◇人物(着衣)を描く
前回手慣らしで巨匠の作品を臨画しましたが、いよいよ今回はモデルさんを
取り囲んで人物画を描きました。
ごらんのように衣装が黒。ブーツも黒。背景は殺風景な教室のグレイ。某氏
は堪らず「花が欲しい」と言っていたがそんな用意があるわけでもなく却下。背
景を工夫しましたがちょっと色彩に不満が残りました。
先生からは「顔がやや小さいのでは」とご指摘されました。
着衣は黒。しかし黒い絵の具はなるべく使いません。インディゴとペインズグ
レイそれにランプブラックを少し入れました。
教室は複数の光源があって、光っている部分がくっきりしていおらず、メリハ
リが利きません。
モデルさんは色白でふくよかな体形でした。色白ながら若い血潮が浮かび出
るように工夫しました。
◇「私訳 歎異抄」五木寛之 [東京書籍2007年9月第1版1,200円]
刊行から既に五ヶ月も経ってしまったが、気になっていた本を漸く買い求め、
読み始めている。小説ではないので細切れで読んでいる。
「歎異抄」という古典の存在は、多分中学校あたりで知識として知ったと思う
が、積極的に読んで見ようという気持ちにならないまま今に至った。
「歎異抄」は1287年頃、親鸞の教え(親鸞の仰せごと候ひし趣)について、
その弟子唯円が著したものとされている。親鸞の没後25年に当たる。「教行
信証」などの親鸞自身の著作よりも親鸞の教えの真髄をよく表わしているとし
て評価されている。原典は、前序後序のほかわずか18章、読み下し文で35
ページほどの短いものである。
序
「竊回愚案、粗勘古今、難異先師口傳真信、思有後学相続疑義・・・」
写本はあるが原本は存在しない。
「善人なほもって往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」
第3章にあるこの段を読んだとき、おや、キリストと同じようなことを言っているで
はないかと思った。「貧しいものは幸いなり。金持ちが天国に入るのは駱駝が
針の穴をくぐるより難しい。」言葉こそ違え、趣旨は同じなのではないか。
歎異抄ではこう続けている。
「しかし、世間の人びとは、そんなことは夢にも考えないし、言わないはずだ。
『あのような悪人でさえも救われて浄土に往生できるというのなら、善人が極楽
往生するのはきまりきってっていることではないか』こういうところが、普通一般
の考え方だろう。」・・・(本書18ページ)実にやさしく説明してくれている。
この教えの根底には、人間は本来罪深い存在である。という「原罪」思想があ
る。ますますキリスト教の教えに近づいてくるではないか。
「悪人正機説」浄土真宗の一番の要点とされるところである。
弥陀の本願、本願他力、摂取不捨・・・元来が宗教書であるが故に仏教用語が
頻出するが、五木寛之氏はこれを噛砕き、分かりやすく教えてくれる。文節や
行間の深遠なる思惟の流れを捉え言葉にするところはさすがである。
われら罪深き「煩悩具足の凡夫(悪人)」はひたすら念仏を唱え、弥陀の本願す
なわち慈悲の心にすがれ。まだわずか数章であるが、これが今まで読んだ「歎
異抄」の印象である。
書棚には「正法眼蔵随聞記」がある。これは長女が大学で教材として買ったも
ので結婚の際の置き土産である。曹洞宗開祖道元の弟子孤雲懐弉が、師に随
侍した嘉禎元年から四年間(1235~40)の記録とされる。在俗信者を含む初心
入道者向けということでは、歎異抄に似た性格の書である。歎異抄とほぼ同時
期の宗教書である。これはまた「学道の至要を聞くに随って記す」だけにやや専
門的で歯応えがあってなかなか進まない。
◇人物画の臨画
次回の水彩画教室は人物画(着衣:コスチューム)です。その準備として今回は巨匠
の作品の臨画でした。
「臨画」は名作の模写とは異なり、手本を見て画法を学ぶことです。明治時代で
は洋画技法を学習するのに有力な指導法だったようです。
模写でない以上、お手本の絵(のコピー)から多少なりとも構成、描写、配色など
巨匠の特徴を学び取ることに努めます。
ところで、今回はお手本に石井伯亭画伯の「チョチャラ」を選びました。1911年(明
治44年)の作品です。石井画伯は明治15年東京の生まれ。父鼎湖に日本画を、
浅井忠に洋画を学んだ、日本洋画界の重鎮の一人です。
本物の絵と自分のつたない絵を並べることは、不遜というか、恥ずかしいという
か、とにかくやりたくないことですが、どれほど努力しても、優れた絵に近づくこと
がいかに難しいかということを知っていただくために、あえて恥を忍ぶわけです。
