ヨブ記4 12章~15章
はじめに
苦難には内から来る苦難と、外から与えられる苦難との2つがあります。ヨブの3人の友人は内からくる苦難を問題にします。しかし、「我は義なり」と確信しながらもヨブは、自分の内に隠された罪があるのではないかと疑い「我に罪があるならそれを悟らせよ」とそのあかしを神に求めます。しかし神からの応答はありません。人は神に応答を強要してはならないのです。それは、神に対する高ぶりだからです。神は応答すべき時には、自発的に応答してくださる方です。ただ、今はその時にあらずと思っておられるのです。ヨブは、自分と神との間に深い溝を感じています。しかし、天上では神はあなた(ヨブ)を信頼しておられるのです。その信仰が試されているのです。ヨブにはそれがわかっていません。
ヨブの考えは、基本的には因果応報原理に拘束されています。神と人間との間に因果応報原理を超える自発性と自由がなければ、因果応報原理は、必然の法則に化してしまいます。そこでは決定論が支配し、自由な応答関係が神と人間との間に成立することは出来ないのです。ヨブは、その考えを180度転嫁せねばならないのです。我々が神に期待するのではなく、神が我々に期待するものは何かを知らなければならないのです。その結果、ヨブは不条理の苦難の解決は神の側からなされるべきと考え、人間の側からの合理的な解決を拒否します。ヨブは、神と人間の間の溝を埋める仲裁者の存在を待望しますが、その存在の欠如を嘆いています。
神から切断された人間の魂の、深い苦しみを描いた書が、この「ヨブ記」なのです。
12章:ヨブは、ツオファルに応えて言った「確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。私にもあなたがた同様に悟りがある。私はあなたがたに劣らない。たれか、このくらいのことを知らないものがあろうか(12:1-3)」。ヨブは神の智慧の永遠性と、人の知恵の限定性を比べています。「おまえの淺知恵など永遠無限の神の智慧に較べれば、儚いものだ」「その知恵は人の死と共に消え去ってしまう」とあざけるのです。そして「お前の悟りなんか、常識のうちだ」と叫びます。
そして今の苦しい境遇を呪います。「私は、神を呼び、神が答えてくださったものであるのに、私は自分の友だちの笑いものになっている。潔白で正しいものが物笑いになっている(Ⅰ2:4)」と、かつての強者が、弱者に変わった途端に、その態度を一変させ、物笑いにする、と彼らを呪います。友人たちは、ヨブの受けた災厄を、その罪ゆえであると考えています。彼らは自分たちこそ義なるものなのです。ヨブは罪びとです。彼らはヨブにその罪を認めて神に帰れと要求します。「安らかだと思っているものは、衰えているものをさげすみ、足のよろめくものを、押し倒すⅠ2:5)」と、溺れるものを、杖で叩くような言葉を発する彼らをヨブは呪います。ヨブは自分の苦しい境遇に何一つ同情を寄せることなく、罪びととして厳しく処遇する友人たちに怒りを発しています。「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。神がご自身でそうするものは(Ⅰ2:6)」。すべてのことは善も悪も神の主権の範囲内で起こっているのです。「力と、優れた智性とは神と共にあり、誤って罪を犯す者も、迷わす者も神のものだ(Ⅰ2:16)」と、その万能性を示します。「荒らすもの」「神を怒らすもの」を3人の友人と考えることもできますが、世の中の常識と考える方が良いように思います。世の中では罪を犯すものが栄え、神を怒らせるものが安らかに過ごしています。強者は栄え、弱者は滅ぶのです。友人たちの言う「不義なるものは罰せられ、義なるものは恵まれる」という紋切り型の因果応報論は、ここでは、通用しません。そこには因果応報説を超える何かが存在しているのです。
「獣に、そして空の鳥に尋ねてみよ。そうすれば、彼らが教え、かつ告げるであろう。地に話しかけよ。それがあなたに教えるであろう。海の魚もあなたに語るであろう(Ⅰ2:7~8参照)」。「これらすべてのうち、主のみ手がこれをなさったことを知らないものがあろうか。すべての生き物の命と、すべての人間の息とは、その御手の内にある(12:9~10)」。ヨブはツオファルに自然界を見なさいと問い質しています。そこには自然界を貫く法則があります。それは弱肉強食の世界です。そこは強者が栄え、弱者が滅びる世界です。これは、人の世界でも同じです。因果応報論は通用しません。これが、神がお造りになった世界の現実です。外から与えられる神の世界です。神の主権の中で起こっていることです。このように、動物と人間の命と息は、その御手の中にあるのです。
