◇ カサブランカとバラその他
知人が定年で退職することになった。大学の先生なので定年65歳。
あちこちから花束が届いて、飾りきれないので貰ってくれないかと我が家に届いた豪華版
花束。いまどきのカサブランカとバラが主役、黄色の百合もカサブランカの一種?そして白
いストックとかすみ草のような小さな白い花、そしてはじめてお目にかかる小さな桃のような
形の花。
せっかくなので絵に描かせてもらった。
派手な花束なのでいつもより大きめな8号(460×380mm)で、水張りをして臨んだ。
主役はもちろんカサブランカとオレンジと赤いバラ。端役の花々は目立ってはいけないので
一応ちゃんと描いたうえで、きれいな水で何度かさっと刷いて引っこんでもらった。
ところが白い花に余計な色が入り込まないようにマスキングをして万全を期したのが大失敗。
マスキング液を薄め過ぎて紙面に浸みこんで剥がせなくなってしまった。したがってカサブラン
カの花弁が薄汚れてしまって気の毒な事をした。ストックの白はナイフで削った。遠くから見れ
ば分からない。今までもなるべくマスキングに頼らないようにしていたのだが、今回の失敗を教
訓にする。
ビロードのような赤い薔薇の色は、混色ではなかなか出せない。
Clester F8
(以上この項終わり)
◇ 『強襲』(原題:THE BOLD THING) 著者:マ―ク・ダニエル(Mark Daniel)
訳者:山田久美子
1998.4 新潮社 刊(新潮文庫)
競馬を主題とした小説の作家と言えば、ディック・フランシスが余りにも有名だが、図書館で日本語版
題名『強襲』という文庫本を見つけ、しかも表紙に馬が描かれていたので、もしかしてディック・フランシス
の作品ではないかと手に取ってみたら、マーク・ダイエルという、私には初めての作家の作品だった。
(ディック・フランシスの作品は翻訳担当の菊池光氏か出版社早川書房の発案か知らないが44に及ぶ
作品の題名は常に二文字になっているのが特徴である(尤も原題自体が常に短い)。)
舞台はアイルランド。厩舎「バリシーナン」の嫡子としてに生まれ育ったミッキー・ブレナンは、何不自由
なく育ち、英国のプレップ・スクールに進んだ。しかしミッキーが16歳のときに父親は財産を失いバリシ
ーナンもアイルランド系アメリカ人キャシー・クレーマーの手に渡ることになった。
ミッキーは一応学校は出たものの働くしかなく、調教師の道に進むことになる。だが悪質な飲酒運転で
事故を起こし、2年間実刑で刑務所に入ることになる。出所したもののかつての知り合いも冷たい視線。
再び競馬の世界に足を踏み入れることもならず、性に合わないセールスの仕事にあえいでいたころ、幼
馴染のチャールスがかつての我が厩舎「バリシーナン」の持ち主キャシーが厩舎の経営を任せたいとい
う話を持って来てくれる。
懐かしいバリシーナンの現在の所有者キャシーは身体が不自由で車椅子生活。姪のジェニーはかつて
アメリカの音楽業界で働いていた。競馬の世界はほとんど素人だが、厩務員のスクリーチなどの助けを
借りて厩舎再建にとり組む。バリシーナンの最大の資産は、名馬「サンソヴィーノ」。一回の種付料は9千
ポンドで1シーズンに40~50頭と働く。
ところでご存知の通り北アイルランドはイギリスと永年にわたって血みどろの争いを続けているところ。
アイルランドが19世紀初頭、独立を模索し始めたところカトリック支配を懸念するプロテスタント系住民
(特にアルスターなど北アイルランド諸州)は独立反対、英国支配反対を叫び、テロ、誘拐、脅迫に走る
ことになった。IRA(アイルランド共和軍)、RUC(王立アルスター警察隊)、UVF(アルスター義勇軍)な
どが入り乱れてお互いをたたき合っているという悲劇が続いている。
さて、こうした中でキャシーに対し共和国のために9千ポンド払えという強迫が舞い込む。なぜなら種
牡馬(しゅぼぼ)のあげる収益には課税しないという制度があるため。その一部をアイルランド共和国民
に払えというわけだ。
キャシーはアメリカ・ボストンの生まれなので、筋の通らない金はびた一文払う気はないと突っぱねる
が、このグループは厩舎の牝馬や種牡馬などを傷付けたり、火を付けたりと嫌がらせを始める。ミッキー
も正義漢ながらこれくらいは払うしかないかと思っているが、頑ななキャシーのために競馬の仕組みを
