読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

昭和の森(群馬県)でリンゴ狩り

2008年10月31日 | その他

赤城山麓昭和の森
 障害者施設のボランティア仲間9人で、恒例となりつつある年一回の一泊旅行
 に出かけた。
 昨年は箱根だった。
 メンバーは10人なのだが、今年は事情があって1名欠けて9人の旅行となった。

 週間予報どおり良い天気に恵まれ、秋晴れの高原の空気を満喫してきた。
 10月も終わりに近いので朝晩は肌寒い。赤城山北麓の標高300から800
 メートルというと筑波山頂(878m)くらいはあるので寒くて不思議はない。

 急ぐ旅でもなく、夕方宿に着けばいいので、各駅停車の高崎行きに乗って、
 電車が動き始めるのを待ち兼ねて、今回の旅行の成功を願って何度も乾
 杯する。通勤列車にも最先頭と2両目はボックス席がついている。我々のよ
 うな旅人には誠に都合がいい。

 幹事役が気が利いていて、昼食は高崎駅から少し歩いて予約客しか入れな
 いような本格蕎麦屋に入った。もちろん蕎麦通がいて、早速酒を頼む。蕎
 麦屋に酒はつき物。蕎麦を挽いて、打って、うでて、食するまでおよそ2合は
 いける。
 ところが9人で3升盛りを頼み、しかもてんぷらまで取ったため、その夜の食
 事が入る余地が殆どなくなるという始末。
  教訓:ものごとは程ほどをもって良とすべし。

 「昭和の森」というとあちこちにある(近くでは千葉市緑区、昭島市、猪苗代
 町にもある。)。ここは群馬県利根郡昭和村、今度50周年記念行事をする
 というれっきとした村である。温泉があり、コンニャクと高原野菜とリンゴが
 うりものということで、メインはリンゴ狩り。ゴルフ場を見下ろす昭和の森山荘
 の木立の中でバーベキューも楽しんだ。

           
        昭和の森山荘         紅葉もそろそろと   ゴルフ場から上信越の山並みを


    リンゴ狩りはゴルフ場に隣接した「○○りんご園」で。予約木とかオーナー木
   とかがあって、我々ビジターが採れるのは木の列が決められている。
   群馬県で産み出された「陽光」、「新世界」が主であるが、新世界は既に採
   入れが終わっていて、実際は生っているのは陽光だけ。なるたけ高いとこ
   ろにあって、陽にたっぷり当たって赤くなっているものを採る。なにしろ入園
   料込みで1キロまで(大体3~4個)が500円となっているから。
    試食は食べ放題。皆さんの意見では、新世界のほうが紅玉に少し近い酸
   味があると好評であった。
    直売・発送で5キロ箱が飛ぶように(10箱以上)売れた。

       
       先ずは試食       果枝の根元には既に来年の芽が出ています。感動!

         
            陽光です          若奥様がももぎ方指導    見事な色・大きさ

      
  
     これは「王林」?    高崎駅でのポスター 「待つことが苦手な人がいます」
                     普段気がつかないことをアピールしている高崎市と
                     群馬県に
敬意を表します。

     

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柏市 神明社の例大祭

2008年10月17日 | その他

旧昭南町神明社例大祭十二座神楽

  自転車で10分程度のところにある「神明社」は歴史が旧く、とりわけ
 「十二座神楽」は市の無形文化財に指定されており、毎年出かけて細々
 とながら貴重な文化財の継承に懸命な努力を払っている塚崎地区の皆
 さんに敬意を表してくる。

        
       神社正門           参道            裏参道

       

        本殿            神楽殿

  遠い昔、私の田舎の鎮守様は百段からの石段の上に神社があって、
 (伊夜比古さまといった)子供らは月に一回はみんなで清掃を行った。例
 大祭には大きな幟が立てられ、笹の葉に包んだ赤飯を供え、半分を持ち
 帰りみんなで祝ったものだ。

  10月17日は「神明社」の例大祭日。朝から花火が上がって近隣に知ら
 せがある。
  10時から神楽殿では柏市無形文化財指定の「十二座神楽」が奉納され
 る。
  お神楽の出し物は「巫女」、「大幣」、「天宇女命」、「玉取り」、「狐」、「湯
 笹」、「鐘旭」、「大蛇退治」、「恵比寿」、「猿田彦」、「餅投げ」、「天岩戸」の
 12の舞。
  昼過ぎに行ったため、恵比寿の舞、湯笹の舞、猿田彦の舞だけ見た。
 「天岩戸の舞」は大人数の舞で、いまや後継者難で演ずることが出来ない
 とか。特にこの神楽は、ここ塚崎地区の氏子さんの長男にしか出演資格
 がないという厳しい縛りがあって大変らしい。さすがに「婿さんでもいい」と
 いうことになったが、それでも若手が段々減ってきたという。見ると太鼓の
 おじさんは80代。無形文化財維持も容易ではない。

