読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

奥州道中を歩く(その5)

2007年12月27日 | 里歩き

白坂から白河へ
 
 いよいよ「白坂宿」に入る。右に曲がる道は「旗宿道」。古官道「白河の関」へ
  至る。
 「大垣藩士酒井元之丞戦死之所」という碑があった。白河は戊辰戦役激戦の
  地、あちこちに戦死者の碑などがある。
 皮籠(かわご)の交差点を越えると、左手に「金売吉次の墓」がある。吉次は
  奥州藤原秀衡に仕え、源義経を守り奥州平泉まで送り届けたことで知られる
  が、京に砂金などを運ぶ役目を担っていたため常に賊に狙われていた。
  吉次三兄弟はここ皮籠で賊に襲われついに命を落とした。吉次ゆかりの義経
  は、後に盗賊どもを打ち取って三兄弟の墓を作った。
 道の反対側には二十三夜塔、並びには地蔵尊がある。

    
  大垣藩士戦死の碑    金売吉次の墓      二十三夜塔       皮籠の座り地蔵

 この辺りで見る那須連山の雪景色は見事であった。スキー場のコースがよく
 わかる。
 座り地蔵の先には一里塚跡がある筈だが今はわからない。わずかに一里段と
  いう地名が残っているのみ。我ら二人は一里段の交差点脇のコンビニで温かい
  お茶を買って飲んだ。

 坂を下ると交通量の多い「与惣小屋交差点」。左に向かう道は新白河駅で1キ
  ロとある。
 最近開発された団地の中を進むと、道は急角度で右折する。松並という地籍で、
  戊辰戦役の激戦地であった。大きな木下に会津藩戦死者に墓、向かいには長
  州大垣藩士の墓がある。
 すでに大政奉還が行われたにもかかわらず薩長連合と討幕派公家は運悪く京
  都守護の役に当たっていた会津藩など東北諸藩打倒を図る。追討の軍を進め、
 ここ白河で奥羽(会津・仙台・棚倉)諸藩連合軍と薩長大垣軍が激戦を展開、多
 くの戦死者を出した。東北連合軍の拠っていた「小峰城」は陥落した。

       
     那須連山       会津藩士の墓    長州大垣藩士の墓

 やがて道は九番町交差点で左折、三番町で「谷津田川」を渡る。この先天神町
 で右折する
 と典型的な枡形道となる。ようやく中心市街地になって食事処が出てきたし、時
 間も1時と不足はないので「麹町庵」というお蕎麦屋さんで食事をとった。久しぶ
 りカツ丼を取ったが、美味であった。カツ丼は当たり外れがあって、まずいとが
 っかりするが、使っている豚カツと出しの甘辛加減が好みに合っているとおいし
 くて、とても得した気がする。我が局はたぬきうどん。

  新幹線の予定は15:15。これから終点「女石」まで歩き、在来線の白河駅ま
 で戻って、15時の電車で新白河駅に着けるか。かなり窮屈だ。
 食事もそこそこに道を急ぐ。所々に旧い家を見かけるが、問屋場、本陣跡、
 脇本陣跡など宿場の三点セットは、すでに過去のもので、どこにあるかもわか
 らなくなっている。
  横町の信号で右折し、JR東北本線の下をくぐる手前で、すごいお店を発見し
 た。その名も「成金屋」。ご商売はお豆腐やさんで電話は1283(トーフヤサン)。
 有限会社ではあるが、すで財を成して十分に成功したのか、はたまたこれから
 成功し財を成すぞという覚悟なのか。金文字の成金屋さんの意気たるや壮とい
 わざるを得ない。

  
    
   二番町の旧い家       横町の旧い家    田町のすごい店

   
「田町大橋」で「阿武隈川」を渡る。ややのぼりの坂道で、この先に「女石」があ
 るはずだ。つい急ぎ足になる。
  峠を越えると遠くに追分の三叉路が見えてきた。右が松前道、左が会津越後
 道という。ここが幕府道中奉行の管轄の境目で、しかも重要な追分なのに何の
 標もない。
  追分の山の斜面に「仙台藩士戊辰戦役碑」、明治二年建立の「戦死供養塔」
 があった。五街道完全踏破のハイタッチはこの墓所でひそかに行われた。
  本日の歩行距離はおよそ24キロ。

      
      阿武隈川      仙台藩士戊辰戦役供養塔   戦死供養塔

    
       白河駅           小峰城

     



  


  

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奥州道中を歩く(その4)