巧みに使い、莫大な儲けを生み出し、脅迫グループにも儲けさせることで彼らをなだめることを企む。
ジェニーやスクリーチ、友人のチャーリー、騎手のジョージなどと共に、水も漏らさぬ仕掛けを作ったの
だが…。意外なところから水が漏れてしまう。
男の慾と思いあがりそして一途な愛、女の功利・浅知恵と理想主義、さまざまな魂胆や思惑が錯綜す
るがついにチャーリーはサンソヴィーノを救い出し、ジェニーとの結婚にこぎつける。競走馬の出産場面
や障害レースでの騎手の興奮と緊張などなどがリアルに描かれ、競馬ファンでなくとも結構わくわくさせ
る競馬サスペンスである。
巻末で山本一生という競馬史研究家が解説を書いてるがこれがまた素晴らしい。いかに馬を愛して
いるかが良く伝わってくる。
(以上この項終わり)
◇ 水戸の梅は七分咲き
水戸街道の終点を確かめて、梅まつりの真っ最中の偕楽園へ行こうとタクシーを待っていたが
なかなか通らない。バスも休日ダイヤでなかなか来ない。いらいらしていたらまたあの7人組の
街道歩きのご一行に出会った。彼らも五街道を歩き切ったらしい。何となく”同士”のような親しみ
がわいた。「我々は偕楽園まで歩きます。」と言われて、ちょっと悔しかったが歩く元気がないので
頑固にバスを待って水戸駅へ。乗り換えて「偕楽園」まで行った。
今日はお天気も良く、お彼岸の休日とあって偕楽園は大変な人出だった。
梅は見たところ平均5分か7分咲き。木の種類で異なる。千波湖を望む芝生地からの眺望は見
事だった。
ちょうどお昼時。珍しい「ハマグリ弁当」があったので買い求め、芝生に腰をおろし弁当を使った。
いばらきコシヒカリ使用と謳っているだけに、なかなかおいしかった。
「好文亭」は昨年の地震で被害を受けたが、今年2月に修復が済み公開していた。
(以上この項終わり)
◇ 石岡宿から一路水戸へ
<石岡宿>
前回石岡宿まで歩いたのが昨年の5月。ほぼ1年ぶりの街道歩き。
朝7時前に家を出てもJR石岡駅に着いたのは8:30.早速駅中のショップで「トーストセット」(350円)
をとって朝食。
普段和食で通している身としては少々腹が落ち着かないまま8:45に出発。
橋の欄干には石岡名所の案内が、また、道路には水戸街道の主要宿場を紹介した陶板が埋め込ま
れている。
石岡駅
1キロもしないうちに石岡の一里塚が現れた。道の両側にまだ塚が残っているのは珍しい。何代目かの
榎がすくすくと育っていた。
石岡一里塚
<竹原宿>
石岡宿の次は竹原宿。その入口にある竹原神社の手前で男女7人連れのグループと一緒になった。
やはり旧水戸街道を歩いていて、今日は概ね20キロ地点の長岡宿で泊まりとのこと。
この辺りから望める筑波山は頂きがひとつに見える。
今日は白い雲がちらほらという快晴であるが、筑波おろしか、北西からの風が冷たい。
竹原神社 筑波山
<片倉宿>
竹原宿からおよそ一里ほどで片倉宿に入る。
脇本陣跡の立派な土塀と門構えの家。加藤家の門(元庄屋で天狗党に家が焼かれ門だけ
残って移築した)。
片倉北信号の角に「かど屋」という旅館がある。まだ現役の旅籠である。
加藤家復旧門 本多家 かど屋
巴川を越えると石舩神社があり、斜面に双体道祖神があった。中山道の信州辺りではよく
見かけたが、この辺りでは珍しい。
見事な桜並木が続くが、残念なことにまだ蕾状態である。
<小幡宿>
巴川 石舩神社 双体道祖神
寛政川を越えて国道6号と合流すると、千貫桜の碑がある。かつて桜の巨木があり、水戸
光圀公が「千貫の値打ちあり」と賞でて有名となったという。
この辺りが小幡宿。
東関東自動車道(閑散)を越えると次は「涸沼川」。
涸沼川に架かる高橋の近くには立派な茨城町役場の庁舎が見える。
道は小鶴信号で左にとる。
小鶴という集落に珍しい土蔵があった(佐久間米店)。近くの瓦屋根の立派な造りの家も
昨年の地震で瓦が落ちてまだ修復が済んでいない。道々こんな家がたくさん見受けられた。
瓦屋さんの手が回らないのだろう。
千貫桜の碑 東関東自動車道 茨城町役場 涸沼川
小鶴信号 佐久間米店
<長岡宿>
涸沼前川を長岡橋で渡る。
この地は茨城町なので下水のマンホールの蓋の意匠は「梅に鶯ホーホケキョ」である。
