★苦いコーヒー
その日手品師さんはオフで、自宅の倉庫でマジックの道具の点検をしていた。
この国に来てもう何年たつだろう。手品師さんはここでも、順当に頭角を現し、多くの人にマジシャンとして名を知られるようになっていた。
日本の観客と違って、こちらの観客は点が辛い。けれど、手品師さんがその真価を見せると、反応の強さが違う。舞台は観客との戦いだ。ゲームで勝利を獲得するためにも、手品師さんは注意深く道具の点検をする。
一通りの点検を終えて、倉庫から出ようとしたその時だ。
(ひかる)
手品師さんは懐かしい声を聞いたような気がして振り向いた。すると、倉庫の奥の方の床で何かがきらりと光っているのが見えた。近づいてよく見ると、それは小さな金色のねじだった。手品師さんは青くなり、そのねじの近くにある、大きな箱の点検を始めた。…やはり。大事なところの隠しねじが、三本なくなっている。
そのとき、セレスティーヌが倉庫に入ってきて、言った。
「ヴィックが行方不明だわ。携帯にも出ないし、自宅アパートの電話にも出ない」
ヴィックというのは、手品師さんがこちらの国に来てから雇った助手のことだった。
「セレ、悪いけどこれと同じネジ3本、とってくれないか。それとドライバー」手品師さんがネジをセレスティーヌに渡しながら言った。セレスティーヌは倉庫の隅のボックスからネジを3本とドライバーをとってきて、手品師さんにわたした。
「どうしたの?」
「この箱の隠しネジが抜かれてた。こんなとこのネジ、プロでもめったに気付かないはずだが。危ないところだった」
セレスティーヌは深いため息をついて言った。
「ヴィックのせいかしら。だとしたらきっとジェンキンズよ。裏にいるのは」
「あまりそういうことは言うもんじゃない」
「日本ではね。でもここは違うわ。ママが言ってた、汚い人間はいるものよって」
「君のママは賢いね。だが事前に見つけることができてよかった。ほかの隠しネジも点検しておこう」
手品師さんは倉庫から出ると、何やらぬるい疲れを感じて、パソコンの前に座った。画家さんからのメールが来ていた。頼んでいた絵ができたという内容だった。
「注文通り、少しサイズを大きくして描いた。写真を添付したから見てくれ。文句がないなら、3日後にそっちに送る」
手品師さんはメールに添付されていた写真を見た。出来上がった絵の中で、詩人さんが笑っていた。手品師さんはその顔を見ると、胸が苦しくなってきて、言った。
「君くらいだな、真正面からまるっきり信じても、安心できた人間は」
「わたしもいるわよ」
後ろから、トレイにコーヒーを載せて持ってきたセレスティーヌが声をかけてきた。
「ああ、そうだったな。ありがとう、セレ」
コーヒーを受け取りながら、手品師さんは言った。
(ひかる)
また、どこからか声が聞こえたような気がした。手品師さんは、はっとして、絵の中の詩人さんの顔を見た。
「君が、たすけてくれたのか? 渡」
詩人さんは笑ったまま、返事をしない。手品師さんの目に、少し涙がにじんだ。口に含んだコーヒーが、苦かった。
(つづく)