにこなす人もうらやむほどの美男子。終戦直後に国立S大学文学部仏文科を、大学に残れとまで言われた優秀な成績で卒業する。一流企業に勤めるが、退職。一時家業の男ものの服地問屋の卸を手伝う。取引先の聖和服飾学院に出入りするうちに、大庭式子院長の頼みにより、フランスモード雑誌の翻訳や、生徒のフランス語教育に、務めるうちに、次第に聖和服飾学院の職員のような存在になり、その経営手腕を発揮する。
彼は洋裁学院を単なる洋裁教育機関と考えず、一つの企業、洋裁企業として割り切り、やりようによっては洋裁学校ほど利益率の良い企業は無いと、いう哲学のもと、聖和服飾学院の規模拡大に努め、自分の哲学を立証すると同時に自分の野心の実現をも図る。その為には手段を選ばない。津川倫子、坪田かつ美、大木富枝という聖和服飾学院の講師美人3人娘の虚栄心に満ちた欲望や野心に形を与えるため、それぞれに新設された分校の院長職を与える。その代償として3人の身体と、その働きを我が物とする。それだけでなく、院長の大庭式子にまで手を出し、事実上の経営者となる。船場育ちのお嬢さん院長大庭式子に代わって、卓越した経営手腕を発揮し、場末の小さな洋裁学校を、4年という短期間に、4つの分校を持つ阪神一の洋裁学院にまで、のしあげる。虚栄と虚飾、打算と欲望が渦巻くデザイナー界を巧みに泳ぎ回り、自身の野望の達成に腐心する。その見境のない、嫌らしさ、えげつなさは目を覆うばかりである。最初は自分を嫌う3人娘を、関係を持つことによって籠絡し、自己の野心達成のため利用する。
津川倫子
聖和服飾学院の講師・美人3人娘の一人。3人の中では最年長。彫りの深い、端麗な顔を持つ。洋裁学校卒業時にその才能を買われて講師になる。デザイナー志望の野心家。一人暮らしをしているが、野本啓太という恋人を持つ。彼は聖和服飾学院の取引先・三和織物の社員であり、その取引を通じて恋人になるが、次第にその付き合いが煩わしくなる。そこには銀四郎の存在があった。銀四郎は、聖和服飾学院の大阪本校を建設し、その院長に式子を選ぶが、東京支店となった、従来からの聖和服飾学院甲子園分校の院長に倫子を推薦する。そこには銀四郎との取引があり、その代償に身体を提供し、その後の協力を要請される。野本啓太と所帯を持てば家庭的な幸せは保証されるが、そんな平凡な家庭人になることを拒否しデザイナーとして自立することを夢見、銀四郎との関係を隠して野本啓太との関係は維持する。仕事の上で三和織物との関係を維持するためには、野本啓太との付き合いは必要不可欠であった。ファションショーや学校建設のための協賛金を得るためには、野本啓太を三和織物の窓口にする必要があった。利用するための付き合いであると分かっていながら、野本啓太は、黙って倫子に協力する。その啓太の心を推し量り、心の痛みを感じるが、自分の野心を達成するためには、銀四郎の助けを必要とする。銀四郎と組んで経理をごまかしたりする。式子はそんな倫子を裏切り行為を警戒する。利に聡い典型的な現代娘である。愛(野本啓介)か出世(有名デザイナー)かを両天秤にかけ、虚飾の世界を生き抜く。何時か式子を追い抜く夢を持つ。
野本啓太
三和織物の社員。母親と2人暮らし。武骨で頑丈な男性。野暮くさい田舎者、営業マンにもかかわらず無口で応対下手。倫子が仕事の関係で訪れた時、常に応対に出る。無愛想だが心の温かさを持つ親切な男。そんな素朴さに魅かれ倫子は好意を持つ。いつしか恋人となり。月に何回か倫子の住まいを訪れる。彼女との結婚を夢見る。しかし、倫子との関係は次第に疎遠となる。結婚に対する熱意は異常で、彼とのつきあいに倫子は次第に煩わしさを感ずるようになる。更に倫子と銀四郎の関係がそれに拍車をかける。銀四郎は三和織物との関係を重視しているので、適当に相手をするよう倫子に求める。何回か開催されるファションショーや新学院建設への協賛金を得るための三和織物の窓口として利用される。それ故、利用するときのみ付き合いをする倫子の不実を感じながらも、それに文句も言わず、上司に取り次ぐ。馬鹿と名がつくほどの誠実な男。勿論その協力の裏には倫子との結婚という希望があったが、結婚をあきらめた段階でも、倫子に協力する。この作品の良心として現れる。
坪田かつ美
聖和服飾学院の講師・美人3人娘の一人。厳格な銀行員を父に持つ。中学生の妹の3人暮らし。母親は若くして死亡。赤顔に紅い縁取りの眼鏡をかけた美人。デザイナー志望。仕事はビジネスライクにてきぱきとこなす、優秀な講師。それ故、生徒の受けは良い。最初は嫌っていた銀四郎と関係を持ち、その代償として聖和服飾学院京都分院の校長となる。銀四郎との結婚を夢見る、純な心も持つ。銀四郎はそんなかつ美を上手く利用する。銀四郎は結婚と、分校の責任者という2つの餌を通じて、かつ美を利用し、自分の野心を遂げようとする。かつ美はそれに乗せられる。
木下富枝
聖和服飾学院美人講師3人娘の一人。袋物屋の娘。古き船場の生活に憧れを抱き、それからの脱却を図る式子には批判的。古風な面を持つ。
富士額が美しく、色の白い、ぽッちりとした顔に、小さな受け口が可愛く、印象的。もどかしいほど、ねそっとしているが、仕事は完ぺきにこなす。大阪弁を使う。授業で大阪弁はまずいと注意されても一向に気を使わない。何を考えているか分からない油断のならない面を持つ。デザイン感覚には難があるが、縫製技術には定評がある。それ故、縫製工場を持ちたいと云う夢を持ち、倫子、かつ美が銀四郎と関係を持ち、聖和服飾学院の甲子園分校、京都分校を手に入れたのを見て、次は自分の番だと確信する。銀四郎に身体を任せ、縫製工場を作らせ、我が物とする。それはジャン・ランベールの型紙を縫製仕上げして、日本デザイナー界に紹介したいと云う式子側の要求とも一致していた。式子も自前の縫製工場を求めていた。両者の利害が一致する。富枝はちゃっかりと、それに乗じたのである。
富枝には、名声とか人気とかという当てにならない虚名には一切興味は無く、実利を求める堅実さがあり、その点では、倫子、かつ美とは異なっていた。いつも陰の存在であり、大人しく、目立たず、表面に出ることは無く、会話では聞き役に回っていたが、それでいて裏も表も知り尽くす洞察力を持っていた。しかし、それを他人に気づかせない処世術にも長けていた。その為、式子も、倫子も、かつ美も彼女に対しては油断があった。銀四郎と3人の関係を探り出す。それぞれは、それぞれ銀四郎との関係は自分だけと信じていたが実際には四分の一だったのである。それを式子にバラすと銀四郎を脅かす。
きよ
大場家の古くからの家付の女中。両親の死後も式子の面倒をみる。
大原泰三
洋裁学校連盟理事長、大原ドレスメーカー学院の経営者。大原京子の夫。
大原京子
大原泰三氏夫人。大原ドレスメーカー学院の院長。服飾界に大原閥を作り権勢をふるう。
井上民子
創備服装学園園長。大原京子の弟子。
安田兼子