「口が食べ物の味を知るように、耳は言葉を聞き分けなないだろうか(Ⅰ2:11)、ヨブは友人たちの信仰を問います。そして「老いた者に知恵があり、年のたけたものに英知があるのか(Ⅰ2:12)」と、経験からくる知恵の有効性に疑問を提示します。そしてさらに言います「知恵と力とは神と共にあり、思慮と英知も神のものだ(Ⅰ2:13)」と。全ては神の主権の範囲内で起こっていることであって人の力ではない、と言います。
そして言います。人の世を覆う弱肉強食の世界も、取り去らねばならないと。世の中において、勢力を持つ人々、すなわち、議官、裁判官、王や祭司たちを滅ぼし、神を敬ない長老や君子たちの闇(秘密)を明かし、光の中に引き出し、これを糺さねばならない、とヨブは言います。かくしてこの国のかしらたちの悟り(力)は、取り除かれ、平等の世界が現れるのです。そして罪びとたちは道の無い荒れ野をさ迷い歩くのです。それは自然界でも同じです。狼が小山羊とともに住み、獅子は草を食む。それはいつ来るのか。ヨブは応えません。それは神のみ心だからです。
13章:13章は2つの部分に分けることが出来ます。
1,友人たち(あなたがた)に対する部分(13;1~19)
2,神(あなた)に対する部分(13:20~28)
ヨブは言います。「あなたがたが述べることは私の知っていることばかりで何の助けにもならない。あなたたちは能無しの藪医者だ」、と突き放し、その目を神に向けます。
解決不能な問題に出会ったとき、私たちは人に助言を求めるのではなく、その問題を神への祈りに変えて現す必要があります。
ヨブは、友人たちとの論争を、今自分の抱えている問題には、無益なものと判断して、その目を神に向けます。その神を、彼らはないがしろにしているのです。「あなたがたは、人が人を欺くように、神をも欺こうとするのか(13:7B)」と、ヨブは怒ります。彼らは自分たちを、神のごとくにみなしヨブに接していたのです。それは、神に対する高ぶりです。人は神の代わりは出来ないのです。謙虚でなければならないのです。ヨブは言います「神は威厳をもってあなたたちを罰するであろう(13:11~12参照)」と。
ヨブは言います「黙れ。私にかかわりあうな。この私が話そう。何が私に降りかかっても構わない(3:13)」と。ヨブは神の怒りが自らに及ぶことを予測しています。「それゆえ、私は自分の肉を自分の歯に乗せ、私の命を私の手に置こう(13:14)」自分の語ることは命がけであることを示します。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう(13:15)」と神への信仰は確固たるものゆえ、「我は義なり」という主張を認めよと神に訴えます。「神も私の救いとなってくださる。神を敬わない者は神の前に出ることは出来ないから(13:16)」と。この一連のことばは、「主の御名は褒むべきかな」、神の主権に対するヨブの確固たる信仰があらわされています。
「あなたがたは、私の言い分をよく聞け、私の述べることをあなたがたの耳に入れよ。今、私は訴えを並び立てる。私が義とされることを私は知っている(13:17~18)」と、ヨブは、自分が潔白で、正しいものだと、確信しています。そして「わたしと論争するものは一体だれか、もしあれば、私は黙って息絶えよう(13:19)」と言います。論争するものは友人たちではありません。神です。今まで見えない存在であった神に出会えるだけで、ヨブは満足して、安んじて死ぬことが出来るのです。
ヨブは友人から神に目を向けます。しかし、あくまでも謙虚です。
ただ2つのことをしないで下さいと頼みます。2つのこととは
あなたの手を私の上から遠ざけてください(肉体)。
あなたの恐ろしさで私を怯えさせないでください(霊)。
と肉体と心の痛みからの解放を願いつつ(13;21)、神へ問いかけます。
「私の罪と不義とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせて下さい」「私は十分に罰せられています、さらに追い詰めるのですか」と。しかし、応答はありません。「なぜあなたは御顔を隠し私をあなたの敵とみなされるのでしょうか(13:23)」。神は、人に何をしようと、良いお方です」なぜ、なぜと問うてはならないのです。ヨブは肉体的にも精神的にも、腐った着物のようになっています。膿と蛆によって汚されています。
