子曰く、詩三百、一言をもってこれを蔽う、曰く、思い邪なし。(論語・為政)
先生はおっしゃった。詩経三百篇、言葉や表現は様々にあるが、全ては同じことを言っている。それはただ一言、「心を正しくしていなさい」、ということだ。
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ずいぶんと私流の訳ですが、そこはご勘弁を。
「正しいことをしなさい。悪いことをしてはいけません」と、小学校では良く習いますね。だいたいの先生は、子供たちにそういうことを教えると思います。でもおとなになると、なんだかみんな、小学校で教わったことを忘れるみたいなんだ。どうしてかな。小学校の先生なら、きっと目をとがらせて怒るようなことを、人は大人になると、いろんな巧みな技術を使って、とても上手にやるようになるみたいなんだ。一体、どこでそういうことを習うんだろう。
本当に、多くの人は、おとなになると、上手に、悪いことやずるいことが、できるようになるようなのだ。それはどこで習うんだろう。学校や塾でもあるんだろうか。そんなところがあるのなら、ぜひに一回訪ねてもみたいものだ。どんな教科書を使って、どんな授業をやっているのやら。きっと面白いことを教えているのに違いない。
まあ、冗談はこれまでにして、久しぶりの論語です。
今の世は、真っ正直に正しく生きることよりも、裏でずるいことを賢くやって、よく言うように、「うまくやって」自分を得させることが、頭のいいかっこいい人のすることのように考えている人が多いそうです。みな、裏で、人にばれないようにやれば、なんでもしていいと思っているかのようだ。本当に、自分のやったことが、誰にも知られなければ、それでいいと思っているかのようだ。でも、誰も知らなくても、自分だけは、自分のしたことを知っている。人にばれたら恥ずかしいようなことを自分がやっている、ということを、自分は知っている。それは恥ずかしくないのだろうか。自分が苦しくないのだろうか。自分のやっていることを、自分で恥ずかしいと思うことはないのだろうか。
聞いてみたい。本当に、それをやって、自分は苦しくないのか。平気なのか。何の呵責もなく、そんなことをすることが、できるものなのでしょうか、人間は。
人間は知らないのだろうか。裏で自得のためにずるいことをできるということが、頭のいいって意味ではないことを。本当に頭のいい人、論語では知者と言いますが、そういう人は愛を裏切りません。愛を裏切ればどういうことになるかを知っているからだ。
「正しいことをしなさい。間違ったことをしてはいけません」
自分の本当の心が本当に喜ぶことをしなさい。愛を基本にして、世の中のためにも自分のためにも、正しいことをする。そこに幸せを見いだせる人間は仁者というものだ。自分の得ばかりを考えて、ずるいことばかりしてはいけない。その行為の醜さが、自分をどれだけ汚くして、苦しめてしまうものか。後々の自分の運命に、どれだけ暗い影を落とすものか。人間はまだそれがわからないか。
正しいことをしなさい。正しい心で、自分にも他人にも恥ずかしいことをせずに、詩経のような良い本を読んだり、良い師について学んだりして、人生をもっとまじめにやりなさい。それが当たり前のことにやれて初めて、人間は少し大人になれる。
人によっていろいろと表現の仕方は違うでしょうが、太古の昔から、賢い人々は常にこう言ってきたはずだ。
「正しいことをしなさい。嘘のないきれいな心で」
それが本当にいいことなのだと、心にしっかりとわかるまで、人間はどれだけの失敗をし、どれだけの月日を費やしてきたか。もう一度繰り返して言います。
「正しいことをしなさい。間違ったことをしてはいけません」