読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

「神田明神」をスケッチ

2019年08月28日 | 水彩画

◇ 神田明神をお参りし社殿をスケッチ

 
  maruman s51A(F1)

 妻が母の日プレゼントに食事券をもらった。しゃりほこ張ったフランス料理や気張った日本料理よ
りも近頃めっきり高くなった「うなぎ」にしようと選択。神田明神裏参道入口にある「喜川」に決め
た。
 明治29年創業ということで老舗らしい格式ではある。ご飯は実によく炊けていたが、味は上品な
薄味だった。個のみからすれば今少し味を濃くしてつゆだくが良かった(これは思っただけ。感想な
ど述べてはいけない)。

 急な階段を上る裏参道の上に神田明神の社殿。1800年位前に創建された。江戸総鎮守で、大国
主命、少彦名命の外平将門も祀られている。
 およそ30分ほどでラフスケッチ。気温が30度は超えているのでとても続かない。彩色は自宅で
やった。社殿の細部は細かく書いたらきりがない。主要な特徴をとらえただけ。狛犬と思しき守護獣
はいかにも番犬(?)らしくなかなかの雄姿だった。

◇ 駿河台の「ニコライ堂」をスケッチ

  
    maruman s51A(F1)

  神田明神を出ると向かい側に「湯島聖堂」がある。江戸幕府の御家人や旗本の子弟が通った塾「昌平黌
 学問所」と言った。
 孔子廟がある。妻が初めてということで見学した。大講堂の前で15・6人の人たちが写生をしていた。
 テーマを絞ったのかほとんどの人が構内の「すだじい」を描き、一人だけ建物を描いていた。

  この構内の門の一つ「杏壇」からJR御茶ノ水駅越しに駿河台のニコライ堂が望める。
 周辺にビルが建って風情が薄れてきたが、現代的なオフィスビルとの対比がまた味があるので急いでスケ
 ッチ。
  家で細ペンで輪郭をとって色を付けた。ちょっとバランスのおかしいところもあるが、まだ雰囲気が脳
 裏に残っているうちにと翌日中に仕上げた。周辺のビルなどは簡略化した。
                                    (以上この項終わり)

 
  

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ドナルド・キーン『思い出の作家たち(谷崎・川端・三島・安部・司馬)』

2019年08月17日 | 読書

◇『思い出の作家たち(谷崎・川端・三島・安部・司馬)

 著者:ドナルド・キーン  2019.2 新潮社 刊(新潮文庫)

 

 2012年に日本国籍を取得したドナルドキーンと交流のあった作家5人について
著した文学論。
 谷崎潤一郎と川端康成は年が離れすぎていて年少の崇拝者という立場であったし、
三島由紀夫と安部公房はまさに親友であり、司馬遼太郎は知遇を得たのは彼らより数
年遅く友人であるが
、まぎれもなく恩人でもあると前書きにある。

 このようにこの本はいわゆる作品評論や作家論ではなく、交友を通じてキーンの直
感で得られた彼らの性格や作品の生まれた背景を率直に記したエッセイである。
割腹自殺した三島から届いた手紙の暗示的な内容などが実に生々しい。
 前書きで著者が述懐しているように、メモや日記をつける習慣がなかったキーンは
もし日記が残っていたら自著『日本文学の歴史』(近代・現代篇)よりも彼らの
られざる逸話を披露できたであろう」と言っている。
 川端が受賞したノーベル文学賞は実は何かの行き違いがあって、実は『金閣寺』で
世界的に知られていた三島の筈であったとか。話にかなりの信頼度があ
り興味深い。

<谷崎潤一郎>
 谷崎は『刺青』1911で文壇に登場した。『独探』1915に強くみられる西洋崇拝熱は
『痴人の愛』1925をピークに、関東大震災で関西に住まいを移してからは日本の伝統
美に回帰し、『蓼食う虫』1929、『蘆刈』1931、『春琴抄』1933などを経て「源氏
物語」1939、『細雪』1942で完結する。谷崎は言う「私の近頃の願ひは、封建時代
の女性の日本の女性の心理を、近代的解釈を施すことなく、昔のままに再現して、しか
も近代人の感情と理解に訴へるように描き出すことである。」(昭和7年)
 著者キーンは谷崎の作品の顕著な特徴は、書くことそのものへの専心にあるとする。
彼の
小説は告白的でなく、いかなる哲学も主張せず、倫理的でも政治的でもないが、文
体の
大家の手で豪華なほど精緻に作られているというのである。 