14章:ヨブは膿と蛆によって崩れかけた体に耐えながら、人の命について神に問います。それは人の命の儚さです。美しい花として咲き乱れていても、それはあくまでも一時的で、いつか消え去り、やがて死を迎えます。その儚い命に災厄を加えることによってさらに短くするのですかと、とヨブは神に恨み言を云います。「我は義なり」と確信するヨブは「誰が、清い者を、汚れたものから出せましょう。だれも出せません」と、自分の清さを強調します。人の命は神のみ手にあります。「それなら私から目をそらし。かまわないでください。そうすれば、その一時を日雇い人のように楽しむことが出来るのに」肉体と心の痛みからの解放を求めてヨブは神に訴えます。
そしてヨブは話を自然界に移します。人間界と比較します。木はたとえ枯れても、環境が整えば再生します(14:7~4参照)。しかし、人は再生しません。それでおしまいです。しかし再生への希望を語ります。「人は死ねば生き返るでしょうか、私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう(14:14)」と。「私の代わりの者」とは再生したヨブのことです。ヨブは、自分の復活を神に求めます。キリストが復活したように。キリストは復活の初穂です。ヨブはそれに続くことを希望します。「あなたが呼んで下されば、私は答えます。あなたはご自身の手で造られたものを慕っておられるでしょう。今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎を覆ってください(14:15~17)」と、ヨブは自分の咎を覆い隠せと神に願います。
しかし、一転してヨブは神の厳しさを語ります。「しかし、山は倒れて崩れ去り、岩もその所から移される。水は石を穿ち、大水は地の泥を押し流す。そのようにあなたは人の望みを絶ち滅ぼされます。あなたはいつまでも人を打ち負かすので、人は過ぎ去っていきます。あなたは彼(ヨブ)の顔を変えて、彼を追いやられます(14:18~20)」と。このように、復活への希望は、消え失せます。
残っているのは、激しい肉体の痛みと、激しい魂の嘆きだけです。
15章: 14章をもって第1ラウンドは終わります。この章から第2ラウンドが始まります。再び、エリファズが登場します。彼の口調は厳しく、悔い改めを要求するというより、ヨブの滅びを宣言します。
エリファズは、ヨブのことばを中東に吹く激しい東風に例えます。この風は穀物や植物を枯らすだけで何の益ももたらしません。ヨブのことばはそれと同じで激しいだけの暴論(東風)ときめつけます(15:2~3参照)。ヨブの誠実な神への祈りは、彼にとっては、神に対する捨て台詞に過ぎないのです。「あなたは最初に生まれたのか、あなたは丘より先に生み出されたのか、あなたは神の会議にあずかり、神の奥義を独り占めにするのか」と暗にそんなことはあるまいと揶揄し、お前の知っていることなどで我々が知らないことがあると思うか、我々の中には白髪のものも、老いた者もおり、あなたの父よりはるかに年上だ。とその知識の豊富さを誇ります。しかし、霊的な知識の豊富さは経験の多少で決まるものではないのです。
「なぜあなたは理性を失ったのか、なぜあなたの目はぎらつくのか。あなたが神に向かって苛立ち、口からあのような言葉を吐くとは(15:12~15)」と、厳しく責めます。これは身と心に傷を受け、苦しむヨブには厳しすぎる言葉です。同時に、高みから見下ろす態度であり、そこには同情も憐憫の情もありません。友人には、あるまじき言葉です。さらに言います「人がどうして清くあろうか、女から生まれたものが、どうして正しくあり得ようか。見よ。神はご自身の聖なるものたちをも信頼しない。天も神の目には清くない。まして、忌み嫌う汚れた者、不正を水のように飲むもの(ヨブ)は、なおさらだ(Ⅰ5:14~16)」。サタンは堕天使です。天にもサタンはいます。ヨブはこのサタンから災厄を受けたのです。 この限りではこの言葉は正しい。しかし、ヨブは聖なる者です。神は良いお方です。神によって守られています。
エリファズは言います「私を聞け」と相変わらず高いところからヨブに語り掛けます「私の見たことを告げよう」と「それは知恵あるものが昔から語ったことで神の奥義だ」と。そしてこの知恵あるものにだけこの地は与えられ他国人には与えられない、と言います。他国人とは罪びとを指しヨブのことです。罪びとは一生もだえ苦しむというのです。それは神に逆らったものの当然の報いなのです。そして最後に言います「実に神を敬わない者の仲間には実りがない。わいろを使うものの天幕は火で焼き尽くされる。彼らは害毒をはらみ、悪意を生みその腹は欺きの備えをしている」と。この限りにおいてはヨブには救いはないのです。16章はヨブの反論です。 楽庵会
はじめに