双葉洋裁学院院長、この道25年のベテラン。大原京子の弟子。
伊藤歌子
式子の理解者、妻子持ちの彼氏を持つ。大原閥に敵意を持つ。後に晴れて妻子と別れた彼氏と結婚する。
曽根英雄
八代銀四郎と共に白石教授の教え子B新聞社の文化部の記者。この小説の良心として現れる。
白石教授
国立S大学文学部仏文学科の教授、八代銀四郎、曽根英雄は弟子。聖和服飾学院の理事。
園田 パリ駐在員。
三和織物パリ駐在員 ジャン・ランベールの型紙購入に式子に協力する。
梗 概
何とも、まあぁ救いの無い作品である事よ。勧善懲悪であれとはいわないが、もう少し何とかならないのかと思ってしまう。悪が栄え、善が滅びる、それこそ典型的な小説である。それが現実というものであろうか?善が勝ってほしいという期待は見事に裏切られる。
国立の有名大学仏文科を優秀な成績で卒業した八代銀四郎という男性が副主人公である、いや主人公といっても良いかもしれない。大学に残れとまで言われながらも、それを蹴って大庭式子が院長を務める聖和服飾学院に入り込み、式子のマネージャーとして活躍し、女の持つ打算と虚栄心に付け入り聖和服飾学院を、場末の小さな洋裁学校から、阪神一の洋裁学院にまでに仕たて上げる。八代銀四郎は現代の英雄といっても良いかもしれない。その嫌らしさ、えげつなさは目を覆うばかりである。院長である式子、教師である倫子、かつみ、富枝の三人と肉体関係を持ち、自分の野心を遂げようとする。女たちも彼との関係を通じて自分の野心を遂げようとする。相身互いである。式子自身そんな自分を恐れ、銀四郎の影響から離れようと試みながらも、銀四郎の若い肉体、その卓越した商才、銀四郎のもたらす華やかな名声と贅沢な生活、全てが女の現実的な虚栄と欲望に繋がっていた。そんな彼の力に式子は引きずられていく、心の弱さを持っていた。それ故、栄光には歓喜する。そして頂点へと上り詰める。一方でそんな自分が虚しい。彼女は本当の愛を求めていた。銀四郎との関係は単に肉欲と打算の産物に過ぎなかった。そこには愛は無かった。そんなとき彼女の前に現れたのが、国立S大学仏文科の白石教授であった。教え子の銀四郎の紹介で聖和服飾学院の理事となる。そんなところから式子との関係が生まれる。
作者は、デザイナー界という女だけの、嫉妬と、虚栄、打算と欲望に満ち溢れた世界を見せつけ、その栄光と虚構を描く。しかし、その栄光の陰には破滅があった。
この作品の良心として作者は、曽根英雄と白石教授を、銀四郎たちの世界の対極に置く。しかし、あまりに弱弱しい。銀四郎と彼を取り巻く女達の欲望と野心の前には何もなしえなかった。
曽根英雄、銀四郎と大学同期。白石教授のもとで共に学ぶ。B新聞社の文化部の記者。式子に好意を寄せ、銀四郎との付き合いに疑問をもち、あくどく稼ぐ銀四郎に対しても批判的である。そして言う『デザイナーというのは何処までも純粋に一つの新しい服飾造形、デザインを創造していく人ではないのですか?パリのデザイナーたちは、そうした服飾デザイナーとしての立場がはっきりしていますね。だから大きな洋裁学校や沢山の弟子を擁していなくても、いいデザインを作りだす人は立派なデザイナーとして遇せられていますね』と式子と銀四郎の拡張主義を批判する。デザイナーとしての本来の姿に返れと示唆する。
白石教授、どこか寂しげで陰のある人物。その姿は、どこか人を寄せ付けない冷たい孤独があった。悲しい過去の存在を連想させた。デザイナー界には存在しない、真摯に人生に向き合う静謐な姿がそこにはあった。式子は、そんな教授の姿に魅かれて恋をする。彼の過去には妻の情死という悲しい物語があった。学問に熱中するあまり、妻の存在を忘れたところに原因があった。妻は自分の教え子と関係を持ち、それを苦にして、その学生と志摩半島の波切りの岬で海に身を投げて情死した。彼は学問を愛すると同じくらいの情熱で妻を愛していた。しかし、形を伴わない愛は、愛では無かった。一つの抱擁、一つ優しい、いたわりがあったら、妻を情死に追いやらなかったに違いない。そんな無残な過去が彼を孤独に陥れていた。裏切りの無い学問の世界に没頭していった。彼の心の扉は固く閉ざされていた。しかし、そんな人を寄せ付けない冷やかな厳しさの中にも式子に対しては静かな、じっと見つめる眼差しがあった。妻の情死に接して、彼は人生とは何か、愛とは何かを真剣に問うた結果、式子の愛を受け入れようとしていた。そして式子の教授への真摯な愛が徐々に彼のかたくなな心の扉を開いていった。静かな、見詰める愛から、きつく抱きしめる愛を想うようになっていた。
式子はフランスの世界的に有名なデザイナー・ジャン・ランベールのコレクション(作品の発表会)に参加した後、彼の制作した型紙のセレクトと、購入のためにパリへと旅立つ準備をしていた。
ジャン・ランベールのデザインは、今までのデザイナーでは考えられなかった立体的製図と裁断を基礎にして、複雑な巧緻な縫製によって仕上げられていた。そのデザインの型紙を買い、それを日本で組み立て縫製して、完成されたパリ・モードを日本に紹介しようと式子は考えていたのである。
一方白石教授もパリで開催される、国際仏文学会に出席し、その後一カ月程、ヨーロッパを巡り帰国するという。そんな情報を曽根英雄から式子は得ていた。既に教授は、日本を発ったと云う。
式子はパリで白石教授に出会える喜びに身を震わせる。と同時に銀四郎との汚辱に満ちた関係を思い、それが白石教授の知ることになることの恐れで身を震わせる。「教授はわたしを許してくれるだろうか?」。彼女は苦悩する。
ランベールの型紙を縫製し、紹介するファションショーを終えた段階で、式子は銀四郎との仲を清算し、白石教授との結婚を夢見ていた。
彼女はパリに旅立つ。式子は一国一業者販売、二重売りはしない、という、ジャン・ランベール側の条件のもと、日東貿易という商社と競合関係に立つ。式子は溺れる者は藁をも掴むの心境で全く畑違いの白石教授の助けを求める。教授は何らかの考えがあるらしく、快く引き受ける。
日東貿易は、所詮、商社に過ぎない購買に成功しても、どこかの織物会社を相手にしなければならない。ジャン・ランベールは芸術家であって、商売人ではない。「買い入れ側はジャン・ランベールの指示する方法と水準の縫製をしなければならない」と義務付けている。高く買えばよいと云うものではない。その点では、式子の経営する聖和服飾学院には優秀なスタッフと、高度な技術がある。白石教授は、知人であり、ジャン・ランベールの知人でもあるデザイン画(フランス人)の専門家を通じて、ジャン・ランベールと交渉する。
ジャン・ランベールの主催するコレクション(作品の発表会)が終わった段階で、式子はジャン・ランベール本人に呼ばれる。式子は日東貿易を退けて、型紙の購入に成功する。白石教授は、式子とそれを支えるスタッフの優秀性を保証し、信頼に足ることを強調したのである。それをジャン・ランベール側も認めた結果の契約の成立であった。そこには白石教授に対する尊敬と信頼性があった。ヨーロッパにおける大学教授という地位の高さと尊敬が、信頼性となって実現したのである。そこには大学教授の持つ権威があった。そんな事実が、式子が教授を敬い、愛する心をいっそう深めたのである。