<川端康成>
 新感覚派である川端康成。『伊豆の踊り子』大正15年(1926)『雪国』昭和10年
(1935)『千羽鶴』昭和34年(1959)などの翻訳で知られ、1968年ノーベル文学賞
を受賞(1972)した。しかし三島由紀夫の自裁(昭和45年10月)の2年後、昭和47年
(1972)逗子の自宅で自殺した。
 川端は、作家は政治や社会の参加者(アンガージュマン)たれと強いられることが何
より苦痛だったという(『文学的自叙伝』)。関東大震災や広島原爆被災に当たっても、
終始冷静な受け止め方をしたため世間的には冷淡であるなどと誤解を受けた。意外なこ
とに日本の伝統に深く浸りながら歴史小説は一つも書かなかった。

 
 著者キーンは
言う。「川端は西洋と東洋との間を行きつ戻りつしていた。『雪国』は
古典文学のどの作品からと特定するのはむつかしいが、全体的な印象としては平安文学
を思わせる。・・・『雪国』の終わり方は、日本のあらゆる伝統的な芸術作品と同様、
じらすように曖昧で、申し分なく美しい」

<三島由紀夫>
 昭和45年(1970)の作家三島由紀夫の割腹という衝撃的な自決が世間を驚かせた。
著者は彼の死は、ある特種な美学にささげられた人生が必然的に行き着いた極点である
とみている。
 彼が死の直前に著者にあてた手紙には「ずっと以前から文士としてではなく武士とし
て死にたいと思っていた」と書いてあったという。
 彼が最期に当たり詠んだ辞世の句2首は無数の武士や
軍人が呼んだ辞世の詩歌の言葉と
心象の寄せ集めである喝破する。
 彼の作品の特徴は日本を初め西洋の古典を熟知し、古典の中に着想の示唆を求め、現
代の物語に翻案した。『潮騒』もギリシャの恋愛小説『ダフニスとクロエ』を下敷きに
しているという。

<安部公房>
 著者キーンは、日本の作家の中でとりわけ親しかった安部公房を「風変わりで驚嘆に
値する友人であることを誇りに思う」という。
 東京で生まれたものの、すぐに満州にわたり幼少期を過ごした安部は、日本への憧憬
と同時に日本からの疎外感を覚えて、土地への愛着を憎み世界主義者のような考えを終
生貫いた。戦後一時共産党に入党したのも社会主義思想的というよりも世界的連携に関
心を持ったのかもしれない。あらゆる形の国家主義と国家への帰属意識を嫌い、そのあ
げく『砂の女』をはじめ多くの小説・戯曲で、名前は物語を煩瑣にするからといって登
場人物も単に男、女と呼ぶのである。
後年戯曲と舞台表現に小説と同等の比重を置いた。

<司馬遼太郎>
 著者キーンは、司馬の歴史小説は過去から復活させた実在の人間たちと彼らが生きた
時代のドラマに命を吹き込んだ。然し日本人が覚える感動は外国人には容易には理解で
きないため翻訳も少なく、ノーベル賞候補にもならないと解説する。 また司馬の作品
の翻訳を困難にしているのは彼の文体であり、彼の文体の特質は熟
の翻訳者をもって
しても大部分は伝達不可能であると言い切っている。
 日本人の、彼の
小説やエッセイに対する崇拝は、司馬その人への崇拝と深い係わりが
あるとする。彼は現代日本人が心に抱く英雄像そのものだったとする。
 キーン自身、司馬は「日本とは、日本人とは」と問い続けた立派な英雄で、彼と親し
くなれたのは稀有な
恩恵だったと最大限の賛辞を捧げている。

 また彼の作品で誰で絵も気が付く特徴「脱線」についても好意的である。
「余談であるが…」と断りながら、彼がある出来事から何を連想したかを読者に伝える
ので、脱線は歓迎される。まさに司馬は自著の登場人物であったのである。