苦難には内から来る苦難と、外から与えられる苦難との2つがあります。ヨブの3人の友人は内からくる苦難を問題にします。しかし、「我は義なり」と確信しながらもヨブは、自分の内に隠された罪があるのではないかと疑い「我に罪があるならそれを悟らせよ」とそのあかしを神に求めます。しかし神からの応答はありません。人は神に応答を強要してはならないのです。それは、神に対する高ぶりだからです。神は応答すべき時には、自発的に応答してくださる方です。ただ、今はその時にあらずと思っておられるのです。ヨブは、自分と神との間に深い溝を感じています。しかし、天上では神はあなた(ヨブ)を信頼しておられるのです。その信仰が試されているのです。ヨブにはそれがわかっていません。
ヨブの考えは、基本的には因果応報原理に拘束されています。神と人間との間に因果応報原理を超える自発性と自由がなければ、因果応報原理は、必然の法則に化してしまいます。そこでは決定論が支配し、自由な応答関係が神と人間との間に成立することは出来ないのです。ヨブは、その考えを180度転嫁せねばならないのです。我々が神に期待するのではなく、神が我々に期待するものは何かを知らなければならないのです。その結果、ヨブは不条理の苦難の解決は神の側からなされるべきと考え、人間の側からの合理的な解決を拒否します。ヨブは、神と人間の間の溝を埋める仲裁者の存在を待望しますが、その存在の欠如を嘆いています。
神から切断された人間の魂の、深い苦しみを描いた書が、この「ヨブ記」なのです。
12章:ヨブは、ツオファルに応えて言った「確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。私にもあなたがた同様に悟りがある。私はあなたがたに劣らない。たれか、このくらいのことを知らないものがあろうか(12:1-3)」。ヨブは神の智慧の永遠性と、人の知恵の限定性を比べています。「おまえの淺知恵など永遠無限の神の智慧に較べれば、儚いものだ」「その知恵は人の死と共に消え去ってしまう」とあざけるのです。そして「お前の悟りなんか、常識のうちだ」と叫びます。
そして今の苦しい境遇を呪います。「私は、神を呼び、神が答えてくださったものであるのに、私は自分の友だちの笑いものになっている。潔白で正しいものが物笑いになっている(Ⅰ2:4)」と、かつての強者が、弱者に変わった途端に、その態度を一変させ、物笑いにする、と彼らを呪います。友人たちは、ヨブの受けた災厄を、その罪ゆえであると考えています。彼らは自分たちこそ義なるものなのです。ヨブは罪びとです。彼らはヨブにその罪を認めて神に帰れと要求します。「安らかだと思っているものは、衰えているものをさげすみ、足のよろめくものを、押し倒すⅠ2:5)」と、溺れるものを、杖で叩くような言葉を発する彼らをヨブは呪います。ヨブは自分の苦しい境遇に何一つ同情を寄せることなく、罪びととして厳しく処遇する友人たちに怒りを発しています。「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。神がご自身でそうするものは(Ⅰ2:6)」。すべてのことは善も悪も神の主権の範囲内で起こっているのです。「力と、優れた智性とは神と共にあり、誤って罪を犯す者も、迷わす者も神のものだ(Ⅰ2:16)」と、その万能性を示します。「荒らすもの」「神を怒らすもの」を3人の友人と考えることもできますが、世の中の常識と考える方が良いように思います。世の中では罪を犯すものが栄え、神を怒らせるものが安らかに過ごしています。強者は栄え、弱者は滅ぶのです。友人たちの言う「不義なるものは罰せられ、義なるものは恵まれる」という紋切り型の因果応報論は、ここでは、通用しません。そこには因果応報説を超える何かが存在しているのです。
「獣に、そして空の鳥に尋ねてみよ。そうすれば、彼らが教え、かつ告げるであろう。地に話しかけよ。それがあなたに教えるであろう。海の魚もあなたに語るであろう(Ⅰ2:7~8参照)」。「これらすべてのうち、主のみ手がこれをなさったことを知らないものがあろうか。すべての生き物の命と、すべての人間の息とは、その御手の内にある(12:9~10)」。ヨブはツオファルに自然界を見なさいと問い質しています。そこには自然界を貫く法則があります。それは弱肉強食の世界です。そこは強者が栄え、弱者が滅びる世界です。これは、人の世界でも同じです。因果応報論は通用しません。これが、神がお造りになった世界の現実です。外から与えられる神の世界です。神の主権の中で起こっていることです。このように、動物と人間の命と息は、その御手の中にあるのです。