コレクションの後、白石教授と式子は食事をし、共に、喜びを分かち合った。
しかし白石教授は式子を無視して、イギリスへ旅立っていく。2ヶ月後の3月にはパリにもどるという便りが届く。式子は教授の帰国の日を待つことにする。式子にはジャン・ランベールの型紙の購入が成功した今、パリに残っている理由は無かった。予定の3月になっても白石教授は戻ってこなかった。何をしても落ち着くことは出来なかった。式子は不安と焦燥の中で、自分を失いそうになっていた。式子は白石教授の愛が欲しかった。それは生れてはじめて人を愛した式子の魂を揺さぶる感情であった。静かな深い愛情よりも、激しく抱きしめる愛情が欲しかった。そんな中電話がかかり白石教授の帰国が知らされた。待ちわびた電話であり、喜びを全身にみなぎらせて応対したが,白石教授はあくまでも冷たいぐらいに冷静であり、モンマルト近辺を散策しようと式子を誘った。
その後、白石教授はまたもや式子を無視してポルトガルの首府リスボンに旅立っていった。式子はそれを追う。それ以前に式子は銀四郎からの帰国要請の手紙を受け取っていた。いつまでたっても帰国しない式子にイラついての結果であった。式子はそれを無視して旅に出る。もっとも会いたくない男からの帰国要請だった。打算と欲望、虚栄と虚飾の渦巻く銀四郎を取り巻く世界には式子は戻りたくなかった。そこには穢れなき純粋な心をもった男性=白石教授を求める気持ちがあった。
リスボンにおいて初めて式子は白石教授と結ばれる。愛する人による愛撫が、このように優しく深いものであるかと愕かされる。それは銀四郎の技巧に満ちた激しい愛撫とは比較にならぬほど、静かで優しいものだった。白石教授は激しい心の葛藤を耐えるためにリスボンの片田舎に逃れてきたのであるが、その葛藤から解放された、今、ほとばしるような熱情をもって式子の身体を求めた。式子はその愛をしっかりと、全身で受け止め白石教授の幅広い胸に熱く唇を押しつけた。式子は幸せだった。しかし不安であった。銀四郎の事が頭から消えなかった。許しを請い清算しなければならなかった。白石教授と結ばれた直後に、式子は自分の汚れを告白しようとしたが、それを聞くのを教授は拒否する。得体の知れない不安と恐れが彼を包んでいた。それを聞いた時、白石教授は彼女を許してくれるであろうか?銀四郎は金づるである彼女と別れてくれるであろうか?白石教授は、自分の責任で妻を情死に追い込んだことを反省しながらも、不倫を犯した妻の汚れを許してはいなかった。そんな汚れを許さない潔癖な彼を見つめて、式子は恐れおののいた。彼は、式子の心と、体の、汚れ無き純潔を信じていた。それ故、その後、白石教授と銀四郎が対決する、その時まで、その汚れを告白することが出来ずにいた。式子は白石教授を失いたくなかったのである。
二人はその後、ポルトガルの西海岸沿いの、田舎町を10日間かけて歩き、その旅情を楽しみ、今、リスボンの街に帰りつき、その旅の思い出に浸っていた。2人は幸せの絶頂にあった。しかし、この幸せを最後にし、不幸のどん底に堕ちていくことを神ならぬ身、知る由もなかった。
銀四郎は自分の帰国要請を無視し、いつまでも帰国しない式子に苛立ち、パリを訪れていた。式子と白石教授がポルトガルへ出国したことを知り、パリ・オリオール北空港でポルトガルへの出国便を待つ間に、ポルトガルからのパリへの戻り便に2人の姿を認めたのである。
白石教授と銀四郎は対決する。自分の「女」を奪った白石教授を銀四郎は嫉妬と憎しみを込めて面罵する。白石教授は、この時、始めて式子が銀四郎の「女」であったことを知って驚愕する。式子は泣いて謝罪する。白石教授はそれを無視し、黙ってその場を立ち去っていく。『行かないで!先生』式子は叫ぶように云い。身体を翻した。白石教授は式子の方を振り向き、怒りとも恥辱とも、憐れみともつかぬ苦渋に満ちた視線で、真正面から式子の顔を見据えると、そのまま扉を押した。しかし、その後ろ姿の冷たさと、孤独に満ちた姿には近寄りがたい厳しさがあり、式子は立ち止り、茫然とそれを見送った。
白石教授は苦悩する。式子の持つ汚れを絶対に許せぬ潔癖さがある反面、深く彼女を愛している自分を感じて煩悶する。式子の苦悩を感じて、許せる気持ちになる。愛は強かった。
一方式子はポルトガルでの10日間の静謐な白石教授との結び付を思い、もはや教授なしには生きられない自分を感じていた。跪いて許しを請い救われる以外ないと思った。
銀四郎と式子の二人は日本へと向かう。白石教授も同じ時期に日本へと出国する。
羽田空港では新聞記者、モード雑誌の記者たちが集まって、式子たちの帰国を待ちわびていた。ジャン・ランベールの型紙購入の成功の報告と感想を聞こうと犇めいていた。帰国報告の後、式子は宿泊先の日活ホテルに到着する。その場で成城にある白石教授に電話し面会を求めるが優しく拒否され、後日ということになる。
式子にはジャン・ランベールの型紙の縫製と、その発表という仕事が控えていた。銀四郎は教授と会うのはランベール・ショウが終わるまで待てという。仲を清算したいと云う式子の願いは「あなたは僕の財産だから簡単には承諾できない」と拒否する。二人は大阪本校に戻る。
学会の仕事で白石教授が京都に来るという情報を式子は曽根から聞く。
式子は白石教授と京都で会い、話をする。白石教授は煩悶の結果、式子の苦しみを知って式子の汚れを許せるようになったという。それはあくまでも愛の力であった。しかし、銀四郎との仲を清算しない限り、二人の結婚は無いという。そして、あなただけに解決を背負わせるのは心苦しいので、自分も銀四郎と会いたいと云う。そして優しく式子の手を握り別れていった。
そして再度、銀四郎との対決の日が来る。
式子は両親の残した魚崎の家と、聖和服飾学院の甲子園校だけ残して、銀四郎の手腕によって得たものは一切銀四郎に与え、望むなら、倫子、かつ美、富枝にも銀四郎に代わって慰謝料を支払い、彼女たちを幸せにすることを考えていた。
ジャン・ランベールの30体に及ぶ型紙を縫製仕上げして、それをファションショウとして発表する舞台は成功裏に終わる。一日目はフロアーショウであり、新聞記者、モード雑誌の記者、服飾関係者等々を集めた内輪のものであった。白石教授も招かれ熱心に鑑賞していた。
式子と銀四郎は白石教授の待つ特別室を訪れる。
3度目の対決である。
白石教授は云う「--------式子さんを私の生活の中に向かい入れようと思うのだが」
銀四郎は応じる「つまり、はっきりと結婚しはるという訳ですか?」
白石教授はうなずく。
