◇ 『無罪』(原題:INNOCENT) 著者: Scott Turow
訳者: 二宮 磬 2012.9文芸春秋社 刊
スコット・トゥローの傑作『推定無罪』の主役ラスティ・サビッチが再登場する。 23年前、検事
補を殺した裁判で無罪を勝ち取って、いまや州最高裁判事に立候補するという栄光の座を目
前にしたラスティは、かつて検事補殺しで彼を訴追し、いまは地方検事代行の座にあるトミー
・モルトに妻殺しの容疑で再び法廷に引きだされることになった。
上訴裁判所判事のサビッチと地方検事代行のモルトの因縁の対決が始まった。
話はサビッチ、トミー、サビッチの息子ナット、サビッチの不倫相手のアンナの口で語られる。
サビッチの妻バーバラは心臓疾患を抱えた重度の躁鬱病患者。ある日ベッドで傍らに寝た妻
が死んでいるのを発見する。しかしどういうわけか彼はその傍らで24時間も何もせずにすごし、
訪ねて来た息子ナットに促されてやっと警察に届け出る。遺体発見後の空白時間にいったい
何があったのか。かつて検事補殺しで一敗地にまみれたモルトはサビッチ追い落としの執念に
燃える部下の検事補ジム・ブランドに迫られて、ついに再びサビッチ訴追に踏み切る。
薬の過剰摂取なのか、夫サビッチが飲ませたのか。自殺なのか、夫による謀殺なのか。法廷
で明らかになるいくつもの状況証拠の積み重ねで、検察側の決定的勝利にたどり着いたと思っ
た直後、新たな事実が明らかになる。
本書は前半でサビッチ判事の不倫関係と家庭事情が語られ、後半で法廷シーンが展開され、
最終段で父と息子の対話の中で真相が明らかになる。
検察側は不倫の事実( 実はバーバラの死の1年以上も前からサビッチは判事付きの調査官
アンナと不倫関係にあった)、サビッチの離婚相談、薬剤の危険性検索、薬剤瓶の指紋等から
十分な殺害動機・実行機会・犯行隠蔽の証拠ありと検察側は主張するのであるが、法廷では
かつての裁判でサビッチを無罪に導いた親友弁護士スターンは娘のとこれに敢然と立ち向か
う。
法廷の攻防過程で山場が何度かある。
①強力な抗鬱剤フエルジンの購入し、一緒に摂ると4倍の作用が現れる(死の危険も)食べ物
を買ってきて与えていた。
②バーバラは銀行小切手受領書から夫の不倫と離婚意図に気が付いた。
③法廷尋問過程で、サビッチのパソコンの中から妻が書いたと思われる、サビッチを陥れる内
容のメッセージが現れる。
④サビッチが裁判妨害(パソコン操作)で有罪を認め、殺人は否認する司法取引を申し出る。
⑤実はブランドがパソコンに細工をしていたことがわかった。やむなくトミーは有罪取引の無効、
起訴の取り下げを申し出る
⑥ナットに「お父さん、ほんとのことを話してほしい」と言われたサビッチは、妻の自殺と自分が
24時間かけて考えて行き着いた、ことの真相を語る。
それにしてもサビッチの浮気相手アンナは、別れた後息子のナットといい仲になってしまうの
だが、ナットは父とアンナの関係を全く知らない。スリリングではあるがちょっとあり得ない話で
はないだろうか。いつかひょんなことでばれるのではないかと余計な心配をした。
(以上この項終わり)
◇ 今頃出回っている野菜
CRESTER F6
トマト、ナス、胡瓜・・・を差し置いて、ゴーヤときゃべつ、トウモロコシ、パプリカ。
去年描いた野菜は止めようという単純な選択基準で登場した野菜をおよそ2時
間で描いた。あとで手直しもしたが、風景画に比べれば構図が決まれば比較的
簡単である。
トウモロコシの粒や、ゴーヤのいぼいぼなど丁寧に描いていたら日が暮れる。
トウモロコシである、ゴーヤであるということが判別できる程度に描けないいの
だが、あまりいい加減でもいけない。その「程度」が決め手である。
キャベツの葉脈は葉っぱの葉脈と違って太くてはっきりとしている。色抜きで
いくことも考えたが、太いところは最初から塗り残した。細いところはあとで水で
色抜きした。葉脈をはっきりと描くとキャベツだということがわかってもらえる。
新聞紙においた野菜はそのまま新聞紙も描いた。これも新聞紙だということが
わかる程度に活字っぽく描く。しわを入れると一段とそれっぽくなる。
背景色は野菜を浮き上がらせるためには或る程度濃くした方がいいのだが、
これ以上濃くすれば新聞紙が白なので、上の方が重くなって落ち着きが悪くな
る。これも程度ものである。
(以上この項終わり)
◇ 最終目的地高田に向けて歩く
<二本木宿~新井宿>
7時に朝食をとって、8:20に信越線で二本木に向かった。