「口が食べ物の味を知るように、耳は言葉を聞き分けなないだろうか(Ⅰ2:11)、ヨブは友人たちの信仰を問います。そして「老いた者に知恵があり、年のたけたものに英知があるのか(Ⅰ2:12)」と、経験からくる知恵の有効性に疑問を提示します。そしてさらに言います「知恵と力とは神と共にあり、思慮と英知も神のものだ(Ⅰ2:13)」と。全ては神の主権の範囲内で起こっていることであって人の力ではない、と言います。
そして言います。人の世を覆う弱肉強食の世界も、取り去らねばならないと。世の中において、勢力を持つ人々、すなわち、議官、裁判官、王や祭司たちを滅ぼし、神を敬ない長老や君子たちの闇(秘密)を明かし、光の中に引き出し、これを糺さねばならない、とヨブは言います。かくしてこの国のかしらたちの悟り(力)は、取り除かれ、平等の世界が現れるのです。そして罪びとたちは道の無い荒れ野をさ迷い歩くのです。それは自然界でも同じです。狼が小山羊とともに住み、獅子は草を食む。それはいつ来るのか。ヨブは応えません。それは神のみ心だからです。
13章:13章は2つの部分に分けることが出来ます。
1,友人たち(あなたがた)に対する部分(13;1~19)
2,神(あなた)に対する部分(13:20~28)
ヨブは言います。「あなたがたが述べることは私の知っていることばかりで何の助けにもならない。あなたたちは能無しの藪医者だ」、と突き放し、その目を神に向けます。
解決不能な問題に出会ったとき、私たちは人に助言を求めるのではなく、その問題を神への祈りに変えて現す必要があります。
ヨブは、友人たちとの論争を、今自分の抱えている問題には、無益なものと判断して、その目を神に向けます。その神を、彼らはないがしろにしているのです。「あなたがたは、人が人を欺くように、神をも欺こうとするのか(13:7B)」と、ヨブは怒ります。彼らは自分たちを、神のごとくにみなしヨブに接していたのです。それは、神に対する高ぶりです。人は神の代わりは出来ないのです。謙虚でなければならないのです。ヨブは言います「神は威厳をもってあなたたちを罰するであろう(13:11~12参照)」と。
ヨブは言います「黙れ。私にかかわりあうな。この私が話そう。何が私に降りかかっても構わない(3:13)」と。ヨブは神の怒りが自らに及ぶことを予測しています。「それゆえ、私は自分の肉を自分の歯に乗せ、私の命を私の手に置こう(13:14)」自分の語ることは命がけであることを示します。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう(13:15)」と神への信仰は確固たるものゆえ、「我は義なり」という主張を認めよと神に訴えます。「神も私の救いとなってくださる。神を敬わない者は神の前に出ることは出来ないから(13:16)」と。この一連のことばは、「主の御名は褒むべきかな」、神の主権に対するヨブの確固たる信仰があらわされています。
「あなたがたは、私の言い分をよく聞け、私の述べることをあなたがたの耳に入れよ。今、私は訴えを並び立てる。私が義とされることを私は知っている(13:17~18)」と、ヨブは、自分が潔白で、正しいものだと、確信しています。そして「わたしと論争するものは一体だれか、もしあれば、私は黙って息絶えよう(13:19)」と言います。論争するものは友人たちではありません。神です。今まで見えない存在であった神に出会えるだけで、ヨブは満足して、安んじて死ぬことが出来るのです。
ヨブは友人から神に目を向けます。しかし、あくまでも謙虚です。
ただ2つのことをしないで下さいと頼みます。2つのこととは
あなたの手を私の上から遠ざけてください(肉体)。
あなたの恐ろしさで私を怯えさせないでください(霊)。
と肉体と心の痛みからの解放を願いつつ(13;21)、神へ問いかけます。
「私の罪と不義とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせて下さい」「私は十分に罰せられています、さらに追い詰めるのですか」と。しかし、応答はありません。「なぜあなたは御顔を隠し私をあなたの敵とみなされるのでしょうか(13:23)」。神は、人に何をしようと、良いお方です」なぜ、なぜと問うてはならないのです。ヨブは肉体的にも精神的にも、腐った着物のようになっています。膿と蛆によって汚されています。
