読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

令和のトマト収穫第一号

2019年06月29日 | 畑の作物

今年のトマト収穫一番乗り

  
  
  4月中頃に植え付けたトマトは、ようやく収穫の運びになりました。
  やや鼻につき始めた言いかたをすれば<令和のトマト収穫第一号>。
  昨年も収穫第一号はちょうど今頃でした。

  
  これは普通の「ミニトマト」。
  
  こちらはサントリーの「らくなりごろごろ大玉トマト」

  
   これはおなじみの「桃太郎」
  
   今回初めて作った「麗夏」1
  
   「麗夏」2

  
  「麗夏」3
  
   この畑で最も重量がある「らくなりごろごろ大玉トマト」のひとつ。まだ青いまま、おっとりとして
  います。

                                       (以上この項終わり)
 

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東山 彰良の『流』  

2019年06月23日 | 読書

◇『』  著者:流山 彰良  2015.5 講談社 刊

  
 初めて読む作家の作品。第150回直木賞受賞作品です。
 なぜ今頃この本を読む気になったかというと、先々週のこと、購読紙の文化欄で東山さん
が「九十九の憂鬱」と題して書いたエッセイがとても印象深くて、そういえばお名前は目に
していたけれどもまだ読んでいなかったことを恥じて、図書館で検索したらこの本は競合者
がいなかったのでリクエストしすぐ手にしたのです。

「九十九の憂鬱」で東山さんはこんなことを言っています。「家族を養わなければならない
という重圧にほとんど押しつぶされそうになっていた。私はちっぽけで、だから怒りっぽく、
自分を取り巻く現実にいら立ち、酒ばかり飲んでいた。(中略)そこで私は小説を書き始め
た。…書いても書いてもさっぱり売れなかったが、…ただ、次の一行を書きたいという想い
だけがあった。作家になってからも、私は相変わらずちっぽけで、怒りっぽく、酒ばかり飲
んでいる。」
 ここで私はチェホフがどこかで書いていた教育に関する一節を思い出す。「よく噛むんだ
よ、とお父さんが言う。そこでよく噛んで、毎日2時間ずつ散歩して、冷水浴をした。だが
やっぱり不幸せで無能な人間ができ上った」。
 この物言いがなんとなく似通っていて思わず微笑んだのです。
 世の中どんなに頑張ってもどうしようもないことがある。ちびということで劣等感があり
怒りっぽい作家。でも小説を書くことで、こうした劣等意識も多少は薄れたのではないだろ
うか。

 さて、次に移ろう。「破綻しかけている小説に激しい焦燥感をかきたてられているときも
私は仕事に出かけて行った。好きでもない仕事に縛り付けられているのは何も私一人だけだ
はない。好きなことを一つやるためには、好きではないことを九十九もやらなければならな
い。ときにはなんの意味も見出せないその九十九のしがらみが、本当に好きなたったひとつ
のことを支えている—今もその考えに変わりはないけれど、歳をとるにつれて私は息切れが
してきた」
 これが「九十九の憂鬱」の正体である。東山氏は翻訳や通訳の仕事をしながら小説を書い
ていたのです。好きでもないのに家族のために。なるほどと頷きました。

 作者は日本人だと思っていたら、両親もご本人も台湾人でした。9歳ころから日本に住んで
いるので日本語は堪能です。祖母に怒られて台湾語(中国語?)を話そうとしたけれどうま
くいかなかったそうです。

 そこで『流』のこと。とにかく面白いです。作者は読者を楽しませるためのコツを知って
いて、決して飽きさせることがありません。内容としては自身の青春時代をベースに書いて
いるなとすぐにわかりますが、たいして長く住んではいない台湾は台北の猥雑な下町の様子
やそこに住む祖父両親叔父さんたちなど住民の姿、とりわけ大陸で国共内戦の末に大陸から
台湾に逃げ込んだ祖父やその友達らの姿がえらくリアルに描かれていています。
 回顧する<わたし=薄秋生>はすでに一児の父ですが、小学校からのわるガキのたちとの
武勇伝などは実に生き生きと描かれているし、幼馴染で結婚を意識していた仲良しの毛毛
(マオマオ)との痛々しい失恋話や尊敬する祖父を殺した犯人探しに執念を燃やす健気さも
感動的です。何しろ語り口がテンポよくまた表現力が豊かで、また諧謔的で笑わせます。

作品の最後に<わたし>は述懐します。
人生は続いてゆく。この先何が待っているのか、私にはわかっている。だけど今はそれを
語る時ではない。そんなことをすれば、この幸福な瞬間を汚してしまうことになる。だから、
今はただこう言ってこの物語を終えよう。
 
 あの頃、女の子ために駆けずり回るのは、私たちの誇りだった。)
                              (以上この項終わり)

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下総の採りたて枇杷を描く

2019年06月14日 | 水彩画

◇ 枝付きの枇杷を描く

   
      clester F6

   昨日妻の知人から枝付きの枇杷が届いた。房州の枇杷は有名であるがここは下総。しかし枇杷に
  適した土地柄なのか結構見事な枇杷ができる。枝付きで頂くことはめったにないので早速絵に描い
  てみた。
   葉は濃緑で少し柔毛が生えている。葉の裏は薄緑である。葉脈がしっかりしていて葉にややふく
  らみがあ
るのが特徴である。
   果皮はリンゴのようなつるつるした輝きはなく、桃ほどには柔毛はないがしっとりしている。
  そんな特徴を踏まえて色を置く。
   枝付きの実の方は、採りたての野性味を出すことにして新聞紙に置いた。日本の新聞は見出しの
  文字が脳に直接働きかけ、つい読んでしまうのでてうるさい。そこで英字新聞にした。