「チョチャラ」(朝鮮語でしょうか)はバックにある明るい色調の樹や家の前に立つ、
逆光の少女です。普通なら避けると思われる逆光の人物を描いたのは、やはり
ひとつの画伯なりの挑戦だったのでしょうか。私がこの絵をお手本に選んだのも
、敢えて「逆光の難しいシーンをどう描くか」という課題に取り組んで見ようという
ものでしたが、結果的には無謀な挑戦でした。
ごらんのように逆光は完全には暗くはならずに、着衣をはじめ、どこかから明る
い光も入り込んで来て、ハイライトとはまた違う明るい部分が随所にあるようです。
実景を描いているわけではないので、もどかしさがありますが、暗さをどう表現
しているのかが一番の謎、課題でした。
最終的には一旦普通に塗った絵の上に、全体に薄いペインズグレイを刷くように塗
りましたが、そんな簡単なことでは逆光は表現できないようです。比べれば歴然
とします。そのために敢えて恥を忍んで石井画伯の原画(コピー)をも掲載しまし
た。
このような挑戦はもうやめにしましょう。
◇浅草の賑わい
2月7日(木)にパソコンボランティアの有志で浅草を訪ねた。浅草寺訪問は昨年
のお花見以来のこと。
節分の日曜日には時ならぬ雪に驚いたが、前日6日にも雪が降り心配した
が、この日は天候に恵まれ、久しぶりに浅草を楽しんだ。
◇雷門と現代版「時の鐘」
* 正式には「風雷神門」1635年家光公によって建てられたが、火災で焼失し
長らく幻の門となっていたが昭和35年(1960)松下幸之助氏の寄進によっ
て再建された。外人さん(とりわけアジア系)が多い。
* 雷門交差点を隔てて角地に「からくり時計」がある。平成2年ふるさと創生
1億円で誕生したとかで、時間になると文字盤下が開いて人形が踊る。
* 浅草名物のひとつ「観光人力車」。最近路上駐車が公認された。
◇仲見世と伝法院通り
* 仲見世は大正時代に建てたコンクリート造の店が戦災でも焼け残り、狭い間
口ながらにぎわっている。客引きで騒がないところが江戸の矜持。
* 宝蔵門前を東西に走る伝法院通りには景観を重視した小粋な店が並ぶ。
「あれ、屋根には鼠小僧次郎吉が・・・」
* 浅草公会堂前には「スターの手形」が。浅草ゆかりの芸能人の手形268人
が並ぶ。
◇宝蔵門・五重塔
* 本来「仁王門」で、かつてはそう呼ばれたが、後宝物を容れたために「宝蔵
門」と呼ばれるようになった。
* 五重塔も幾度となく焼失している。現在の塔は昭和48年(1973)再建のもの。
中にはスリランカ伝来の仏舎利が納められている。
◇伝法院と鎮護堂・大泉池
* 1777年建造の伝法院は関東大震災も戦災を免れた貴重な建造物。小堀
遠州作と伝えられる庭園には大泉池(非公開)があり、白梅が咲いていた。
* 伝法院庭園隣には狸稲荷の鎮護堂がある。狸が伝法院を火災から守る
鎮護大使者として祀られているという。
◇本堂と浅草神社・被官稲荷
* 本堂も戦災に遭って、昭和33年(1958)に再建された。ご本尊は秘仏聖観世
音菩薩。本堂に上がり「裏観音」さまにもお参りした。
* 浅草神社は浅草七福神の「恵比寿さま」 隅田川で浅草寺秘仏を発見した
檜前浜成、竹成と土師中知を祀る。故に浅草神社の祭礼は「三社祭り」。
* 浅草神社の裏にある「被官稲荷」は、明治維新ゆかりの町火消しの頭領
新門辰五郎建立による。
* 弁天山に「時の鐘」がある。その昔江戸には上野大仏下、日本橋本石町、
目黒不動など9箇所に時の鐘があった。そのひとつがこの鐘楼の鐘。
「花の雲鐘は上野か浅草か」(芭蕉)
◇人形焼と天丼と節分の豆
* 台東区のボランティアガイドさんにずいぶんお世話になった。11時半から1時半
までみっちりとご案内を戴いて、知識も豊富になったがその分腹が減った。
浅草名物もいろいろあるが、天丼にしようかということで、有名な「大黒屋」
へ。20分くらい待って漸く2階に案内された。待つこと暫し。胡麻油で揚げ
るとかで色浅黒く、見た目は良くない。熱いご飯をふうふう吹きながら食べ
おいしかった。もっともお腹が空いていると何を食べても・・・とは言うが。
昔の記憶で定かではないが、なんとなく前のほうが旨かったかな。
* 浅草名物といえば人形焼もそのひとつ。「浅草寺御用」という物々しい店
「木村家」でそれぞれ思い思いの土産を買った。
* 浅草寺の豆まきの豆がが余ったらしく、浅草神社に「どうぞお持ち下さい」と
あったので・・・。縁起物なので有難く戴きました。今夜鉄火味噌にでも。
* 締めは甘味処「舟和」。ここも混んでいてすぐそばで空きを待っている。昔
のデパートの大食堂を思い出した。なんとも落ち着かないこと。