 本書は200ページに満たない著作であるが、貴重な内容の本である。

 

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洋酒グッズを描く

2019年08月14日 | 水彩画

◇ 例年描く洋酒グッズ

  
     clester F6

     日本酒と洋酒のボトルやグラスなどを描くのは恒例となっていて、日本酒は寒い時期に、洋酒は
  暑い時期とだいたい決まっている。 
  今回は2か所のワイン中心のコーナーと、ウィスキー主体のコーナーの2か所となったが、小生
 は持参した往年の銘酒「オールドパー」中心にし、お隣のワインコーナーのワインボトルをお借り
 して構図上のバランスをとった。

  気が付いてみると、ワインボトルのラベルの字が湾曲していなくて直線的で驚いた。後の祭りで
 ある。もっと注意をして描かないといけない。
  ハイライトはいつも置き場によって変わるので苦労する。
  グラスは江戸切子と到来物の珍しい台湾ウィスキーについていたショットグラス。ずいぶん大き
 い。
  オールドパーは高級ウィスキーの代表格で、ジョニ赤、ジョニ黒などと海外旅行のお土産の定番
 だったが、今では3~4千円程度で手に入る。酒税の関係かずいぶん安くなった。

                                   (以上この項終わり)

  

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若竹千佐子の『おらおらでひとりいぐも』

2019年08月10日 | 読書

◇『おらおらでひとりいぐも
 
       著者:若竹千佐子   2018.3 河出書房新社 刊

  

     第158回芥川賞授賞作品。
  読後感は一口で言えば消化不良。その原因はほぼ全編を覆う東北弁(南部藩地
 域?)。
  漢字で表記された言葉は理解できるが、それをつなぐ東北地方独特の表現、表
 音は流石に地元の人でないとすんなりと頭には入っていかない。
  
  愛し合って結婚した夫周造と死別してから15年。74歳を迎えて、二人の子供
 は既に所帯を持っている。やや疎遠な息子と多少こだわりもある娘を持つ寡婦の
 日高桃子さん。
  このところ湧き上がるふるさと風景と空気に懐かしさを覚えながらも、桃子さ
 んの脳裏に時折顏を出す亡き夫の声。次第に現世とは別な世界の存在を信じ始め
 ているが、亡くなった夫との生活を懐かしみ寂しさを覚えながらも、独り身の解
 放感と圧倒的な自由を楽しむ矛盾した感情の交錯に戸惑う姿に共感を覚えたりす
 るのである。

  "おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐ
 も、おらおらで ひとりいぐも。"
 (周造の住む世界、目には見えない世界の存在を信じたい欲求が生まれたのであ
 る)

  孫娘とのやり取りの中に過ぎ去った故郷の生活や亡き祖母の思い出を見出しほ
 んわかした気分を味わっているというエンディングの段を読むと、所詮人生の
 「不在の中の存在」といった哲学的な意味を問いかけるような作品ではないので
 はないか、伴侶に先立たれた多くの寡婦・寡夫の心に巣食うあるいは振り子のよ
 うに揺れ動く不安と希望を、使い慣れた方言によって描き切った小説ということ
 に尽きるのではないかと思うのである。  

                          (以上この項終わり)

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「万座高原の朝」を描く

2019年08月08日 | 水彩画

万座プリンスホテルから万座高原の朝の風景を描く

   
       clester F8

  まだ梅雨が明けていない7月末に万座高原を訪ねました。3年ぶりです。前回は一番奥の日進館に泊まり、
お天気も良かったのでって友人夫婦と展望台までの散歩や池巡りなどもしました。今年は天気予報も雨・雨
だったので、温泉と読書で過ごす予定でしたが、意外と天候の回復が進み、このような爽やかな朝の光景が
得られました。
 円形の山並みが少し気になります。黒々とした木々は樅などの針葉樹です。右側の山肌が出ている斜面は
今は温泉は出ていませんが、この下に万座高原ホテルの源泉があります。
 中景の建物は万座ホテル聚楽です。
 この風景は宿泊したホテル、万座プリンスの露天風呂からの景色徒歩tン度同じです。居室がほぼ露天風呂
の上だったからです。
 青い空白い雲がうまく描けません。今後とも努力します。
                                     (以上この項終わり)

        
 

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