   採りたて枇杷の鮮度の良さが伝わってくるだろうか。

                                    (以上この項終わり)
 

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サイモン・トロイの『贖罪の終止符』

2019年06月10日 | 読書

◇『贖罪の終止符』(原題:CEASE UPON MIDNIGHT)
            著者:サイモン・トロイ(Simon Troy
              訳者:水野 恵    



 チャールズ・スミス警部が活躍するイギリス刑事ものシリーズ第6作目。心理サスペンス
と言っているが、それほど心理の綾がものごとの進行に大きく作用してるわけではない。

 イギリス南西部高級リゾート地のシルストーン。村の名士である医師ラルフ・ビューレイ
が突然亡くなった。検視審問では睡眠薬の過剰摂取による自殺と結論が出たが、状況に不審
な点があり事件はスミス警部が自身の休暇を使いながら真相に迫るという構図

 最近婚約した秘書のローナ、弟のレイモンド、突然現れたガーンジー島の女学校経営者ロ
バート、その妻タスミアなど疑わしい人物は少なくはない。しかし一度だけ命がけのサスペ
ンスな場面があるものの、
死因は多量の睡眠薬をどうやって飲ませたかに絞られているので、
とりたてて警部の名推理に拍手喝采というわけでもない。むしろラルフの死に関わりのある
人物らの心理推移、スミス刑事との駆け引き、とりわけ秘書のローナの揺れ動く心理描写な
どが興味深い。
 ローナとレイモンドの関係、ロバートの妻タスミアとレイモンドの関係、亡くなったレイ
モンドの妻ルーシーの死因、亡くなったロバートの教え子の死因などいくつかのからみあっ
た伏線的な関係・出来事などがありすぎて煩わしい面がある。

 チャンネル諸島の一つガーンジー島はイギリス領であるが、ブリテン島からは遠く離れ、
むしろフランスに近い。島の南東部にある小さな港町の情景描写がすばらしい。

                               (以上この項終わり)

 

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『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』 

2019年06月07日 | 読書

◇『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経
        
                        著者:平岡 聡  2019.3 新潮社 刊 (新潮新書)


 

  仏教にしろ基督教にしろ格別の信仰心を持っているわけではないが、日ごろなんとなく
疑問に思っていたことを平易に解説してくれる新書が見つかった。著者は京都の平岡先生。
 葬式や法事などに際し仏教宗派によって形式が異なり、浄土宗は南無阿弥陀仏を称し、
日蓮宗は南無妙法蓮華経を唱えるということは知っていたが、なぜかということは知らな
かった。
 かつて浄土真宗親鸞の説話をまとめた『私訳歎異抄』(五木寛之著)を読み、いたく感
銘を受けたが、この度『南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経』を手にしたのも純粋に知的好奇
心に依るもので信仰上の動機はない。

  親鸞を遡ること40年。のちに親鸞の浄土真宗につながる法然の念仏の教理と日蓮の唱題
の教理・理念の違い、仏教世界での両派の闘い、国家権力からの迫害、迎合と抵抗なども
含め、両派を生み出した歴史的背景も知った。
   時代小説などで戦国時代における浄土真宗の隠然たる勢力や一向一揆の威力などが有力
なテーマになっているのがあるが、後にあらわれた日蓮宗との対立関係と合わせて考える
とまた興味深い。

  本書では序章で法然と日蓮の生涯と思想形成の流れ、第一章で念仏と唱題—専修一行へ
の道、第二章で無量寿経と法華経ー所依の経典、第三章 神祇不拝と法華経護持ー神の存在、
第四章 個人対社会ー国家や社会との関係、第五章 来世と現世―浄土の在処、第六章 諦念と
格闘—苦の受容、第七章 否定と肯定—自己認識 最終章 法然と日蓮―二人の共通点 と仏
教両派の違いが丁寧に説明されている。

  浄土宗と日蓮宗の違いを端的にいえば、浄土へ行くための行(専修一行)としては、法然
の称名念仏(何人も南無阿弥陀仏を称すれば往生できる)、日蓮は専修唱題(何人も南無妙
法蓮華経を唱すれば往生できる)である。
  帰依(南無とは帰依を意味し、英語で言えばembrace
)の対象は法然は<阿弥陀仏>、日
蓮は仏陀の到達した教法<法華経>である(因みに念仏とは「南無阿弥陀仏」を声を出して
称えること、唱題とは「南無妙法蓮華経」を声を
出して唱えることを意味する)。
  また、国家や社会との関係でみると法然の理念では宗教的平等が根底にあり、国家の関与
する余地はない。これに反し日蓮は「立正安国論」に見る通り積極的に国家の関与を認め、
浄土宗のような邪教を排除しないと災難が頻出するなどと説く。戦後創価教育学会の誕生、
公明党の政界進出などはこの流れである。

 法然はこの世は穢土。厭離穢土・欣求浄土、念仏を称し功を積めば、死んで極楽浄土
行くという二元論であるが、日蓮は違う。現世の娑婆世界こそ浄土であり、この世に正法
を樹立しこの国を安寧にするという考えである(ただ流罪で
佐渡に渡ったのち「霊山浄土」
という観念が生まれた)。

 このあと法然の自己省察、自己否定など自己認識の推移、日蓮の自己肯定と懺悔という自
己否定の経過、罪業苦、末法苦、代受苦などおなじみの言葉が解説される。
 
仏教世界では独自の時代的危機感がもたらした歴史観があり、正法、像法、末法との時代
区分がある。今は末法時代にある(平安末期=1052年が末法元年であり1万年続く)とされ、
辿り着いた理念に違いはあるが、万人救済の道を真摯に追い求めたのは法然と日蓮の大いな
る共通点であろう。
                              (以上この項終わり)


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