2007年12月24日 | 里歩き

芦野宿から白坂宿へ
 昨夜は温泉に浸かっている間雨が激しくなっていたが、夕刻には上がり
 夕日が差してきた。日帰り温泉館の湯殿の上からは白い湯気がもうもう
 と上がり、いかにも掛け流し温泉らしい豪華な雰囲気がある。(掛け流し
 でなくとも同じような湯気が上がるのだが・・・)
 あくる朝も早く起きて温泉に入った。いたって温泉好きの我が局は「朝か
 ら温泉なんぞに入ったら、とても歩けないわよ」と悔しそうである。
 いつもは7時食事、8時出発が標準であるが、ここの宿は食事は7時半。
 なぜなら最近ほとんどの宿で定着したバイキング形式はとっていないから。
 コシヒカリのご飯(粥の選択もある)、実沢山の味噌汁、半熟(目玉の選
 択もある)玉子、鰆の味噌漬け焼き、ひじきの煮物、漬物、梅干など食
 が進む朝食だった。

  結局8時10分頃に出発。サンダルとぞうりが供えられている何とか大神とい
 う石碑があるところで街道に復帰する。ここは西坂といって菖蒲川を渡
 り国道294号を横断すると奈良川を渡った所に大きな「座り地蔵」がある。
 半跏姿の珍しいお地蔵様である。ここが宿場の南の入り口で、左に曲が
 りと少し宿場らしい雰囲気が現れる。家々に屋号を記した石燈篭が立っ
 ている。しかし家の造りは現代のものなのでなんともちぐはぐで、中山道
 の妻籠・馬籠に見られる徹底した街道景観の保存とはなっていない。多分
 一時期宿場資源の保全と活用に熱心に取り組んだ人がいたが、組織化
 が不十分で、宿場全体のものに結集できなかったか、意気込みを持続
 できなかったのかもしれない。なんとも残念なことである。
 右手の高台は御殿山といって「芦野城」、「桜ケ城」とも呼ばれ芦野氏陣屋
 跡がある(芦野宿は交代寄合旗本芦野氏の城下町)。
 街道には旅籠造りの「山本屋」、蔵座敷で有名な安達家の旅籠「丁子屋」
 がある。丁子屋は現在は「うなぎ屋」である。

              
       座り地蔵      石灯籠「米屋」       安達家「丁子屋」


 明治天皇御巡幸記念碑を見て、右手に折れて坂を上る。角は番所があっ
 たところで「仲町の道標」がある。左手には「枝垂桜」の古木がある「平久
 江家の門・構え」がある。江戸時代の武家屋敷の遺構として貴重とされる
 が入れなかった。ここは芦野城大手口に当たる。道の置くには御神木の
 アスナロの古木(樹齢600年)で知られた「掦源寺」がある。
 さて街道に戻り進むと左手には「本陣跡」に作られたという「石の美術館」
 がある。隅研吾氏設計になる当地の「芦野石」を用いた斬新なデザインの
 美術館である、失礼ながら「鄙に稀なる」と形容をさせて頂こう。

          
            枝垂桜        平久江家門・構え    道標     本陣跡・石の美術館

   

  建中寺は芦野氏菩提寺である。この寺の墓地は杉の巨木が立ち並ぶ間
 に墓石があり、珍しい墓地である。
 道は枡形に曲がり、宿場のはずれ橋の袂に「新町の地蔵尊」がある。国
 道を過ぎって田圃道の先に「遊行柳」、湯泉神社「上の宮の銀杏」がある。
 遊行柳は謡曲「遊行柳」で知られ、西行法師、芭蕉、蕪村の句碑もある。
 「上の宮の銀杏」は樹齢400年というが、その容姿は雄大端麗で感動する。
 道は国道をそれて左に入り峯岸の集落となる。

           
            芦野宿枡形道      建中寺       遊行柳        大銀杏


 更に進み横岡から国道に別れ板屋の集落に入る。深い切り通し道の両
 側に「板屋の一里塚跡」がある。かつては道はこの塚跡に沿ってあった
 はずで、今はとんでもないところに碑が立っている。
 芦野宿外れから一里ほど歩いて脇坂でまた国道を歩くことになる。更に
 2キロほどで座り地蔵を見たら道を左にとり国道を離れる。間の宿「寄居」
 である。公民館(廃校の小学校か。)敷地で、薪の柴を背負って本を読ん
 でいる姿の懐かしい「二宮金次郎像」を発見。田舎でなければお会いで
 きない。その先に「与楽寺」という風流な感じの寺がある。