今日の天気予報は晴れ。
高田駅は何とも瀟洒な造りで昔の駅舎からは想像もできない。普通商店街のアーケードと呼ばれる
歩行者用通路は、ここでは「雁木(がんぎ」)と呼ばれる。
二本木駅には9時ころ到着。早速歩き始める。
藤沢の一里塚跡は分かりづらいところにあったらしく発見できなかった。
小出雲坂というゆるい坂道を越えると賀茂神社。
新井宿中心部に入る。左手に市神社参道がある。
「君の井」という地酒の造り酒屋があった。
石塚の一里塚跡を過ぎると、 道端に昔懐かしい草刈りいちごを発見。手を伸ばしたが一緒に
歩いている妻女に止められた。ばっちいというのである。子供の頃、夏休みの、水遊び向かう道
は熱い砂利道だった。そんな道端にこの草刈りいちごがたくさん生っていて、夢中で食べたもの
だ。ばっちいなんて思わなかった。今も健康である。
庚源寺の先の道端にちょうど盛りの額あじさいがあった。関東ではすでに盛りは過ぎているの
だが。
雪深いこの地では、最近つくられる家はおしなべて御覧の通り3階建の立派な御殿の
ような家。
耐震と除雪と防寒と・・・というとこんな造りになるのか。
<新井宿~高田宿>
諏訪神社を過ぎると信越線の踏切を渡る。足を踏み出そうとしたら警報が鳴り始めた。ちょうど
回送電車が通過するところ。撮り鉄男に早変わりしてパチリ。
瀬渡川の袂には明治天皇行在所跡。
橋を渡り切って、信号を右に入ると茶屋町で、この先大和小学校の前には「弘法の清水」の碑
があった。
信越線脇野田駅近くに来春開業予定の北越新幹線「上越妙高駅」が出来ていた。
高田新田交差点には伊勢町一里塚跡と伊勢町口番所跡の碑が立っている。
町家の家の前にある雁木(がんぎ)はそれぞれ私有地で、冬場の歩行者のためにつなげて
屋根を掛けている。積雪の多い地方の思いやりである。市内の雁木総延長は16kmとか。
そんな雁木の一角に高橋飴屋がある(栗飴翁飴本舗:十辺舎一九の「諸国道中金の草鞋」
に登場する。またここの笹飴は夏目漱石の「草枕」にも登場する)。
「札の辻」は高札場跡。
街道筋からは外れるが、折角なのでおよそ2キロ離れた高田城址公園へ。高田城は天守閣
のない平城で、三重櫓が天守の役を果たした。この三重櫓が復元されている。高田城址公園
は広大な敷地で、夜桜は有名である。
昨夜泊ったホテルの前を過ぎて 小町問屋街跡碑などを見て進むと、本町七丁目交差点に
着く。
ここが北国街道の終点で、加賀街道と奥州道の分去れである。
かつてここにあった分去れの道標はこの少し先の宇賀魂神社の境内に移されてある。
これで昨年4月から始めた北国街道歩きが終わった。途中残念なことに牟礼宿で2キロ
ほど中抜きしたので完全踏破とはいえなくなったが、21宿(松代道経由)122町146キ
ロを歩いたことになる。
最後20キロくらいで足がつって困った。東海道歩きで35キロ歩いた時も足がつったが、
これでは先が思いやられる。歩くことが健康にいいのは分かっているものの、もはやこ
のような街道歩きはしない方が身のためかも知れないと、いささか弱気になっている。
(以上この項終わり)
◇ 今日は七夕雨の中
昨日、野尻湖の宿「藤屋旅館」到着後すぐに沛然たる雨に見舞われた。湖畔の宿3階の部屋からは
面積3.75平方キロ、水深38.5mの野尻湖が俯瞰出来た。
雨はいったん止んだが、また夜半から雨音を聞いた。
翌日は七夕。しかしこの日は終日雨で、雨合羽と傘で歩き通した。
<野尻宿~関川宿>
旧街道はトンネルをくぐる国道18号を越えてから合流し、野尻坂峠を下る。
旧国道のスノーシェイドを2回くぐって、赤川の集落へ。
信越線のガードをくぐると「一の橋」。その奥上に上信越自動車道・信越大橋が見える。
関川を渡る橋は関川関所(復元・見学は有料)に通じている。
明治天皇関川行在所址は関川本陣(大石家)跡でもある。
関川宿に次いで合の宿の上原(うわはら)宿がある。
<関川宿~田切宿>
上原宿を過ぎるとスキー神社。ここ妙高高原は1910年旧陸軍高田師団がオーストリアのレルヒ少佐
を招き、我が国に初めてスキーを紹介した地ということもあってスキーのメッカとなっているせいか。
毛祝坂を越えると妙高高原北少学校の校庭内に一里塚跡があるということであったが確認できな
かった。
国道18号の下をくぐって白田切川を越えると田切宿。田切宿には合の宿「二俣宿」が続く。
<田切宿~関山宿>
二俣宿から再び国道18号に合流するが、本来の街道は工事中ということで通行できず、「妙高大橋」を渡る。