式子は、甲子園校を残してすべての学校を銀四郎に与え、彼との仲を清算しようとする。しかし、銀四郎はそれを拒否する。「担保に入ったり、債務を負った学校ばかりもろうても、仕様がおまへんわ」「--------、大阪本校には2千万円の学校債権の債務、京都校はビルの持ち主と提携して、信用保証協会の保証でビル内の教室面積と器具設備を担保に入れて、東京の池袋の校地買い入れの資金に当て、池袋の土地は鉄筋コンクリート5階建て、星形校舎の資金繰りに、これも抵当に入ってますさかい、あんたが今、僕にくれはるつもりのものは、全て債務を負うた担保物件ばかりで、清算勘定にはなりまへんわ」とうそぶく。「私に無断で、あなたが勝手に借りた負債は、私から学校の経営を引き継いだ後、あなたの責任で返済していくことだわ」式子は怒りを込めて反論する。「ところが学校法人・聖和服飾学院長大庭式子の名義で借りている負債でっさかい、あんたは法律上の返済義務があるわけだす、従ってあと3年間、院長として働いて、学校の負債を片付けてから僕に進呈してくれはるか、それがお嫌なら、至急、白石教授と返済方法をご協議いただくことですな」「--------、式子さんは、今や僕のかけがいのない財産でっさかい勘定の合う清算をしてもらわん限りは、綺麗に引っ込めまへんから、先生もそのおつもりで、考えおきをしておくれやす」とうそぶく。白石教授は怒りを込めて銀四郎に「出ていけ」と叫ぶ。銀四郎は薄笑いを浮かべて出ていく。デザイナーとしては優秀であっても、経営に関しては素人でありすべてを銀四郎の経営手段に任せていたところに式子の誤算があった。銀四郎との仲を清算し、白石教授との新生活を営むという夢は無残にも覆され、銀四郎の企んだ罠からは逃れられない自分を式子は感じた。
「諦めよう!」白石教授は式子に云う。そして二人の会話を聞いて、二人は所詮、同じ汚れた世界に住む人間であると感じたという。そうしてそういう汚れた世界は自分とは無縁の存在だと、云い放つ。そこには妻の情死に会い、その妻の汚れを許せない潔癖さがあると同時に自分の静謐な学問の世界を犯そうとするものに対する恐れと冷たさがあった。それは彼一流のエゴイズムであった。その愛は、あくまでも限られた枠内のものであって、もはや式子は、その枠外の存在であった。
それを知って式子は絶望する。白石教授はもはや自分のもとには帰ってはこない。求めていた生きがいを失った式子は、過酷な現実から逃れて一人になりたかった。彼女は大阪に向かう。頭の片隅にジャン・ランベールショウの事が通り過ぎた。ドタキャンすることの恐れはあったが、自分がいなくとも、倫子がおり、かつ美がおり、富枝がいる。彼女たちは協力して自分の代わりを務めてくれるであろう。彼女たちは立派に育っていた。
式子は、甲子園校に入り、マネキン人形と向き合う。そこには、高価な衣装をまとい、気取った帽子をかぶり、胸に勲章のようなネックレスをつけた華やかな姿があった。式子は紙に自分の似顔絵を描き、マネキンの顔に貼りつけた。それは虚栄と虚飾、欲望と虚名を追い求めた自分の醜い姿を象徴していた。式子は裁ち鋏を振り上げ、マネキンに突き刺した。ずたずたに切り裂いた。それは汚辱と、虚栄に満ちた自分との決別であった。
そしてその鋏を、何のためらいもなく、自分の喉に突き刺した。鮮血が飛び散り、式子は床に倒れた。
それはジャン・ランベールショウの始まる直前であった。式子自殺の知らせを大阪の富枝から受けた銀四郎と倫子は激しい衝撃を受けたものの、その衝撃を跳ね返し、ジャン・ランベールショウを成功裏に終了させねばならなかった。倫子にはそんな図太さがあった。式子は「病気」と云うことにし、その代わりを倫子が務め、無事、かつ盛大にショウは終了する。
銀四郎はショウの終了後ただちに大阪に向かい、式子の死体と対面する。その死体は静かで穏やかであった。苦しみの表情は無かった。病院で息を引き取ったので、事件性は無いとみなされ、死体は聖和服飾学院に引き取られた。ジャン・ランベールショウが成功裏に終わった後の記者会見ではそのことが問題になる。銀四郎は例の処世術で難なく切り抜ける。
聖和服飾学院を取り巻く環境は式子がいなくなっただけで何も変わらなかった。式子の残した聖和服飾学院は、その経営は銀四郎が引き継ぎ、式子の代わりに倫子が院長になった。聖和服飾学院は、銀四郎が倫子を操り今後もますます発展していくであろう。
富枝は云う「「-----(式子先生)が一番損をしはったわ、先生の後を狙いつづけていた倫子さんが一番得をし、かつ美さんも今より以上の地位が約束され、私は私名義の縫製工場がちゃんと自分のものになっていて、それぞれ自分なりの得をしてるわ。先生だけが、やっぱり良家の嬢(いと)はんらしく、鷹揚な抜け方で、一番損をしはったわ」
銀四郎は云う「おれは大庭式子の欲しがった虚栄を与え、胸に勲章を飾り立ててやるように名声と富を築いてやったのだ。いわば俺は女の勲章を製造し、それを女の胸にぶら下げさせて、おれの商売にしてきただけのことだ、大庭式子は、自分の勲章が気に入らなくなったからといって、なにも死ぬほどのこともないのだ。気に入らなければ勲章を取り換えさえすればよいのだ--------」と。要するに相身互いであって、お互いに利用し合って富を築きあげて来たことの何が悪いのかと云う。俺には責任は無いという。それが女だけの、虚飾と虚栄に満ちた世界を渡り歩く処世術なのだという。白石教授のことも所詮は世界の違う人間同士の付き合い、もともと結ばれない運命だったのだという。
この作品は嫉妬と欲望、虚栄と虚飾に満ちたデザイナー界に一人の野心家・八代銀四郎という男が介入し、女たちの欲望に乗じて、その体を我が物にし、その女たちに確実な形を与え、その代償として自らの野心を達成していく、出世物語であると同時に、若い男の身体と、その男のもたらす富への誘惑に引きずられていく、弱い女・大庭式子の繁栄と破滅の物語でもある。
時代は昭和30年代。まさに高度経済成長が始まらんとしていた時期である。時流にも乗って聖和服飾学院はその成長を遂げたのである。
いずれにしても後味の悪い作品である。
山崎豊子作「女の勲章」(上)(下)新潮文庫 新潮社刊
登場人物
大庭式子
聖和服飾学院の院長、有名なデザイナー
大阪の老舗の集まる船場のラシャ問屋の長女として生まれる。典型的なお嬢さん育ち。戦災で若くして両親を失う。残された財産を叔父に売り渡し自らを船場の持つ重苦しい暗い雰囲気と、両親の和物へのこだわりから解放する。「私は煩わしい、仕来たりや因習にとらわれない近代的な世界に憧れているのよ」と、云い、神戸・魚崎に生徒数100人近い、こじんまりとした洋裁学校を立ち上げ、そこの院長に収まる。その後、八代銀四郎という野心家の協力を得て、大阪に本校を置き、京都と甲子園に2つのチェーンスクールを持つ生徒数2500人を超える京阪神第一位の聖和服飾学院を足掛け4年という短期間で作り上げる。そこには銀四郎の協力はもとより、3人の美人講師、津川倫子、坪内かつ美、大木富江の協力があったことを付記せねばならない。ここに至る過程は、式子にとっては汚辱と、虚栄に満ちたものであった。銀四郎と関係を持ち、心ならずもその関係を続けていく。船場育ちという誇りと自尊心は事業の拡大に幻惑されて、失われつつあった。女ばかりのデザイナー界に身を置き、ねちねちとして、嫉妬と欲望の渦巻く、えげつの無い世界に染まっていく。銀四郎と関係を持ちながらも式子は本当の愛を求めていた。そんなとき式子の前に現れたのが、白石教授であった。