       
     板屋の一里塚跡       同左          寄居の座り地蔵     二宮金次郎像

    
             与楽寺


 再び国道に復帰した先に「泉田の一里塚跡」がある。またしばらく行くと
 山中大久保というところで再び道は国道を離れ左の道に入る。ここには
 「初花の清水碑」、「瓢石」がある。東海道箱根路にある鎖雲寺に「飯沼
 勝五郎と初花」の墓があり、「箱根霊験いざりの仇討ち」に由緒が述べら
 れているが、共通の仇滝口上野を討つ前に足の病を得た勝五郎が、夫
 婦となった初花とここで養生したようだ。飯沼勝五郎はこの先の棚倉藩の
 武士だったようだ。

    
    泉田の一里塚跡       ひさご石


 道は再度国道を離れ、山中の集落に入る。「明治天皇小休所跡」がある。
 風もなく薄日の差す道を行くと、これまでに見たことのない立派な「馬頭観
 世音」の石塔があった。見知らぬ男性が寄ってきて「これはなんて書いて
 あるんでしょうね」、「馬頭観世音と思いますよ」、「こんなのが多いですね
 ここいらは」、「信仰心が篤いのでしょうか」、「この先の山腹に大きな仏
 像があります。降りて見ようと思っても車の止め場所がなくて・・・」
 どうやら車であちこち見て回っているようだ。歩けばいいのに。
 昨夜降った雨はこのあたりでは雪になったようで、北斜面ではうっすらと
 雪が積もっている。

   
   馬頭観世音        山腹の石仏      うっすらと雪が・・・


 道は少しずつ上り坂になりその先に「玉津島神社」がある。これは下野の
 「境の明神」であり、県境を越えると陸奥の「境の明神」、「住吉神社」があ
 る。
 道は下り坂となり、途中に弘法大師が衣をすすいで着替えたという「衣が
 えの清水」がある。池のようなものがあるが、芭蕉や曾良もここに寄って
 休んだという。

     
        玉津島神社         県境          住吉神社

 
    衣替えの清水


 (第4話終わり)

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奥州道中を歩く(その3)

2007年12月24日 | 里歩き
芦野宿に向けて
 前回は大田原宿・練貫十字路まで歩いて、東北新幹線那須塩原駅から
 帰った。今日は9:45に到着、駅からタクシーで練貫に向かった。
 12月で予定が空いているのは18日(火)と19日(水)だけ。天候さえ悪く
 なければ何とか今年中に奥州道中を完踏したいと思っていた。そうすれ
 ば五街道完踏達成だ。

 「今朝は、私の感じでは今年一番の寒さだ」とタクシーの運転手は言った。
 しかし降り立ってみれば、思ったほど寒くもなく、風もなく歩くにはもって
 こいの陽気である。そうなると足取りも軽い。
 500mほど先に十九夜塔や宝暦6年(1756)建立という道標がある。「右
 奥州海道左原方那須湯道」とある。
 2キロほど行くと左手に「樋沢神社」がある。鳥居はちゃちであるが、陸奥
 平定にむかう八幡太郎義家が丘上にあるこの八幡神社(樋沢神社)を見
 つけ、戦勝祈願をと一気に駒を駆け上がらせた。その勢いでついた蹄跡
 だという大石がある「義家愛馬蹄跡石」という。なるほどよく見ればそれら
 しい窪みがあるが、馬の蹄で石が抉れるとは。「ほんまかいな」と思ってし
 まう。傍らにはつづらに似ているという「葛籠石」がある。
 更に進むと切り通し道の崖上に「鍋掛神社」があり、急な石段を登ると、右
 側に小さなこんもりした盛り土がある。「鍋掛一里塚跡」である。元は50m
 ほど東にあったものを道路開設時にここに移転させたという。
 
        
       十九夜塔           道標             蹄跡石

          
        葛籠石           鍋掛神社       鍋掛一里塚跡       


 [鍋掛宿]・[越堀宿]
 この先で十字路脇に子育て「清川地蔵」がある。
 整備された県道脇の家は今様の造りで、既に宿場らしさをほとんど失って
 いる。ただガードレールの代わりに丸い自然石を使っており、風景に柔らかさ
 が生まれている。このユニークさには感心した。
 左手に「加茂神社」があり、境内には芭蕉の句碑「野を横に馬牽きむけよ
 ほととぎす」がある。またその隣にある「正観寺」にある枝垂桜は樹齢250
 年という古木で見事である。

