世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

ガラスのたまご・28

2015-03-01 07:29:12 | 瑠璃の小部屋

★小さなわたる

画家さんのとこに、赤ちゃんが生まれた。男の子で、名前は渡。もちろん画家さんがつけた。歌穂さんは少し、複雑な顔をしてたけど、大好きな忍さんのいうことには、あまり逆らわない歌穂さんなのである。

「こいつ、眉毛と目は俺似だな。口元は母ちゃん似だ。男前になるぞ」小さな赤ちゃんを抱いてうれしそうな忍さんを見て、歌穂さんもうれしい。歌穂さんは母乳の出もよくて、赤ちゃんはすくすくと大きくなっていった。画家さんは育児にも協力的だ。おむつ替えもやってくれるし、暇があれば汚れたおむつも洗ってくれる。

あ、ちなみに画家さんのとこでは、4か月まで布おむつだった。絵の仕事が入って画家さんが少しいそがしくなってくると、紙おむつに変えたけど、それを画家さんは少し残念に思っている。赤ん坊がかわいいと、おむつ洗いでさえ楽しくなるからだ。とにかく今は、画家さんは、小さな渡を溺愛している。絵を描いていても、無性に渡を抱きたくなってアトリエを出、ベビーベッドの上でせっかく眠っている渡を起こしたりすることもあった。

「わたるわたる、ほうら泣くな、わたる。かわいいなあ、おまえは」小さな渡を抱いてあやしているときの画家さんは、ほんとに幸せそうだ。歌穂さんもそんな忍さんを見て、幸せそうだ。

そんなある日のことだった。6か月になった渡が、夜中に急に泣きだした。どうしたのかとあわてて歌穂さんが抱きあげると、渡の全身が熱い。びっくりして、熱をはかると、39度もあった。画家さんは、真っ青になった。

「歌穂、びび、病院に電話してくれ!」言われるまでもなく、歌穂さんは大慌てでいきつけの小児科に電話していた。画家さんは渡を抱き、車に向かう。運転は歌穂さんがした。後ろの座席で渡を抱きながら、画家さんは泣き止まない渡を一生懸命にあやしていた。

家から一番近くにある行きつけの小児科は、もうすでに明りをつけて待っていてくれた。赤ちゃんを受け取って医師は診察室に消えてゆく。画家さんと歌穂さんは待合室の椅子に座って待った。画家さんの足が、がくがくと震えているのに、歌穂さんは気付いた。

10分ほどの時間が一時間のようにも感じられた。医師が少し微笑みながら出て来た。
「便秘ですよ。ここ何日か、うんちが出てないんじゃありませんか?」
医師がそういうと、歌穂さんは、ああ、と言った。確かに、ここ何日か、渡はうんちを出していなかった。

家に帰って、解熱剤を入れると、熱はすぐに下がった。疲れもあったのか、泣き止んだ渡はベビーベッドの上で、すうっと眠りに入り、静かに寝息をたてはじめた。安堵の息をついた画家さんである。
眠っている小さな渡の顔を見ながら、画家さんは渡の頭にそっと触れて、言った。

「頼むよ、わたる、もう二度と、死なないでくれ」

(死にやしないよ)

だれかが聞こえない声で言ったが、画家さんは気付かない。ただ、背後から見つめている歌穂さんは、やっぱり少し複雑な顔をしていた。

夜明けが近かった。画家さんはベビーベッドから静かに離れ、窓から外の空を見た。東の空に、朝日の気配が見える。まだ星の溶け残っている空は、ふしぎな菫色をしていた。

「国境には、菫の花が、咲いていた、か…」
画家さんが明けはじめた空を見ながらぽつりというと、聞こえない声がまた言った。
(ああ、咲いてたよ。ぼくはそこを超えた。君も、もうそろそろ、やりたいことをやってもいいんじゃない?)

画家さんには何も聞こえない。だが、ずっと自分の胸の中に秘めてうずいているものが、一瞬、確かな形を持って光った。

「国境…なるほど、国境か。いいな」

愛よ おまえは いく

(つづく)




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