◇『禁じられたメス』
著者:久間十義 2019.5. 新潮社 刊 (新潮文庫)
2014年日経新聞朝刊に『禁断のスカルペル』として連載された新聞小説を改題し文庫化したもの。
作者は医療分野の小説に定評のある久間十義。テーマは修復(病気)腎移植の妥当性。
2007年に起きた四国宇和島の徳洲会腎移植事件にヒントを得て小説化した。
修復腎移植の妥当性を主張する病院側、これに否定的な移植学会と厚生労働省が三つ巴となっ
て争い世論も二分した。
著者は新聞小説らしく当時まだ厳しい目を向けられていた不倫、親権問題、臓器移植の倫理問題、
移植ネットワーク、臓器売買、闇移植ルート、ゆくりなくも起きた東日本大震災での罹災、果ては歌人
中城ふみ子の歌集を重要なつなぎとして折り込むなどドラマチックな作品に仕立てられている。
主人公の外科医柿沼東子は手術後の打ち上げの高揚感の揚げ句に上司の川端と不倫関係に陥
る。協議離婚では娘の絵里香の親権を夫に奪われる。都落ちした病院で腎移植手術の「神の手」医
師陸奥哲郎を知り、訓練を受け第一級の技術を身に着ける。
東子は臓器売買の窓口を疑われ留置所に入れられたり、臓器移植訴訟の被告として裁判に出たり、
苦難を強いられるが、互いに心を通わせる伊集院という医師と巡り会うが、伊集院は望まれて米国の
大学へ。
思わぬ東日本大震災が起き、危うく難を免れた東子らは被災者救護に奔走する。東子は実の父親
から別れたままの娘絵里香が、重篤性の腎不全であり、病気腎による移植手術を依頼される。ところ
が絵里 香は腎移植手術に同意していない…。
小説としてはタイムリーな社会的話題性があり、状況設定を含めなかなか充実した構成ではあるが、
終段の、自分の娘の腎移植を実の父親から頼まれるという設定は、いかに何でも都合がよすぎて、や
や鼻白むところ。
(以上この項終わり)
◇『とめどなく囁く』
著者:桐野夏生 2019.3 幻冬舎 刊
これまで読んだ桐野夏生の作品では結構ダークで毒のあるものが多かった。この作品は意外で、
ゆったりとした運びだし、いつもと雰囲気が違う。いつ桐野ワールドに変身するのか、期待しな
がら読んでいるが展開が緩慢でいらいらするほどである。終盤でやっと来たーといった調子で落
ち着いた。
今回の作品は割と素直な展開でわかりやすい。しかし心理面では登場人物を丁寧な観察眼で追
っている感じである。
主人公の早樹は結婚3年目にして夫の庸介が相模湾に釣りに出て行方不明になった。残され
たボートの様子からは海難事故とも、自殺とも決められなかった。
7年待って失踪宣告を受けた。その後望まれて裕福な、引退した実業家の後添えとなった。夫の
克典は41歳の早樹とは31歳年長の72歳である。
何不自由なく平穏な生活を送っていた早樹は、元夫庸介の母親に呼び出されて「息子に似た男性
を見た」と告げられた時から彼女の心は微妙な揺らぎを見せ始める。おまけに早樹の父までが「家
の近くで庸介君のような男を見たと言い出す始末。
失踪宣告で区切りがついたはずだったのに、ふたたび疑惑が再発し始めたのである。困ったこと
に元夫の庸介の姿が懐かしく思えたりすることで早樹の戸惑いは深くなるばかり。もしかすると庸
介は計画的な失踪であり生存しているのかもしれない。
早樹はサスペンスフルな状況を解明するために庸介のかつての釣り仲間を訪ねて失踪当時の庸
介の様子を知ろうとする。聞き取りが進むにつれて、次第に当時早樹が知らなかったいろんな事情
が浮かび上がってくる。一番の親友と思っていた美沙すら庸介らと裏切り的行動をとっていたこと
を知り怒りを抑えきれないが…。
克典・早樹らの、とりわけ早樹の心理描写が巧みである。優しそうに見えて冷酷な今の夫の内側
に入れこめないもどかしさ、失踪した元夫への怒りと懐かしさ、揺れ動く早樹の心の裡にどんどん
分け入っていく描写が巧みである。
早樹は調べるのはこれが最後と、接点になりそうな豊橋の釣り堀場に出かけ庸介の足跡らしきも
のを得る。死を偽装してまで姿を隠沙さなればならなかった事情とは何だったのか。
終段における庸介と思われる無言電話での早樹の語り掛けが、早樹のしたたかさを見せて面白い。
これは庸介に違いないと確信している早樹は思いの丈を浴びせかける。蘇った死者に対する怒りと
安堵。早樹の最後の決めセリフ「いなくなってください」は迫力がある。
死を心に決めた庸介の裏切りの告白の手紙「許して下さいとは言いません。許さないでください」