         
     丸石ガードレール      芭蕉句碑       枝垂桜        那珂川      
 
 「那珂川」に架かる「昭明橋」を渡る。
 今でこそ那珂川は穏やかで、翡翠のような緩やかな流れが蛇行し、釣り人
 が立つ川面には崖上の緑を映すなど、橋上からみてもなかなかの風景で
 ある。Web上のある人は「幽玄の美」と表現しているくらいだが、かつては
 荒れ川で、川留めになると宿場の収容限度を越えるために、近隣村から
 鍋釜持ち寄って炊き出しを行ったという。宿場名を鍋掛とした所以である。
 川を渡ればそこは「越堀宿」。
 仙台藩伊達候が参勤の折、那珂川の川留めに遭い、小屋を建てて待機し
 たのが契機になって宿場となった。従って開宿は正保3年(1646)と遅い。
 橋の先で右に曲手に曲がる。右手は「白河の関」に向かう関道。
 川渡し場にあったという「黒羽藩領界石」はいま「浄泉寺」にあり、傍らには
 「明治天皇駐輦碑」、「御膳水碑」がある。

 やがて三叉路があって、左が「那須湯海道」である。その手前民家庭先に
 立派な石碑がある。「征馬之碑」、「殉没軍馬之碑」があった。昭和13年と
 ある。この地の人々に限らず、かつては牛馬は農耕、運搬の重要な担い
 手であり、その貴重なること命の次位であった。戦雲急となり次々と徴用
 されていく愛馬との別れを惜しむ気持ちは察するに余りある。これまでも
 これからも馬・牛への愛着を偲ばせる石像や記念碑などに出会うことに
 なる。西洋にこれほど人馬一体感を示すものはあるだろうかと思う。

          
        黒羽藩領界石      征馬之碑

 さて閑話休題。
 三叉路から二十三坂七曲といわれる道を上り下りして富士見峠に向かう。
 途中昼時なったので、やや高台の田圃の畦道に腰を下ろし持参のおにぎ
 りを食べた。
 ところが空が俄かに暗くなり、怪しげな雲行きとなってきた。天気予報では
 こんなふうには言っていなかったのに。
 雨がぽつぽつ落ち始めた中で富士見峠を越えた。昔は富士山も見えたの
 かもしれないが、今は木々も高く茂り眺望は望むべくもない。
 やがて道は間(あい)の宿「寺子」に至る。交差点脇に「寺子一里塚跡」が
 ある。ここも道路開設に伴う移設組である。
 「余笹川」を渡る。平成10年余笹川は氾濫し死者・行方不明6名など甚大
 な被害をもたらした。電柱に胸丈ほどの水位であったと印がある。
 これから黒川まで3キロほどアップダウンする山道を進む。

       
    寺子の一里塚跡     余笹川の「はしか地蔵」     馬頭観音

 寺子橋を渡り、石田坂を上っていく。「べこ石」という一群の碑がある。
 那須野が原は原は畜産が盛んで、街道を歩いているといたるところに
 畜舎があって牛、豚、鳥などの糞尿の臭いがする。思えば中山道の岐
 阜山中にも畜舎があって閉口したことがったが、ここでは大々的でほと
 んど切れ目がない。ここで生活している人たちは慣れっこになっている
 のだろうか。
 黒川橋を渡る。黒川も氾濫した。橋桁に当時の最高水位線が記してあ
 る。橋全体の全面冠水寸前であったことが分かる。


 山裾を迂回する形で小さな集落に出ると、田圃の先に小さな
 鳥居が見えてくる。大小二つの石があり、その前に石の鳥居がある。
 「夫婦石神社」である。その昔人に追われた夫婦がここにある石の隙間
 身を隠して難を免れたという言い伝えがある。
 やがて右手に「夫婦石の一里塚跡」が現れる。
 赤い屋根の家があったら左に入る。大きな馬頭観音がありその先で左
 に曲がった。ここで街道を外れ本日の宿「芦野温泉ホテル」に向かう。
 NETで調べて、この街道にはここしか宿泊できるところがないということ
 を知った。福島県境にある「芦ノ牧温泉」は聞いたことがあったが初めて
 の温泉で興味があった。

       
    石田坂の「べこ石」     スズキホルスタイン牧場       黒川橋

        
       夫婦石神社      夫婦石一里塚跡       馬頭観音

 坂道を500mほど辿るとホテルが現れた。うりものの50面テニスコートだけでな
 くペンション、売り物市場などもある。
 到着は午後2時。14.5キロを4時間で歩いたことになるが、山道とはいえ
 この街道はつらいことはなかった。
 ありふれたアルカリ単純泉なるもPH9.8という珍しい温泉。掛流しで、肌が
 超つるつるになる気持ちのいい温泉です。部屋もゆったりしているし、薬
 湯などもあって、ゆっくり湯に浸かって湯上りのビール(中で580円!)を飲
 み、夜は妙に気取らない和食で熱燗など(1本だけ)も飲んで爆睡した。