八代銀四郎
八代商店の4男坊。大阪弁を流ちょうにこなす人もうらやむほどの美男子。終戦直後に国立S大学文学部仏文科を、大学に残れとまで言われた優秀な成績で卒業する。一流企業に勤めるが、退職。一時家業の男ものの服地問屋の卸を手伝う。取引先の聖和服飾学院に出入りするうちに、大庭式子院長の頼みにより、フランスモード雑誌の翻訳や、生徒のフランス語教育に、務めるうちに、次第に聖和服飾学院の職員のような存在になり、その経営手腕を発揮する。
彼は洋裁学院を単なる洋裁教育機関と考えず、一つの企業、洋裁企業として割り切り、やりようによっては洋裁学校ほど利益率の良い企業は無いと、いう哲学のもと、聖和服飾学院の規模拡大に努め、自分の哲学を立証すると同時に自分の野心の実現をも図る。その為には手段を選ばない。津川倫子、坪田かつ美、大木富枝という聖和服飾学院の講師美人3人娘の虚栄心に満ちた欲望や野心に形を与えるため、それぞれに新設された分校の院長職を与える。その代償として3人の身体と、その働きを我が物とする。それだけでなく、院長の大庭式子にまで手を出し、事実上の経営者となる。船場育ちのお嬢さん院長大庭式子に代わって、卓越した経営手腕を発揮し、場末の小さな洋裁学校を、4年という短期間に、4つの分校を持つ阪神一の洋裁学院にまで、のしあげる。虚栄と虚飾、打算と欲望が渦巻くデザイナー界を巧みに泳ぎ回り、自身の野望の達成に腐心する。その見境のない、嫌らしさ、えげつなさは目を覆うばかりである。最初は自分を嫌う3人娘を、関係を持つことによって籠絡し、自己の野心達成のため利用する。
津川倫子
聖和服飾学院の講師・美人3人娘の一人。3人の中では最年長。彫りの深い、端麗な顔を持つ。洋裁学校卒業時にその才能を買われて講師になる。デザイナー志望の野心家。一人暮らしをしているが、野本啓太という恋人を持つ。彼は聖和服飾学院の取引先・三和織物の社員であり、その取引を通じて恋人になるが、次第にその付き合いが煩わしくなる。そこには銀四郎の存在があった。銀四郎は、聖和服飾学院の大阪本校を建設し、その院長に式子を選ぶが、東京支店となった、従来からの聖和服飾学院甲子園分校の院長に倫子を推薦する。そこには銀四郎との取引があり、その代償に身体を提供し、その後の協力を要請される。野本啓太と所帯を持てば家庭的な幸せは保証されるが、そんな平凡な家庭人になることを拒否しデザイナーとして自立することを夢見、銀四郎との関係を隠して野本啓太との関係は維持する。仕事の上で三和織物との関係を維持するためには、野本啓太との付き合いは必要不可欠であった。ファションショーや学校建設のための協賛金を得るためには、野本啓太を三和織物の窓口にする必要があった。利用するための付き合いであると分かっていながら、野本啓太は、黙って倫子に協力する。その啓太の心を推し量り、心の痛みを感じるが、自分の野心を達成するためには、銀四郎の助けを必要とする。銀四郎と組んで経理をごまかしたりする。式子はそんな倫子を裏切り行為を警戒する。利に聡い典型的な現代娘である。愛(野本啓介)か出世(有名デザイナー)かを両天秤にかけ、虚飾の世界を生き抜く。何時か式子を追い抜く夢を持つ。
野本啓太
三和織物の社員。母親と2人暮らし。武骨で頑丈な男性。野暮くさい田舎者、営業マンにもかかわらず無口で応対下手。倫子が仕事の関係で訪れた時、常に応対に出る。無愛想だが心の温かさを持つ親切な男。そんな素朴さに魅かれ倫子は好意を持つ。いつしか恋人となり。月に何回か倫子の住まいを訪れる。彼女との結婚を夢見る。しかし、倫子との関係は次第に疎遠となる。結婚に対する熱意は異常で、彼とのつきあいに倫子は次第に煩わしさを感ずるようになる。更に倫子と銀四郎の関係がそれに拍車をかける。銀四郎は三和織物との関係を重視しているので、適当に相手をするよう倫子に求める。何回か開催されるファションショーや新学院建設への協賛金を得るための三和織物の窓口として利用される。それ故、利用するときのみ付き合いをする倫子の不実を感じながらも、それに文句も言わず、上司に取り次ぐ。馬鹿と名がつくほどの誠実な男。勿論その協力の裏には倫子との結婚という希望があったが、結婚をあきらめた段階でも、倫子に協力する。この作品の良心として現れる。
坪田かつ美
聖和服飾学院の講師・美人3人娘の一人。厳格な銀行員を父に持つ。中学生の妹の3人暮らし。母親は若くして死亡。赤顔に紅い縁取りの眼鏡をかけた美人。デザイナー志望。仕事はビジネスライクにてきぱきとこなす、優秀な講師。それ故、生徒の受けは良い。最初は嫌っていた銀四郎と関係を持ち、その代償として聖和服飾学院京都分院の校長となる。銀四郎との結婚を夢見る、純な心も持つ。銀四郎はそんなかつ美を上手く利用する。銀四郎は結婚と、分校の責任者という2つの餌を通じて、かつ美を利用し、自分の野心を遂げようとする。かつ美はそれに乗せられる。
木下富枝
聖和服飾学院美人講師3人娘の一人。袋物屋の娘。古き船場の生活に憧れを抱き、それからの脱却を図る式子には批判的。古風な面を持つ。
富士額が美しく、色の白い、ぽッちりとした顔に、小さな受け口が可愛く、印象的。もどかしいほど、ねそっとしているが、仕事は完ぺきにこなす。大阪弁を使う。授業で大阪弁はまずいと注意されても一向に気を使わない。何を考えているか分からない油断のならない面を持つ。デザイン感覚には難があるが、縫製技術には定評がある。それ故、縫製工場を持ちたいと云う夢を持ち、倫子、かつ美が銀四郎と関係を持ち、聖和服飾学院の甲子園分校、京都分校を手に入れたのを見て、次は自分の番だと確信する。銀四郎に身体を任せ、縫製工場を作らせ、我が物とする。それはジャン・ランベールの型紙を縫製仕上げして、日本デザイナー界に紹介したいと云う式子側の要求とも一致していた。式子も自前の縫製工場を求めていた。両者の利害が一致する。富枝はちゃっかりと、それに乗じたのである。
富枝には、名声とか人気とかという当てにならない虚名には一切興味は無く、実利を求める堅実さがあり、その点では、倫子、かつ美とは異なっていた。いつも陰の存在であり、大人しく、目立たず、表面に出ることは無く、会話では聞き役に回っていたが、それでいて裏も表も知り尽くす洞察力を持っていた。しかし、それを他人に気づかせない処世術にも長けていた。その為、式子も、倫子も、かつ美も彼女に対しては油断があった。銀四郎と3人の関係を探り出す。それぞれは、それぞれ銀四郎との関係は自分だけと信じていたが実際には四分の一だったのである。それを式子にバラすと銀四郎を脅かす。
