★ふたりだけど
「すまんな、せっかく訪ねてくれたのに、こんなことに巻き込んでしまって」
画家さんが、手品師さんに言った。
「いや、別にかまわないよ。とにかく今は探さないと。セレとぼくは、川の方に行ってみる」
「ああ、助かる。ほんとに渡のばかやろうめ。いつまでも俺たちに心配ばかりかける」
ある日のことだった。手品師さんとセレスティーヌは、夏のバカンスを利用して日本に帰国していた。そして画家さんのところを訪ねたら、そこで大騒ぎが起こっていた。
「わたしがいけないんです。渡を強く怒りすぎたから」歌穂さんがエプロンで顔をふきながら泣いていた。事情を聞いてみると、今年6歳になる渡が、画家さんの制作中の絵に落書きをしてしまって、それを歌穂さんがひどく怒ったのだそうだ。そうしたら、渡が泣きながら家を飛び出して行って、そのままどこかへ行ってしまったという。
「事故なんかにあってたりしたら大変だ」画家さんは自転車に乗り、公園や幼稚園など、渡の行きそうなところを探し回った。だが渡はなかなか見つからなかった。
その頃、当の渡は、しゃくりあげながら、見知らぬ小道を歩いていた。すがすがしい光が、竹の梢をすいて降り注いでいる。小鳥の声が聞こえ、ふしぎな香りのする風が吹いていた。
「おかあさん、おかあさんのばかあ」渡は泣きながら言った。渡は、お父さんの絵を、もっとすてきにしたかったのだ。お父さんの絵はとても面白くてきれいだけど、赤い色が足らないような気がした。それで、きれいな赤の絵具を、たっぷりと絵に塗りたくったのだった。
竹の梢がさやりと揺れて、どこからか透き通った笑い声が聞こえた。それと同時に、誰かが後ろから渡に声をかけた。
「ぼうや、こんなとこに、ひとりで、どうしたの?」
振り向くと、そこに、男の人がひとり立っていた。どこかで会ったような気のする人だった。渡は泣きながら、何かを言おうとしたけれど、涙ばっかりぽろぽろ流れて、何をいうこともできない。すると男の人は言った。
「言わなくていいよ。わかってる。君はお父さんのために、いいことをしてあげたかったんだよね」
渡はびっくりした。自分の思っていたことそのものを、知らない人が言ってくれたからだ。渡はうんうんとうなずいた。知らない人は、渡に近づいてきて、渡の頭を優しくなでてくれた。
「おとうさんは、君の気持ちをわかってくれるよ」知らない人は言った。不思議なやさしい声だ。鳥の声に似ている。渡はなんとなくそう思った。
「もうちょっと先にいこう。すぐそこに、小さな神社にのぼる石段がある。そこで、座ってまっていよう。そうしたら、誰かが君をみつけてくれるよ」
知らない人は、渡の手をひいて、一緒に歩いてくれた。そしてふたりで、神社の石段に座って、しばらく話をした。
「おじさん、だれ?」渡が言った。すると知らない人は言った。
「うん、ぼくは小鳥だ」
「小鳥?」
「うん、今は小鳥なんだ。人間だったときは人間の名前があったんだけど、小鳥になってから、それは使わなくなった」
「ふうん?」
「きみはなんて名前?」
「ぼくは、ふゆきわたる。めばえようちえんの、すみれぐみ」
「へえ、すみれぐみか。すてきだね」
小鳥さんは、やさしくて、声と目がきれいだと渡は思った。懐かしい香りがする。小鳥さんは渡に、おもしろい話をしてくれて、ふしぎな歌をひとつ、教えてくれた。
胸のこかごにすんでいる
銀のこりすが歌うたう
たったひとつの大切な
小鳥は空にかくれてる
歌は簡単できれいなメロディで、すぐに覚えることができた。渡は小鳥さんと一緒に、何度もその歌を歌った。歌っていると幸せで、何だか、とてもいいことが、たくさんたくさん、起こるような気がした。
「渡!!」
突然、お父さんの声が聞こえて、渡は振り返った。真っ青な顔をしたお父さんが、自転車を降りてこちらに走ってくるところだった。画家さんは渡を抱き上げ、力いっぱい抱きしめた。
「渡!渡!さがしたぞ!」
「おとうさん、おとうさん!」
渡も、力いっぱいお父さんを抱きしめた。
「絵のことなんかいいんだ。おまえのおかげでかえってよくなった。さあ、帰ろう。渡、おかあさんが心配している」
「うん、そうだ、お父さん、あのね」
渡は小鳥さんのことをお父さんに言わなければならないと思って、神社の石段の方を振り向いた。だけど、そこには誰もいない。渡は「あれ?」と思った。そして小鳥さんのことを、お父さんに言った。
「親切な小鳥さんがね、ずっとぼくにお話ししてくれたんだよ。歌も教えてくれたんだよ」
画家さんは、何かを感じて、はっとした。竹林の上を、一陣の風が、ざっと吹いた。
「わたる? わたるか?」
画家さんがこずえを見上げながら言った時、小さい渡が、小鳥さんに教えてもらった歌を歌った。
胸のこかごにすんでいる
銀のこりすが歌うたう
たったひとつの大切な
小鳥は空にかくれてる
画家さんの胸を、しみとおるような懐かしさが絞った。涙が見知らぬ生き物のように頬を流れていく。
おまえ、生きているのか、渡。
国境を越えて、きてくれたのか。
画家さんは小さい渡を抱きしめながら、見えない渡に心の中で言った。すると、耳の中で金がはじけるように、かすかな声が聞こえたような気がした。
(いつもそばにいるよ)
画家さんは小さい渡を自転車に載せて、家に帰った。歌穂さんも手品師さんもセレスティーヌも、大喜びで渡を迎えた。
画家さんは手品師さんに、竹林の小道であった不思議なことを話した。小さい渡が、気に入ったこりすの歌を何度も歌っている。
たったひとつの大切な
小鳥は空にかくれてる
その晩、画家さんと手品師さんは、アトリエで、夜が更けるまで話をした。ふたりとも、ふたりだけど、ふたりではないような気がしていた。
(つづく)