    
     芦野温泉ホテル
   
 
 
 
 
  
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師走の築地市場

2007年12月23日 | その他

魚河岸のすごさ
 いや~参りました。魚屋さんって大変ですね。早起きが半端じゃないから。
 多分30年ぶりくらいか魚河岸に行きました。その頃は場外しか公開してな
 かったでしょう。江戸銀本店ですしを食べた記憶がかすかにあります。

 三女夫婦から誘いがあって、”築地市場に行かない?” 行く行くと言って
 二つ返事。
 朝6時前におきて朝食もそこそこに、築地にて8時集合。何せいいものは
 早く売れるから・・・な~んていっぱしのことを言って出かけたら、仕掛けた
 張本人は遅刻(でも15分だけ)。もう荷物を下げて帰る人がいます。 
 築地本願寺前を通って、場外市場を抜け「波除神社口」から入りました。
 忙しく立ち回るカートに追いまくられ、怒鳴られ、「スミマセン」と小さくなって、
 市場内を見学して欲しい品物を選んで・・・なんてことはとても出来ません。
 値段と品質を比べてという余裕はないので適当なところで手を打って買う
 しかありません。後ろをカートや台車がすごい勢いで行き交っています。
 命あってのものだねといった感じです。
 それでも数の子、マグロのブロック、マグロかま、帆立その他は正月用品
 というより本日の「忘年会」用。場外市場では削り節や卵焼き、乾き物など
 を買いました。

 築地といえば移転騒動。昔大井に移転するとか、あそこで再編整備する
 とか二転三転しました。今度こそ豊洲に移転かと思ったらば、シアンや砒
 素などの土壌汚染が表面化、賛否両論でどうなるのかまだ分かりません。
 水産物、青果物で一日3,300トン、20億円の金が動くという世界一の市
 場の行方はどうなるのか。市場には外人の姿も多く見られました。いまや
 東京の隠れた観光スポットのようです。

  朝の10時からビールで乾杯!朝から忘年会をやったのは初めてです。
 築地市場は正式には「東京都中央卸売市場築地市場」場内は日曜日と休日
 はお休みです。ただし2日以上は休まないそうです。 
  
        
         波除神社       マグロ解体前       こわいカート    見たこともない大きな貝

   
    帆立とマグロかま    おいしかった!


  

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人物を描く

2007年12月05日 | 水彩画

椅子に座る女
  久しぶりの人物画。先週はその前哨戦として、巨匠の絵を臨画しました。
  臨画がうまくいかないことの言い訳になりますが、やはり対象が目の前
  にあって、自分の見た感じを表現することには敵いません。

  外見からは見えない骨格を見定めて、そこに肉付きを、更に人体を覆う
    着衣の微妙な線の流れ・陰影を描く。
  顔・首の位置と傾き。肩の線との角度。上腕の曲がり具合と肘の位置。
  手と指の形、大きさ。腰の位置と大きさ。大腿部、膝、脛、脚と足の長さ・
  大きさ。それらすべてが均整が取れていないとなんとなく不自然で人体ら
  しくなくなるのが不思議です。

  「手と足は実際見えていると思う以上に大きめに描いて、丁度いいバラ
  ンスが生まれます。」といつも先生に指摘されます。頭もそうです。つい
  大きく描いてしまいます。
  
  モディリアニのように細長い卵形の顔、極端に長い首、瞳のない目などは
  写実的にちゃんと描けるようになってから、その先にある姿なのでしょう。
  われわれは先ず目の前にある人物をあるがままに、というか自分が見
  たように描くことが先決です。それでさえままならないのが現実ですから。

  今回のモデルさんは齢のころなら25・6の学生さんでした。冬の時期だけ
  に衣装が厚く、坐像だと骨格や肉体の全体像を想像することが難しく、
  バランスをとるのが一苦労です。
  手はかなり意識して大きく描いたのですが、まだ小さめではないかという
  のが先生の評価でした。
  頭は気をつけたのですが、案の定大きめになってしまいました。

    「見た目以上に美人に描いてくださいね。」と言ったのは、ご本人ではなく
  て先生でした。


    
   
  

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