もすごい。
(以上この項終わり)
◇ 「市川動植物園」で写生会
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夏の間休んでいた写生会。今月は電車を使って「市川動植物園」へ。
併設のアスレチックに行く小学生の集団と一緒に公園まで歩いた。ところが一番近い公園へ
の入り口は先日の台風のせいで園内が荒れて入園禁止状態。仕方なく30分ほど歩いて「市川
動植物園」に入った。ほとんど来客なし。数人のおじいさんグループが談笑しているだけだ
った。
温室の中は珍しい熱帯・亜熱帯の植物が所狭しと植わっていて、2階から回遊できる仕掛け
になっていた。
2階通路を歩いていると目の前に10mはあると思われるオオギバショウモドキとタコの木が
そびえていたので,つい圧倒されて描く気が沸いてきた。
実際のオオギバショウモドキの葉脈はもっと詰んでいます。
(以上この項終わり)
◇ 『ロビンソン・クルーソー』(原題:ROBINSON CRUSOE)
著者:ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)(刊行300年記念新訳)
訳者:鈴木 恵 2019.8 新潮社 刊(新潮文庫)
最初に読んだのは70年近く前のことではっきり言って内容はよく覚えていない。あるいは
『ロビンソン漂流記』だったかもしれない。
出版されたのは1719年のこと。300年前のことである。古典ともいえる作品であるが、冒険
小説の走りであろうか。
ロビンソン・クルーソーはイギリスの北部ハルという地で生まれた。二人の兄は戦死や行方不
明で、父は末っ子のクルーソーには法律家などになって真っ当な生活をしてもらいたかった。
しかしクルーソーは小さい頃から家を出て遠い国々に旅することを夢見て、中庸の生活が幸せ
をもたらすのだ、家を飛び出して冒険などするなという父の言葉を聞き一時は感じ入ったが、何
日かしてすぐに海への憧れが頭を持ち上げた。
ついに18歳のある日家を飛び出したクルーソーは、友人である船長の息子の誘いでロンドン
へ旅立つ。船は暴風に出会い沈没してしまう。近くを通った船に救助され、ヤーマスという港
に着いたクルーソーは、二度と海に出まいと思ったが、航海への憧れは止み難く、またもや船に
乗る。船長は親切で、数学や航海術を教えてくれた。小さな交易収益も得て、さらなる飛躍をと
願った矢先、トルコの海賊船に襲われてしまう。しかもクルーソーは海賊船長の奴隷におちる。
そして2年経った。だが機を見るに敏なクルーソーは同じく奴隷のムーア人の少年とともにボ
ートを盗み遁走し、はるか南のヴェルデ岬を目指した。途中岸に近づきムーア人から水や食物を
分けてもらうなどしているうちにブラジルの船に出会い、又も親切な船長に拾われ事業の便宜も
図ってもらった。ブラジルで耕地を増やし、たばこや砂糖キビの栽培などで豊かな生活を獲得し
た。
4年経った。またもや遠い国を放浪するという悪い癖が出てニグロ奴隷の売買に手を出すとい
う話にのって船出する。
しかし悪いことはできないもので船は暴風に遭遇し、クルーソーは一人無人島に打ち上げられ
る。九死に一生を得たわけであるが、幸い船にはパン、小麦粉、干し肉などの食料や衣類、大工
道具、銃、弾薬、帆布、ラム酒、などおよそ今後の生活に役立つ品々が残っていて、これらを使
い工夫しながら島での新しい生活を始めることになった。雨風をしのぐ小屋は作った。崖に食糧
庫なども掘った。ただ話し相手がいないことはつらい。
島の中央部には草原があってブドウやメロン、レモンやなど果物があり、快適な土地なので小
屋を作って時々滞在する。稲や麦も栽培した。山羊や鳥、海亀などがいて食料には困らない。
丸太でカヌーも作った。遠洋には向かないので本格ボートにも手を出した。時間だけはたっぷ
りある。丘に登ってみても、助けてくれそうな船の姿は見えない。
15年経ったある日、浜辺に蛮人の足跡を見てけ愕然とする。それは人喰い人らが生贄の獲物を
引き連れて来た足跡で、その後チャンスをとらえて獲物の一人を救い(フライデーと名付ける)
従者とした。なんとフライデーは1・2年で英語も覚えてクルーソーは長年渇望していた対話を
楽しむことになった。
フライデーに聞くとこの島はトリニダート島の南に位置することが分かった。
