子曰く、由、なんじにこれを知るを誨えんか。これを知るをこれを知るとし、知らざるを知らざるとなせ。これ知るなり。(論語・為政)
先生はおっしゃった。由よ、おまえに知るということを教えよう。知っていることは知っているとして、知らないことは知らないとしなさい。これが知るということ。すなわち、己を知るということだ。
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わたしたちは、世界の秘密について、神がこの世界に隠した無数の珠玉の秘密に関して、ほとんど何も知らない。だのに、地球のことならなんでも知っていると言う顔をして生きている。そして、好き放題のことをやっている。
本当は、地球の秘密の、目には見えないとても大切なことが、かけらでもわかったなら、この世界には、けっしてやってはいけないこと、やりすぎたらいけないこと、やると、あまりにも愚かだということなどが、それはたくさんあることがわかる。今の人間はそういうことはほとんど何も知らないから、その決してやってはいけないこと、やりすぎたらいけないこと、やるとあまりにも愚かだということを、たいてい、とても立派ないいことだと思って、やっているのだ。
人間が立派だと思ってやっていることの中には、少しも立派ではないということが、たくさんある。時に、人間が情熱を傾けて真摯に取り組んでいることの中に、そういうものがあって、そんなのをテレビなどで見ると、わたしはあまりにも苦しくて、目を閉じて顔を背ける。
それが遠い未来なのか、近い未来なのかわからないが、人間はいつしか、その真実に気付かねばならない。それがどういう形で起こるか分からないけれども。
大切なことを知らないと言うことが、どんなに悲劇的な滑稽劇を生むかということを、人間はいつか自分の目で見ねばならない。多分、それはきっと、たまらなく自分が、恥ずかしい。でも、人間は、乗り越えねばならない。
自分が知らな過ぎること、そして誤っていたことがわかったなら、それから逃げたりしないで、まずはそれを自分のよい体験だとしっかり受け止め、新しく学び始めることだ。これは当たり前のことだけれども。人間は知っていることは知っている。でも知らないことは全く知らない。そしてその知らないことは、無限に多い。それをこれから、人間は知らなければならない。
花にも木にも虫にも、小さな動物や、山や川や海にも、もちろん神にも、頭を下げ、教えを請うことだ。彼らはわたしたちの知らないことを知っているから。おもしろいことを教えてくれる。また時には厳しく、間違いを指摘してくれる。本当に知るということがわかったなら、礼義を整えて、この世界にある愛なる者すべてに、頭を下げねばならない。勉強させて下さいと、祈らねばならない。そうすれば、地球上の愛が、人間に様々なことを教えてくれるだろう。
真実を知るのは、惨いかもしれない。たぶん、人は相当に苦しむことだろう。それがいつのことかはわからない。でも、人は知らなければならないのだ。そこを、乗り越えねば、次の段階にいけないのだ。