◇ 『おんなの女房』
著者: 蝉谷 めぐ実 2022.1 KADOKAWA 刊
一昨年『化け物心中』で作家デビューし、三つの文学賞をとった新進の歴史時代小説
女流作家の書下ろし作品である。
武家の娘からいきなり歌舞伎という異世界に飛び込み、しかも女形役者の女房となっ
た志乃という女性の奮闘ぶりを描いた異色の時代小説である。作者独特の文体が歌舞伎
役者の世界での志乃の苦労を浮かび上がらせる。
何しろ夫の喜多村燕也はまだ中堅とはいえ人気の高い評判の女形。姿形はもとより、
声も仕草も女に徹する。「平生を女子にて暮らさねば、上手の女形とは言われがたし」
というお師匠さんの教えに従って、振袖を着、化粧をし、髪を結いあげ、女子の言葉を
舌にのせる。決して男の部分を見せない。
揚句、新しい芝居に入るたびに演じる役に成り代わってしまうという念の入れ方。
女の自分よりもっと女らしい美しい女が夫ということで、いったい私は何のためにこ
の家にいるのだろうか。私の価値は?志乃は自問する。
志乃は町方の娘の習い事、三味線、小唄はもちろん料理もやったことがない。あきれ
た燕也がつけてくれた婆やに料理などの指導を受ける。
父親に言われるがままに祝言も上げず嫁いできた。
年増と言われる二十になる前に嫁入り出来たことを最高の上がり目と思い、夫に仕え
ていこうと思い定めて嫁に来た。だが夫は女子の姿だった。
志乃は素直で頑張り屋で、順応性に富んだ女だった。しかも気骨がある。歌舞伎の世
界で女形として名を上げようと努力する夫を理解し、その志を実現してあげようと自分
なりの努力を傾ける。
森田座の立女形だった玉村宵之丞が急死し、急遽代役に挙げられた燕也。最高位の女
形が演ることとなっている時姫の大役を演ることになった。このチャンスをものにせね
ば。
生涯嫁をとらず女形で過ごそうと思っていたが、時姫役を与えられた好機をものにし
て一段上るために、お姫様役を演ずるからにはそれらしくやらねばと、武家の娘を娶っ
たのだった。武家の娘というものを識りたかった。
「役の肥やしにするために私を娶った?…」志乃は燕也が武家の仕草や口癖を吸い上げ
るために私と一緒になったのか、と一時愕然とするのだが「だからお志乃さん、あなた、
私の傍にいておくれな」という燕也。志乃は黙って頭を下げる。燕也の為に、私は武家
の女でいようと心に決める。
役者の女房は、亭主の芸を盛り立てていく為には亭主の気に入る妾を探してきてあて
がうほどの器量がなければいけない。という理右衛門の女房才の言葉に目が開かれる。
女形は女房持ちを隠さねばならないというのに、このところ燕也は志乃をつれて平気に
出歩いたり、一緒に絵を描いたり、軽口を言い合ったりして、志乃はそんな燕也がだん
だん好きになってきていたのに、夫の燕也が森田座の名題の役者仁左次と恋仲だという
噂を聞き心が騒ぐ。仲良しになった役者女房のお富と真相を嗅ぎまわったあげく、逢引
の場だという部屋を覗き込んだ志乃が見たのは、二人が台詞回しを確かめ合っている姿
だった。女形こそが女の理想の姿で、現の女ははしたなくって醜い。
役者の男と結婚したばかりに、夫婦としての当たり前の心の通い合わせが出来ず、し
かし何とか夫の生きる世界を理解し一緒に生きていこうと覚悟したのに、するりと身を
かわされてしまい四苦八苦する姿が痛ましい。
志乃は燕也に男としての姿と心で接してほしいが、女形としての苦心のほどが実を結
んで欲しい気持ちと葛藤がある。
志乃という女房を得た燕也は近頃女形らしくなくなったという。だが志乃は芝居に絡
めとられていく燕也を何とか引き戻したい。そのためには子を作るしかない。夜這いを
かけるが燕也の反応といえば女形の修行に行ってしまい一向に男としての気配がない。
父親が江戸に来て志乃に家に帰って来いという。志乃と燕也は志乃が狐憑きになって
しまったという筋書きで一芝居を打ち父親を諦めさせることができた。
その後燕也はもう俺は志乃なしではいられなくなってしまったと心の内を明かす。
秋になって燕也が病気になった。役者や女郎に多い病という。脳卒中のような症状で、
医者には役者を辞めると言ったらしい。あの芝居狂いの女形が。役者を辞めて煙草屋で
もやるかと志乃にいう。
「やっぱり私は志乃を好いている」と抱きしめられて、女形の女房としての志乃はどう
すればいいのか。折角女形の女房として燕也を盛り立てていこうと決心したのに、今更
男としてややこを作ろうと肩を抱くなんて。
だが志乃は燕也が芝居に未練たらたらなのを知っていた。
かつて想い人だった仁左次がやってきて燕也の行く末について志乃と交わすやり取り
が哀れである。「燕也にこれ以上檜舞台に立つのをやめろと言ってくれ、それが言える
のはあんたしかない。俺はあいつに死んでほしくないんだよ」
こうして人情の機微を巧みに織り込む作者の技量は末頼もしいと思う。
一計を案じた志乃は燕也の引退興行に潜り込み、燕也に芝居仕立てに「舞台を降りる
のか残るのか」と問答を仕掛ける。燕也は十八番の時姫のノリで「森田座稀代の立女形、
演じて差し上げましょう」と応えた。
燕也は芝居を下りることを撤回し、しばらく女形を続けたものの、八月の暑い中ぽっ
くり死んだ。
そして志乃を、ある一人の可憐な女形を無理やり舞台に立たせ死に至らしめた悪女房
という読売が出回り、それが志乃を主役にした芝居になって大入りとなった。
女形を演じるのが好きで、ついに自分の中に男を住まわせようとしなかった夫を真か
ら愛し、芝居道を貫かせた女志乃。彼女こそ真(まこと)の女房といってよいだろう。
(以上この項終わり)