長い橋で、大型のトラックが通り過ぎる時は差している傘が持って行かれそうになる。
坂口新田の旧庄屋さんの庭内に案内柱があった。
この後国道から離れ、静かな街道をしばらく歩いていくと道は泉地蔵のところが曲手で、直角に曲がる。
関山神社がある。
<関山宿~二本木宿>
いかにも街道らしい道を進むと北沢の一里塚跡。その後馬洗い場の大石に次いで「市屋の一里塚
跡」があるはずであったが、見つからなかった(見落とした?)。
信越線を越えて進むとそこは合の宿「松崎宿」。
やがて安楽寺を過ぎて、二本木宿に入ると、本陣跡のような立派な構えの家の脇に明治天皇小休所跡
があった。
今日はここまで。二本木駅で信越線に乗り、高田のホテルに宿に泊まる。
明日は引き返して、またここから歩くことになる。
(以上この項終わり)
◇ 不完全踏破の北国街道
昨年11月末に千曲(戸倉宿)から豊野(神代宿)まで歩いてしばらく中断していた北国街道歩き
を再開した。最終ラウンドである。当初は4月に歩いて最終の宿場高田で高田城の夜桜をなどと、
能天気なことを考えていたが、4月の山道の積雪などを考えると、とても無謀なプランであることに
気が付き再検討しているうちにいろんな予定が入って、梅雨時に歩かざるを得なくなってしまった。
<神代(かじろ)宿~牟礼宿>
10時半にJR信越線豊野駅に着いた。住居地域の一隅に道標がある。これより右かしわばら、
是は善光寺みち。昔懐かしい「のこぎりの目立屋」があった。
観音堂からすぐ山道に入る。
秋には実る真っ赤な大きなリンゴもいまはこれくらいの大きさ。
神代宿の大石。急坂が3.2K続く。ぶどう畑も小さな房を付けていた。
途中から細い山道に入るはずであったが見当たらず、どこでどう間違えたか、怪しげな広い道を進
んでしまった。しかも道が封鎖されていて、これを乗り越えて進んだのだが、橋桁を建設中の谷間に
出会う羽目に。
引き返して向かった道で漸くリンゴ畑のおじさんを発見。道を訊ねて正しい道をたどることが出来た。
実は柏原に住むK氏と食事を共にする予定であったのだが、予定が狂ってしまった。途中の白坂一里
塚跡まで車の出迎えを受けて、キセルのようにおよそ2キロを中抜きしてしまった。これまでにない失
態である。
<牟礼宿~柏原宿>
K氏、I氏にお昼を御馳走になって、牟礼宿の中心部飯綱役場前に。この常夜燈の前が本陣跡に当
たる。證念寺の前を直角に左折し十王坂を上る(左に十王像)。
信越線をまたぐと、右に入る道があって「北国街道」の案内板がある。
すぐに小玉坂の急坂に入る。「熊の糞を見たら引き返せ」という話を聞いていたので、中山道で手に
入れたクマよけの鈴を持って行かねばと思っていた。そのうち忘れてしまったので、恐る恐る歩くこと
になったが、今日は日曜日で熊もお休みのようで、会わなくてよかった。
この道は「美しい日本の歩きたい道500選」のひとつとか。
小玉坂はおよそ3.5kmある。
道は立派な杉木立の中を進む。小玉一里塚跡、清水窪明治天皇小休所などがあって、落影集落
の四ツ角に着く。
この後国道18号に合流、小古間のバス停から左に入り旧街道を進む。
小古間は眺望に恵まれ、飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山の4山を望むことが出来るというが、残
念なことに今日は山はほとんど雲に覆われていた。
この先に古間一里塚跡があった。
古間は上杉謙信時代から宿場であったが、江戸時代になって柏原宿と合の宿となり、月の後半は
古間宿が馬の継ぎ立て業務を担った。
<柏原宿~野尻宿>
国道18号を渡り、古間上町へ。小林一茶の故郷らしく随所の一茶の句を刻んだ石碑などが見ら
れる。
古間・柏原は昔から鎌の産地として有名で、今でも店が何軒もある。
本陣跡を過ぎて、信越線の踏切を渡る。鳥居川を寿橋で渡り坂を登ると再び18号と合流する。
左に一茶の旧宅(「これがまあ終の栖か雪五尺」の土蔵)。その傍らには弟の家がある。
その先右側には柏原宿本陣跡が。
更に3キロ近く歩くと野尻一里塚跡がある。一里塚跡としてはなかなか立派なもの。
野尻湖は我が国ではめずらしいナウマンゾウの化石が見つかった場所として知られている。
(マンホールの蓋の意匠とナウマンゾウ博物館)
明治天皇野尻御膳水碑があった。
海抜865mの野尻湖は、軽井沢・宮城県高山と並び日本三大外国人避暑地として知られている。
(以上この項終わり)