きよ
大場家の古くからの家付の女中。両親の死後も式子の面倒をみる。
大原泰三
洋裁学校連盟理事長、大原ドレスメーカー学院の経営者。大原京子の夫。
大原京子
大原泰三氏夫人。大原ドレスメーカー学院の院長。服飾界に大原閥を作り権勢をふるう。
井上民子
創備服装学園園長。大原京子の弟子。
安田兼子
双葉洋裁学院院長、この道25年のベテラン。大原京子の弟子。
伊藤歌子
式子の理解者、妻子持ちの彼氏を持つ。大原閥に敵意を持つ。後に晴れて妻子と別れた彼氏と結婚する。
曽根英雄
八代銀四郎と共に白石教授の教え子B新聞社の文化部の記者。この小説の良心として現れる。
白石教授
国立S大学文学部仏文学科の教授、八代銀四郎、曽根英雄は弟子。聖和服飾学院の理事。
園田 パリ駐在員。
三和織物パリ駐在員 ジャン・ランベールの型紙購入に式子に協力する。
梗 概
何とも、まあぁ救いの無い作品である事よ。勧善懲悪であれとはいわないが、もう少し何とかならないのかと思ってしまう。悪が栄え、善が滅びる、それこそ典型的な小説である。それが現実というものであろうか?善が勝ってほしいという期待は見事に裏切られる。
国立の有名大学仏文科を優秀な成績で卒業した八代銀四郎という男性が副主人公である、いや主人公といっても良いかもしれない。大学に残れとまで言われながらも、それを蹴って大庭式子が院長を務める聖和服飾学院に入り込み、式子のマネージャーとして活躍し、女の持つ打算と虚栄心に付け入り聖和服飾学院を、場末の小さな洋裁学校から、阪神一の洋裁学院にまでに仕たて上げる。八代銀四郎は現代の英雄といっても良いかもしれない。その嫌らしさ、えげつなさは目を覆うばかりである。院長である式子、教師である倫子、かつみ、富枝の三人と肉体関係を持ち、自分の野心を遂げようとする。女たちも彼との関係を通じて自分の野心を遂げようとする。相身互いである。式子自身そんな自分を恐れ、銀四郎の影響から離れようと試みながらも、銀四郎の若い肉体、その卓越した商才、銀四郎のもたらす華やかな名声と贅沢な生活、全てが女の現実的な虚栄と欲望に繋がっていた。そんな彼の力に式子は引きずられていく、心の弱さを持っていた。それ故、栄光には歓喜する。そして頂点へと上り詰める。一方でそんな自分が虚しい。彼女は本当の愛を求めていた。銀四郎との関係は単に肉欲と打算の産物に過ぎなかった。そこには愛は無かった。そんなとき彼女の前に現れたのが、国立S大学仏文科の白石教授であった。教え子の銀四郎の紹介で聖和服飾学院の理事となる。そんなところから式子との関係が生まれる。
作者は、デザイナー界という女だけの、嫉妬と、虚栄、打算と欲望に満ち溢れた世界を見せつけ、その栄光と虚構を描く。しかし、その栄光の陰には破滅があった。
この作品の良心として作者は、曽根英雄と白石教授を、銀四郎たちの世界の対極に置く。しかし、あまりに弱弱しい。銀四郎と彼を取り巻く女達の欲望と野心の前には何もなしえなかった。
曽根英雄、銀四郎と大学同期。白石教授のもとで共に学ぶ。B新聞社の文化部の記者。式子に好意を寄せ、銀四郎との付き合いに疑問をもち、あくどく稼ぐ銀四郎に対しても批判的である。そして言う『デザイナーというのは何処までも純粋に一つの新しい服飾造形、デザインを創造していく人ではないのですか?パリのデザイナーたちは、そうした服飾デザイナーとしての立場がはっきりしていますね。だから大きな洋裁学校や沢山の弟子を擁していなくても、いいデザインを作りだす人は立派なデザイナーとして遇せられていますね』と式子と銀四郎の拡張主義を批判する。デザイナーとしての本来の姿に返れと示唆する。
白石教授、どこか寂しげで陰のある人物。その姿は、どこか人を寄せ付けない冷たい孤独があった。悲しい過去の存在を連想させた。デザイナー界には存在しない、真摯に人生に向き合う静謐な姿がそこにはあった。式子は、そんな教授の姿に魅かれて恋をする。彼の過去には妻の情死という悲しい物語があった。学問に熱中するあまり、妻の存在を忘れたところに原因があった。妻は自分の教え子と関係を持ち、それを苦にして、その学生と志摩半島の波切りの岬で海に身を投げて情死した。彼は学問を愛すると同じくらいの情熱で妻を愛していた。しかし、形を伴わない愛は、愛では無かった。一つの抱擁、一つ優しい、いたわりがあったら、妻を情死に追いやらなかったに違いない。そんな無残な過去が彼を孤独に陥れていた。裏切りの無い学問の世界に没頭していった。彼の心の扉は固く閉ざされていた。しかし、そんな人を寄せ付けない冷やかな厳しさの中にも式子に対しては静かな、じっと見つめる眼差しがあった。妻の情死に接して、彼は人生とは何か、愛とは何かを真剣に問うた結果、式子の愛を受け入れようとしていた。そして式子の教授への真摯な愛が徐々に彼のかたくなな心の扉を開いていった。静かな、見詰める愛から、きつく抱きしめる愛を想うようになっていた。
式子はフランスの世界的に有名なデザイナー・ジャン・ランベールのコレクション(作品の発表会)に参加した後、彼の制作した型紙のセレクトと、購入のためにパリへと旅立つ準備をしていた。
ジャン・ランベールのデザインは、今までのデザイナーでは考えられなかった立体的製図と裁断を基礎にして、複雑な巧緻な縫製によって仕上げられていた。そのデザインの型紙を買い、それを日本で組み立て縫製して、完成されたパリ・モードを日本に紹介しようと式子は考えていたのである。
一方白石教授もパリで開催される、国際仏文学会に出席し、その後一カ月程、ヨーロッパを巡り帰国するという。そんな情報を曽根英雄から式子は得ていた。既に教授は、日本を発ったと云う。
式子はパリで白石教授に出会える喜びに身を震わせる。と同時に銀四郎との汚辱に満ちた関係を思い、それが白石教授の知ることになることの恐れで身を震わせる。「教授はわたしを許してくれるだろうか?」。彼女は苦悩する。
ランベールの型紙を縫製し、紹介するファションショーを終えた段階で、式子は銀四郎との仲を清算し、白石教授との結婚を夢見ていた。
彼女はパリに旅立つ。式子は一国一業者販売、二重売りはしない、という、ジャン・ランベール側の条件のもと、日東貿易という商社と競合関係に立つ。式子は溺れる者は藁をも掴むの心境で全く畑違いの白石教授の助けを求める。教授は何らかの考えがあるらしく、快く引き受ける。