14章:ヨブは膿と蛆によって崩れかけた体に耐えながら、人の命について神に問います。それは人の命の儚さです。美しい花として咲き乱れていても、それはあくまでも一時的で、いつか消え去り、やがて死を迎えます。その儚い命に災厄を加えることによってさらに短くするのですかと、とヨブは神に恨み言を云います。「我は義なり」と確信するヨブは「誰が、清い者を、汚れたものから出せましょう。だれも出せません」と、自分の清さを強調します。人の命は神のみ手にあります。「それなら私から目をそらし。かまわないでください。そうすれば、その一時を日雇い人のように楽しむことが出来るのに」肉体と心の痛みからの解放を求めてヨブは神に訴えます。
そしてヨブは話を自然界に移します。人間界と比較します。木はたとえ枯れても、環境が整えば再生します(14:7~4参照)。しかし、人は再生しません。それでおしまいです。しかし再生への希望を語ります。「人は死ねば生き返るでしょうか、私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう(14:14)」と。「私の代わりの者」とは再生したヨブのことです。ヨブは、自分の復活を神に求めます。キリストが復活したように。キリストは復活の初穂です。ヨブはそれに続くことを希望します。「あなたが呼んで下されば、私は答えます。あなたはご自身の手で造られたものを慕っておられるでしょう。今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎を覆ってください(14:15~17)」と、ヨブは自分の咎を覆い隠せと神に願います。
しかし、一転してヨブは神の厳しさを語ります。「しかし、山は倒れて崩れ去り、岩もその所から移される。水は石を穿ち、大水は地の泥を押し流す。そのようにあなたは人の望みを絶ち滅ぼされます。あなたはいつまでも人を打ち負かすので、人は過ぎ去っていきます。あなたは彼(ヨブ)の顔を変えて、彼を追いやられます(14:18~20)」と。このように、復活への希望は、消え失せます。
残っているのは、激しい肉体の痛みと、激しい魂の嘆きだけです。
15章: 14章をもって第1ラウンドは終わります。この章から第2ラウンドが始まります。再び、エリファズが登場します。彼の口調は厳しく、悔い改めを要求するというより、ヨブの滅びを宣言します。
エリファズは、ヨブのことばを中東に吹く激しい東風に例えます。この風は穀物や植物を枯らすだけで何の益ももたらしません。ヨブのことばはそれと同じで激しいだけの暴論(東風)ときめつけます(15:2~3参照)。ヨブの誠実な神への祈りは、彼にとっては、神に対する捨て台詞に過ぎないのです。「あなたは最初に生まれたのか、あなたは丘より先に生み出されたのか、あなたは神の会議にあずかり、神の奥義を独り占めにするのか」と暗にそんなことはあるまいと揶揄し、お前の知っていることなどで我々が知らないことがあると思うか、我々の中には白髪のものも、老いた者もおり、あなたの父よりはるかに年上だ。とその知識の豊富さを誇ります。しかし、霊的な知識の豊富さは経験の多少で決まるものではないのです。
「なぜあなたは理性を失ったのか、なぜあなたの目はぎらつくのか。あなたが神に向かって苛立ち、口からあのような言葉を吐くとは(15:12~15)」と、厳しく責めます。これは身と心に傷を受け、苦しむヨブには厳しすぎる言葉です。同時に、高みから見下ろす態度であり、そこには同情も憐憫の情もありません。友人には、あるまじき言葉です。さらに言います「人がどうして清くあろうか、女から生まれたものが、どうして正しくあり得ようか。見よ。神はご自身の聖なるものたちをも信頼しない。天も神の目には清くない。まして、忌み嫌う汚れた者、不正を水のように飲むもの(ヨブ)は、なおさらだ(Ⅰ5:14~16)」。サタンは堕天使です。天にもサタンはいます。ヨブはこのサタンから災厄を受けたのです。 この限りではこの言葉は正しい。しかし、ヨブは聖なる者です。神は良いお方です。神によって守られています。
エリファズは言います「私を聞け」と相変わらず高いところからヨブに語り掛けます「私の見たことを告げよう」と「それは知恵あるものが昔から語ったことで神の奥義だ」と。そしてこの知恵あるものにだけこの地は与えられ他国人には与えられない、と言います。他国人とは罪びとを指しヨブのことです。罪びとは一生もだえ苦しむというのです。それは神に逆らったものの当然の報いなのです。そして最後に言います「実に神を敬わない者の仲間には実りがない。わいろを使うものの天幕は火で焼き尽くされる。彼らは害毒をはらみ、悪意を生みその腹は欺きの備えをしている」と。この限りにおいてはヨブには救いはないのです。16章はヨブの反論です。 楽庵会
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