漂着から26年。また島に獲物の西洋人を連れた蛮人がやってきた。クルーソーらは銃器を駆使
し3人を助ける。
今度は大きな船舶の船員がボートを使ってやってきた。謀反を起こした船員が船長らを捨てに
島にやってきたのだ。クルーソーらは巧みな戦術で謀反人らを逮捕し、船長らを助けた。謀反人
らは島に残し、船舶を取り戻して祖国を目指す。島にいたのは28年と2か月19日だった。
祖国英国の帰ったクルーソーは、ブラジルの農地などを処分し、世話になった関係者に十分な
お礼をしてもまだ多額の資産が残った。リスボン経由ブラジルを訪ねるクルーソーはその途次懐
かしい島を訪れる。
この作品で作者が一番言いたかったのは何だろうか。漂着してから20年位経ち、島でのそれな
りに安定した生活の中にあって、クルーソーの念頭を去来するのは神の存在であった。
歳若い頃は信じてもいなかった神。一人孤島に生かされているのは神の恩寵と悟る。船に残さ
れた書物の中にあった聖書を読み、神と対話する次第にかなりのページを割いている。また従者
となったフライデーには自分なりに神の恩寵などを解説している。
クルーソーにとっては、父の忠告に従わなかったことへの反省もあるし、課せられた厳しい試
練に神のご加護と恩寵を願うような信仰心の芽生えが大きな収穫だったのではないだろうか。と
いうことは無人島での苦闘と再起を通して神の恩寵を悟る姿を示すのが狙いだったのかもしれな
い。
『<完訳>ロビンソン・クルーソー』から参照した島の位置関係、詳細図が載っていてずいぶ
ん助けになる。
(以上この項終わり)
◇『失踪』(原題:Missing:NY)
著者:ドン・ウィンズロウ(Don Winslow)
訳者:中山 宥 2016.12 KADOKAWA 刊(角川文庫)
主人公はアメリカ中西部ネブラスカ州警リンカーンの署元刑事フランク・デッカー
(通称デック)。
ヘイリーという5歳の少女が誘拐された。警察犬、ボランティアを含め警察組織を
総動員して捜索したが一向に足取りがつかめない。
3週間が経過した。署内ではヘイリーはすでに殺されているという雰囲気にある。
これまでの間、アメリカにおける子供の失踪事案の標準的処理が詳細に描かれる。
警察署・保安官事務所・州警・FBI・地域ボランティア・捜索ヘリの連携で児童誘拐
緊急展開部隊が編成され、効率的に捜索が行われる。なにしろ統計的には誘拐殺人事
件に遭う子供のおよそ半数が発生から1時間以内に殺される。犠牲になる子供の3/4
は、最初の3時間以内に殺される。3時間以内に発見できなければ、いつか発見でき
る可能性は急激下がるというのだ。1日当たり5人の子供が殺されるというアメリカ
ならではの実態がある。このため全米行方不明・被搾取児童センターなど専門の組織
がある。
一時麻薬常習者であった母親と行方不明の父親も疑われる。リストに載った小児性
愛犯歴者もアリバイを洗われる。
3週間経ったそんな中、第二の少女誘拐事件が発生する。なんと8歳の女児は殺さ
れていた。犯人と思しき男を逮捕したが、ヘイリーちゃんとの関連は全くわからない。
署内では二つともこの男の犯行という線で動き始めた。
署の捜査方針に釈然としないデックは、ヘイリーが生きているという確証もない
まま、妻との離婚も覚悟をしつつも、課長昇進を前に警察を辞め、自力でヘイリーの
足取りを追う。
ダラス・ヒューストン・サンアントニオ・オースティン・ニューオリンズ・メンフ
ィス…。全国的に報道されたためにSNSなどを通じて種々雑多の情報が飛び交う。
デックはそんなネット情報の中に「ヘイリーちゃんを見たかもしれない」という書
き込みを発見した。発信者はNY州ジェームズタウンのエブリン・ジェンキンズ。
デックはNYへひたすら車を飛ばす。どうかまだ死んでいないように。
この後デックは芋ずる式にいろんな人物と会う。ガソリンスタンドの目撃者、有名
な写真家、写真のモデル、慈善団体の理事長、高級娼館女主人、ヒッピー夫婦、NY
市殺人課刑事、同風俗取締官、マフィアの親玉など。複雑に絡み合う人間模様を切り
分けながらヘイリーの痕跡を追う。
ついに本ボシに迫りヘイリーを取り返す取引に臨んだはずであったが、意外な人物
が現れて…。
デックは、元警官にしては結構荒っぽいハードボイルドな立ち回りを演じ、危機一
髪のところでヘイリーを取り戻す。しかし妻は帰っては来なかった。現職復帰を勧め
られたが断った。
一匹狼はどこへ行くのか。
(以上この項終わり)