日東貿易は、所詮、商社に過ぎない購買に成功しても、どこかの織物会社を相手にしなければならない。ジャン・ランベールは芸術家であって、商売人ではない。「買い入れ側はジャン・ランベールの指示する方法と水準の縫製をしなければならない」と義務付けている。高く買えばよいと云うものではない。その点では、式子の経営する聖和服飾学院には優秀なスタッフと、高度な技術がある。白石教授は、知人であり、ジャン・ランベールの知人でもあるデザイン画(フランス人)の専門家を通じて、ジャン・ランベールと交渉する。
ジャン・ランベールの主催するコレクション(作品の発表会)が終わった段階で、式子はジャン・ランベール本人に呼ばれる。式子は日東貿易を退けて、型紙の購入に成功する。白石教授は、式子とそれを支えるスタッフの優秀性を保証し、信頼に足ることを強調したのである。それをジャン・ランベール側も認めた結果の契約の成立であった。そこには白石教授に対する尊敬と信頼性があった。ヨーロッパにおける大学教授という地位の高さと尊敬が、信頼性となって実現したのである。そこには大学教授の持つ権威があった。そんな事実が、式子が教授を敬い、愛する心をいっそう深めたのである。
コレクションの後、白石教授と式子は食事をし、共に、喜びを分かち合った。
しかし白石教授は式子を無視して、イギリスへ旅立っていく。2ヶ月後の3月にはパリにもどるという便りが届く。式子は教授の帰国の日を待つことにする。式子にはジャン・ランベールの型紙の購入が成功した今、パリに残っている理由は無かった。予定の3月になっても白石教授は戻ってこなかった。何をしても落ち着くことは出来なかった。式子は不安と焦燥の中で、自分を失いそうになっていた。式子は白石教授の愛が欲しかった。それは生れてはじめて人を愛した式子の魂を揺さぶる感情であった。静かな深い愛情よりも、激しく抱きしめる愛情が欲しかった。そんな中電話がかかり白石教授の帰国が知らされた。待ちわびた電話であり、喜びを全身にみなぎらせて応対したが,白石教授はあくまでも冷たいぐらいに冷静であり、モンマルト近辺を散策しようと式子を誘った。
その後、白石教授はまたもや式子を無視してポルトガルの首府リスボンに旅立っていった。式子はそれを追う。それ以前に式子は銀四郎からの帰国要請の手紙を受け取っていた。いつまでたっても帰国しない式子にイラついての結果であった。式子はそれを無視して旅に出る。もっとも会いたくない男からの帰国要請だった。打算と欲望、虚栄と虚飾の渦巻く銀四郎を取り巻く世界には式子は戻りたくなかった。そこには穢れなき純粋な心をもった男性=白石教授を求める気持ちがあった。
リスボンにおいて初めて式子は白石教授と結ばれる。愛する人による愛撫が、このように優しく深いものであるかと愕かされる。それは銀四郎の技巧に満ちた激しい愛撫とは比較にならぬほど、静かで優しいものだった。白石教授は激しい心の葛藤を耐えるためにリスボンの片田舎に逃れてきたのであるが、その葛藤から解放された、今、ほとばしるような熱情をもって式子の身体を求めた。式子はその愛をしっかりと、全身で受け止め白石教授の幅広い胸に熱く唇を押しつけた。式子は幸せだった。しかし不安であった。銀四郎の事が頭から消えなかった。許しを請い清算しなければならなかった。白石教授と結ばれた直後に、式子は自分の汚れを告白しようとしたが、それを聞くのを教授は拒否する。得体の知れない不安と恐れが彼を包んでいた。それを聞いた時、白石教授は彼女を許してくれるであろうか?銀四郎は金づるである彼女と別れてくれるであろうか?白石教授は、自分の責任で妻を情死に追い込んだことを反省しながらも、不倫を犯した妻の汚れを許してはいなかった。そんな汚れを許さない潔癖な彼を見つめて、式子は恐れおののいた。彼は、式子の心と、体の、汚れ無き純潔を信じていた。それ故、その後、白石教授と銀四郎が対決する、その時まで、その汚れを告白することが出来ずにいた。式子は白石教授を失いたくなかったのである。
二人はその後、ポルトガルの西海岸沿いの、田舎町を10日間かけて歩き、その旅情を楽しみ、今、リスボンの街に帰りつき、その旅の思い出に浸っていた。2人は幸せの絶頂にあった。しかし、この幸せを最後にし、不幸のどん底に堕ちていくことを神ならぬ身、知る由もなかった。
銀四郎は自分の帰国要請を無視し、いつまでも帰国しない式子に苛立ち、パリを訪れていた。式子と白石教授がポルトガルへ出国したことを知り、パリ・オリオール北空港でポルトガルへの出国便を待つ間に、ポルトガルからのパリへの戻り便に2人の姿を認めたのである。
白石教授と銀四郎は対決する。自分の「女」を奪った白石教授を銀四郎は嫉妬と憎しみを込めて面罵する。白石教授は、この時、始めて式子が銀四郎の「女」であったことを知って驚愕する。式子は泣いて謝罪する。白石教授はそれを無視し、黙ってその場を立ち去っていく。『行かないで!先生』式子は叫ぶように云い。身体を翻した。白石教授は式子の方を振り向き、怒りとも恥辱とも、憐れみともつかぬ苦渋に満ちた視線で、真正面から式子の顔を見据えると、そのまま扉を押した。しかし、その後ろ姿の冷たさと、孤独に満ちた姿には近寄りがたい厳しさがあり、式子は立ち止り、茫然とそれを見送った。
白石教授は苦悩する。式子の持つ汚れを絶対に許せぬ潔癖さがある反面、深く彼女を愛している自分を感じて煩悶する。式子の苦悩を感じて、許せる気持ちになる。愛は強かった。
一方式子はポルトガルでの10日間の静謐な白石教授との結び付を思い、もはや教授なしには生きられない自分を感じていた。跪いて許しを請い救われる以外ないと思った。
銀四郎と式子の二人は日本へと向かう。白石教授も同じ時期に日本へと出国する。
羽田空港では新聞記者、モード雑誌の記者たちが集まって、式子たちの帰国を待ちわびていた。ジャン・ランベールの型紙購入の成功の報告と感想を聞こうと犇めいていた。帰国報告の後、式子は宿泊先の日活ホテルに到着する。その場で成城にある白石教授に電話し面会を求めるが優しく拒否され、後日ということになる。
式子にはジャン・ランベールの型紙の縫製と、その発表という仕事が控えていた。銀四郎は教授と会うのはランベール・ショウが終わるまで待てという。仲を清算したいと云う式子の願いは「あなたは僕の財産だから簡単には承諾できない」と拒否する。二人は大阪本校に戻る。
学会の仕事で白石教授が京都に来るという情報を式子は曽根から聞く。
式子は白石教授と京都で会い、話をする。白石教授は煩悶の結果、式子の苦しみを知って式子の汚れを許せるようになったという。それはあくまでも愛の力であった。しかし、銀四郎との仲を清算しない限り、二人の結婚は無いという。そして、あなただけに解決を背負わせるのは心苦しいので、自分も銀四郎と会いたいと云う。そして優しく式子の手を握り別れていった。
そして再度、銀四郎との対決の日が来る。
式子は両親の残した魚崎の家と、聖和服飾学院の甲子園校だけ残して、銀四郎の手腕によって得たものは一切銀四郎に与え、望むなら、倫子、かつ美、富枝にも銀四郎に代わって慰謝料を支払い、彼女たちを幸せにすることを考えていた。