長岡宿は水戸街道最後の宿場である。復元された木村家は脇本陣であった。もともと庄屋で
問屋の役目も担った。茅葺ながらしっかりとした造りである。(無料公開)
この先左手にある柏屋肥料店の隣の建物はいかにも元旅籠のような雰囲気。
長岡橋 茨城町のマンホール 木村家
柏屋肥料店
やがて「北関東自動車道」を跨ぐ。
1キロほど進むと東野町の信号で左の道に入る。
今日は昼食をとる店がなく、昼抜きで歩いたし、そろそろ歩行25キロを越えてしんどくなって
きた。
一旦街道をそれて、今日の宿泊場所「ホテル・シーラックパル水戸」に向かう。茨城県庁の隣
にあるビジネスホテルであるが、そこまで約1.5キロある。
珍しく脚が攣ってきて参った。
県庁は移転して10年以上経つのだろうか。広大な敷地に議会棟、県庁、県警、開発公社等
々関係機関が立ち並び、道路は車道も歩道も広く堂々としたビジネス街である。
疲れた足を引きずりながら、最上階25階に上がって市内を展望した。筑波山方面、東海村方
面、偕楽園方面と天候も良くはるか彼方まで見晴らせた。
北関東自動車道 茨城県庁舎
<水戸街道終点・水戸城下へ>
8:20頃危うげな脚を引きずって街道に復帰。吉田小学校の交差点を越えると一里塚三差路が
ある。左の道を行く。元吉田町である。台町交差点の先で左に行くと「薬王院」がある。
「薬王院」は、享禄2年(1529)建立で、室町期の建築物としては関東随一と言われる。本堂は国
の重要文化財。藁ぶきの仁王門は珍しい。五輪の塔は、早逝した初代水戸藩主水戸頼房の次男
亀千代(4歳で早世)供養のため建てたもの。本堂は唐様の雄大な造りで見事である。
薬王院仁王門 本堂
薬王院の先に吉田神社がある。境内から水戸の街が見下ろせるが、高い建物も増えて景観は余り
よろしくない。
吉田神社 吉田神社
吉田神社を下りた道を北上すると、「銷魂(たまげ)橋」に出る。江戸街道(水戸街道は水戸では江戸
街道と呼ばれる)で旅する人はここで別れを惜しんだそうだ。
「銷魂橋」は「備前堀」に架かる。備前堀は関東郡代伊奈備前守忠次が慶長15年(1610)千波湖の
溢水対策として延長15キロの用水掘をつくった。
「江戸街道起点」という石柱が立っているが、実はこの先で右折し、水戸本町商店街を抜けた「けんし
ん」の交差点に、仙台方面に向かう奥州街道の脇街道「陸前浜街道」の起点があって、ここが正確な
水戸街道の終点という説もある。なぜなら、明治5年千住から陸前岩沼(宮城県)までを陸前浜街道と
するという通達が出されたことによる(そのうち国道〇〇号という制度になった)。
ということで念のためにここまで進んで水戸街道完全踏破とした。お疲れさん。
日本橋~水戸城下まで12宿29里19町(116km) である。普通旅程2泊3日という。 これだと1日
40キロ歩かないと行けない。女・子供・老人の脚では難しいのではなかろうか。
銷魂橋 江戸街道起点 備前堀 陸前浜街道起点
<水戸街道歩きの記録>
1. 2008. 9.18 日本橋~浅草
2. 2008. 9.19 浅草~千住
3. 2008. 10.13 千住~松戸
4. 2008. 11.24 松戸~柏
5. 2009. 1.5 柏~藤代
6. 2009. 10.13 藤代~牛久
7. 2011. 1.8 牛久~土浦
8. 2011. 5.6 土浦~石岡
9. 2012. 3.22 石岡~水戸
(以上この項終わり)
◇ 朝の食事はパンで
我が家の朝食は基本的に和食(ごはん食)。だから水彩画教室でモチーフに「朝の食卓」を取り
上げても私は協力できない。
割り当ての人が自分の家から朝食で使っている「パン食」の一式を持ってきて、みんなで描いた。
2回にわたって描いたが、1回目のときに一応カメラには収めはしたものの、2回目に「あのパンは
食べてしまった」とか、「シュガーポットは忘れた」とかでちゃんとした臨場感で描けなかった。
毎度のことながらポットのガラス、ティーカップの磁器、珈琲の壜のガラスなど、器質感を出すのが
苦労するところ。特にポットの透明なガラス。器の材質、向こう側に透けるテーブルクロス、中身の紅
茶、これらをうまく組み合わせることで器質感が表現できると思うのだが、理屈と実際はなかなか一
致しない。
もちろん背景にも思い悩んだ。
Clester 6F
(以上この項終わり)