王孫賈問いて曰く、「その奥に媚びんよりは、むしろ竈に媚びよとは、何の謂ぞや」。子曰く、「然らず。罪を天に獲ば、禱るところなし」(論語・八佾)
王孫賈が孔子に尋ねた。「奥の座敷でわけのわからぬ天の神に祈るより、むしろ、飯をたいて食わせてくれる竈を大事にしろということわざがありますが、どう思われますか」
すると孔子は答えた。「それは間違いです。天の下にいて天に恥じるようなことをすれば、他に祈るところなどどこにもありません。」
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資料によると、「その奥(おう)に媚びんよりは、むしろ竈(そう)に媚びよ」、というのは、衛という国の形式的な王である霊公にとりいるよりは、むしろ実権を握っている重臣(王孫賈)の方に媚びた方がいいのではないかという謎かけだそうです。
でもまあ、そんなことはおいといて。ここでは、奥座敷で高き理想の神に祈るよりは、ものを食わしてくれる台所の竈を大事にしろという意味にとります。つまりは、仁や義や礼などの人として生きるための大切な徳目を大事にするよりは、食うために必要なものやお金を大事にしろということです。
確かに生きるためには食べることも必要なことですが、人間としてより高く、平安に豊かに生きて行くためには、人としての、愛ややさしさという美徳を持っていることが必要だ。高くものごとを学んだ人は、一杯の粥にも神の愛があることを知っていて、人やものを大切にするということが、どんなに大事なことであるかがわかる。なにごとにつけ、本当に大切にすべきものを大切にするということが、とても大切なのだ。それを仁といったり、礼といったりする。
竈もなくてはそりゃこまりますが、それもまた愛が人に与えてくれたもの。人間はやはり、仁や義や礼などの、人が人として生きるために本当に大切な徳目を深く学び、それを自分の友として大切に心の中に持って、生きて行かねばならない。そうでなければ、嘘や悪いことが世の中にはびこって、社会に乱れが生じ、人々が生きることが、本当に苦しくなってしまう。ひどいことになれば、竈でたく飯すら、人々は得ることができなくなってしまう。
罪を天に獲(え)ば、禱(いの)るところなし。
大切なのは、もっとも大切なものが何なのかと言うことだ。この世界のすべては愛なのだ。天とは全ての存在が愛そのものであるということの孔子なりの表現でありましょう。孔子は愛たる実在の真実を、高き愛なるものの実在を、天と言うことばに感じ、表現したのだと思う。その真実よりも目先の食べ物の方が大事だと言ってしまえば、もはや祈るところもない。天を侮辱してしまえば、天の下のどこにもいくところがない。
「奥」で祈るもの。それは人として守るべき正しい愛の行ない方、表現の仕方を教えてくれる神なのです。人はこの大切なことを学んでいかねばならない。良き書を読み、良き師に習い、様々に行動し、失敗を繰り返しつつ改めつつ、体験を積んで、自分の心を豊かにし鍛え、それをしっかりと心につかまねなりません。
「仁」というものが何であり、それがとてもすばらしいものだとわかるには、それがあると、ほんとうに幸福で良いことが起こるということがわかるには、人間はまだ、若すぎる。もう少し、勉強しないと、多分、わからないと思う。
人は、人として守るべき徳目を大事にして、生きていかねばならない。人を愛し、正しいことをし、きちんとした礼儀を守って、本当に大切にしなければならないものを大切にせねばならない。人が、本当に大切にするべきものが何であるかをわかり、それを大切にできるようになれば、生きて行くことはだいぶ楽になるし、社会は美しく整えられて、みんなが暮らしやすくなるでしょう。
人として生きること。それは仁を心に灯し、義を友とし、礼に己を整え、真実に頭を垂れて、人生を学びながら、まじめに、正直に生きること。それが、自分の真の心に、最も心地よい、生き方であるとわたしは思う。
「まじめに、正直に。」愚直というかまるで馬鹿みたいに聞こえることばですが、今この言葉が、人間に一番必要なのではないかと感じています。
まじめに、正直に、生きていますか。みなさん。