子曰く、君子はこれをおのれに求む、小人はこれを人に求む。(論語・衛霊公)
先生はおっしゃった。立派な人は自分の行動規範を自分に求める。勉強の足らない人は、他人に求める。
*
前に「自分の心が嫌だということはしてこなかった」などということを言いましたが、それはやはり、自分の中に、自分を領する自分と言うものが、確固としてあったからだと思います。わたしはただひとつの自分に従って生きてきた。後ろを見ると、今まで歩いてきたまっすぐな道がある。嵐の跡や、槍の降ったあとがある。落とし穴や、落石などのあともある。けれどもわたしは、自分に従い、自分が正しいと感じる道を歩いてきた。
わたしは根っこから、まっすぐにしか進めない不器用な性格なのだけど、それを信じてくれる人は少なかった。というより、誰もいなかった。自分という人間が、あまりに風変わりで、珍しいものだと、いつしか気付いた。ここでは生きにくい生き物だということにも。それでも懸命に生きてきたのは、何かをしなければならないという使命感が、自分のどこかにあったからだった。
それを今、自分なりにいろいろとやっているわけですが。
テレビを見るのは、最近あまり好きではないんですが、たまにテレビを見ると、いろんな政治家さんがいて、いろんなことをやっているのが見えます。泣きそうな顔をした某市長さんだとか、やたらと言動が派手な某知事さんとか。いろいろな人が政治をかき回していますが、わたしは彼らを見て、彼らは多分、坂本龍馬になりたいのだろうな、と感じます。かっこいいですからね、坂本龍馬。銅像も立ってて、彼を主人公にした長編小説やドラマや映画なんかもいっぱいある。今の時代の、男性の理想像の一つでしょうか。
けれど、龍馬が生きていた時代、多分彼を理解してくれる人間は、本当に少なかったと思います。命を削りながら国中を走り回り、全身を血だらけにして生き、最後には、多分「このやろう、よけいなことをしやがって」という感じで、殺されてしまった。
同時代に生きて、彼を理解することができる人は、ほとんどいなかった。みんなに、馬鹿だと思われていた。
今だって変わらない。本当に、国や人を良くするために、働いてくれる人は、一番馬鹿にされる。いじめられて、つぶされる。そして、殺されている。坂本龍馬のように。
本当に坂本龍馬のようになりたいのなら、それくらい覚悟してやらなければ。口ばっかりでなく、まじめに真実を社会にぶつけて、全身でその反動を受けてみればいい。本当の坂本龍馬になりたいのなら。
維新ということばはもう古いよって、どこかで書いたことがありますけれども、新しいことは、過去に起こった明治維新とは全く違う形でもう始まっている。気が付いている人はいるが少ないと思う。斬新ということばには、斬るという漢字が含まれている。そんなこともわからず、過去の、評価の定まった、かっこいい人に自分の理想を押し付け、その皮をかぶって、何かをやろうとしても、馬鹿が滑ってしまうだけだ。
民主主義は、今、大きな舞台で行われていますが、すでに崩壊している。たくさんの人が、壊さないように影で苦労していることでしょう。またその後ろで、新しい時代を作る人たちは育ち始めている。思いもしないところから、風は吹いてくる。
誰も龍馬がやるとは思っていなかった。あのバカみたいなやつが。龍馬は、誰でもない、自分の心に従って行動したのだ。
誰が新しい時代の風を吹かせているのか、きっと今は誰も知らない。
ついでに言うけれど、坂本龍馬にしろ、弘法大師にしろ、人間を理想形にして、信仰に近い感情を持つことは、あまりいいことではないと思います。坂本龍馬も迷惑だ。龍馬は龍馬。あなたはあなた。
自分は、自分の正しい思いに従って動けばいい。傷だらけの道が待っている。あなたが正しいのなら、行ってきなさい。できるのなら、やってきなさい。逃げるな。
男は命を惜しんだら、そこで負けですよ。