ジャン・ランベールの30体に及ぶ型紙を縫製仕上げして、それをファションショウとして発表する舞台は成功裏に終わる。一日目はフロアーショウであり、新聞記者、モード雑誌の記者、服飾関係者等々を集めた内輪のものであった。白石教授も招かれ熱心に鑑賞していた。
式子と銀四郎は白石教授の待つ特別室を訪れる。
3度目の対決である。
白石教授は云う「--------式子さんを私の生活の中に向かい入れようと思うのだが」
銀四郎は応じる「つまり、はっきりと結婚しはるという訳ですか?」
白石教授はうなずく。
式子は、甲子園校を残してすべての学校を銀四郎に与え、彼との仲を清算しようとする。しかし、銀四郎はそれを拒否する。「担保に入ったり、債務を負った学校ばかりもろうても、仕様がおまへんわ」「--------、大阪本校には2千万円の学校債権の債務、京都校はビルの持ち主と提携して、信用保証協会の保証でビル内の教室面積と器具設備を担保に入れて、東京の池袋の校地買い入れの資金に当て、池袋の土地は鉄筋コンクリート5階建て、星形校舎の資金繰りに、これも抵当に入ってますさかい、あんたが今、僕にくれはるつもりのものは、全て債務を負うた担保物件ばかりで、清算勘定にはなりまへんわ」とうそぶく。「私に無断で、あなたが勝手に借りた負債は、私から学校の経営を引き継いだ後、あなたの責任で返済していくことだわ」式子は怒りを込めて反論する。「ところが学校法人・聖和服飾学院長大庭式子の名義で借りている負債でっさかい、あんたは法律上の返済義務があるわけだす、従ってあと3年間、院長として働いて、学校の負債を片付けてから僕に進呈してくれはるか、それがお嫌なら、至急、白石教授と返済方法をご協議いただくことですな」「--------、式子さんは、今や僕のかけがいのない財産でっさかい勘定の合う清算をしてもらわん限りは、綺麗に引っ込めまへんから、先生もそのおつもりで、考えおきをしておくれやす」とうそぶく。白石教授は怒りを込めて銀四郎に「出ていけ」と叫ぶ。銀四郎は薄笑いを浮かべて出ていく。デザイナーとしては優秀であっても、経営に関しては素人でありすべてを銀四郎の経営手段に任せていたところに式子の誤算があった。銀四郎との仲を清算し、白石教授との新生活を営むという夢は無残にも覆され、銀四郎の企んだ罠からは逃れられない自分を式子は感じた。
「諦めよう!」白石教授は式子に云う。そして二人の会話を聞いて、二人は所詮、同じ汚れた世界に住む人間であると感じたという。そうしてそういう汚れた世界は自分とは無縁の存在だと、云い放つ。そこには妻の情死に会い、その妻の汚れを許せない潔癖さがあると同時に自分の静謐な学問の世界を犯そうとするものに対する恐れと冷たさがあった。それは彼一流のエゴイズムであった。その愛は、あくまでも限られた枠内のものであって、もはや式子は、その枠外の存在であった。
それを知って式子は絶望する。白石教授はもはや自分のもとには帰ってはこない。求めていた生きがいを失った式子は、過酷な現実から逃れて一人になりたかった。彼女は大阪に向かう。頭の片隅にジャン・ランベールショウの事が通り過ぎた。ドタキャンすることの恐れはあったが、自分がいなくとも、倫子がおり、かつ美がおり、富枝がいる。彼女たちは協力して自分の代わりを務めてくれるであろう。彼女たちは立派に育っていた。
式子は、甲子園校に入り、マネキン人形と向き合う。そこには、高価な衣装をまとい、気取った帽子をかぶり、胸に勲章のようなネックレスをつけた華やかな姿があった。式子は紙に自分の似顔絵を描き、マネキンの顔に貼りつけた。それは虚栄と虚飾、欲望と虚名を追い求めた自分の醜い姿を象徴していた。式子は裁ち鋏を振り上げ、マネキンに突き刺した。ずたずたに切り裂いた。それは汚辱と、虚栄に満ちた自分との決別であった。
そしてその鋏を、何のためらいもなく、自分の喉に突き刺した。鮮血が飛び散り、式子は床に倒れた。
それはジャン・ランベールショウの始まる直前であった。式子自殺の知らせを大阪の富枝から受けた銀四郎と倫子は激しい衝撃を受けたものの、その衝撃を跳ね返し、ジャン・ランベールショウを成功裏に終了させねばならなかった。倫子にはそんな図太さがあった。式子は「病気」と云うことにし、その代わりを倫子が務め、無事、かつ盛大にショウは終了する。
銀四郎はショウの終了後ただちに大阪に向かい、式子の死体と対面する。その死体は静かで穏やかであった。苦しみの表情は無かった。病院で息を引き取ったので、事件性は無いとみなされ、死体は聖和服飾学院に引き取られた。ジャン・ランベールショウが成功裏に終わった後の記者会見ではそのことが問題になる。銀四郎は例の処世術で難なく切り抜ける。
聖和服飾学院を取り巻く環境は式子がいなくなっただけで何も変わらなかった。式子の残した聖和服飾学院は、その経営は銀四郎が引き継ぎ、式子の代わりに倫子が院長になった。聖和服飾学院は、銀四郎が倫子を操り今後もますます発展していくであろう。
富枝は云う「「-----(式子先生)が一番損をしはったわ、先生の後を狙いつづけていた倫子さんが一番得をし、かつ美さんも今より以上の地位が約束され、私は私名義の縫製工場がちゃんと自分のものになっていて、それぞれ自分なりの得をしてるわ。先生だけが、やっぱり良家の嬢(いと)はんらしく、鷹揚な抜け方で、一番損をしはったわ」
銀四郎は云う「おれは大庭式子の欲しがった虚栄を与え、胸に勲章を飾り立ててやるように名声と富を築いてやったのだ。いわば俺は女の勲章を製造し、それを女の胸にぶら下げさせて、おれの商売にしてきただけのことだ、大庭式子は、自分の勲章が気に入らなくなったからといって、なにも死ぬほどのこともないのだ。気に入らなければ勲章を取り換えさえすればよいのだ--------」と。要するに相身互いであって、お互いに利用し合って富を築きあげて来たことの何が悪いのかと云う。俺には責任は無いという。それが女だけの、虚飾と虚栄に満ちた世界を渡り歩く処世術なのだという。白石教授のことも所詮は世界の違う人間同士の付き合い、もともと結ばれない運命だったのだという。
この作品は嫉妬と欲望、虚栄と虚飾に満ちたデザイナー界に一人の野心家・八代銀四郎という男が介入し、女たちの欲望に乗じて、その体を我が物にし、その女たちに確実な形を与え、その代償として自らの野心を達成していく、出世物語であると同時に、若い男の身体と、その男のもたらす富への誘惑に引きずられていく、弱い女・大庭式子の繁栄と破滅の物語でもある。
時代は昭和30年代。まさに高度経済成長が始まらんとしていた時期である。時流にも乗って聖和服飾学院はその成長を遂げたのである。
いずれにしても後味の悪い作品である。
山崎豊子作「女の勲章」(上)(下)新潮文庫 新潮社刊
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