 最後の出し物は「餅投げの舞」。舞の中では数個が投げられるだけだが、
 舞が終わると12箱の餅が一斉に投げられ、善男善女が急に餓鬼の如く
 「私に投げて!」、「こっちに呉れ!」と叫び、投げられる餅に殺到する。
 落ちた餅を取り合う。まさに餓鬼地獄だ。でもたくさん撒くのでそのうちの
 何個かはちゃんと足元に転がって来る。有難く頂きました。

  昔は結婚式(祝言といった)や建前え(棟上げ)ではよく餅が撒かれて、
 子供には何よりの楽しみであった。建前では隅餅といって一際大きい餅
 (一升餅といった)が撒かれ、これは大人同士の取り合いになった。
 ただ懐かしいだけであるが、偶にこのような餅撒きがあると、遠い昔が蘇
 る。


      
     恵比寿の舞                        湯笹の舞
  
      
    猿田彦の舞                         餅投げの舞

      
    餅投げの舞           餅投げ        戦利品・紅白の餅


  この神社には宝暦年代の石鳥居、手水鉢など市指定有形文化財があり、狛
 犬さんも堂々たる趣がある。

          
       宝暦7年の石鳥居  狛犬

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旧水戸街道を歩く(その3)

2008年10月13日 | 里歩き

◇ 千住宿から新宿(亀有)へ
   前回は千住宿は河原町辺りまで歩いた。今日は「東京芸術センター」の交差
 点にある「一里塚跡」、「高札場跡」の石碑と、芸術センター広場脇にある「問屋
 場跡」、「貫目改所跡」の石碑を確認する。前回日光街道を歩いたときは、放置
 自転車がごちゃごちゃしていて、雑然としていたが雰囲気は様変わりに見違え
 るほどきれいになっている。
  当時江戸には「江戸四宿」といって、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日
 光道中の千住宿、甲州道中の内藤新宿の四つの宿場があったが、千住宿は
 天保15年(1844)には人口9,956人とトップであった。

   300mほどいくと右手に入ったところに都税事務所があって、そこに「森鴎外
 旧居橘井堂森医院跡」の碑がある。森鴎外の父親がここで橘井堂という医院
 を開き、鴎外も東大医学部卒業後陸軍医官に任官し、ここから人力車で陸軍
 病院に通ったことなどが書いてある。鴎外の文筆活動もここで始まったこと、
 医師開業申請もここで出されたとのことである。


         
     一里塚跡    高札場跡    問屋場跡          森鴎外旧居碑

  更に400mほど北上すると宿場通りという商店街になる。そのとば口、左が元
 本陣跡。その後このあたりは花街となり、昭和初期には遊郭の大店が軒を連
 ね、芸妓も5、60人はいたらしい。今は「本陣跡」はおろか花街の面影もない。

  更にこの商店街を進むと、右手に紙問屋横山家がある。木造2階建ての商
 家の構えは貴重な存在である。その向かいに今では東京に1軒しかないという
 「絵馬屋」吉田家がある。斜め前には「槍かけだんご かどや」とあるが、槍掛
 け松はこの先水戸街道の「清亮寺」の「槍掛け松」に因んだものと思われる。

  街道を更に進むと、接骨医として著名な「名倉医院」があるが、その前に
 水戸街道と日光街道の「分去れ」があり、水戸街道は右に曲がる。

  清亮寺は水戸街道に面し、この寺から街道に張り出した松のせいで、水戸
 光圀公の大名行列も槍を傾げなければならなかったという。この謂れの松は
 今はない。
  川を越えた小菅監獄で死刑になった囚人はこの寺に運び通夜をし、遺族・
 関係者と面会させたが訪れる人は殆どなかったという。

  山門(薬医門)の山号「久榮山」の扁額は中村不折の筆になる。
  

      
    
本陣跡解説板        本陣跡          横山家         絵馬屋吉田家

    
         
       だんごやさん    日光道中・水戸街道分去れ 清亮寺薬医門    扁額 久榮山

   水戸街道はこの清亮寺の先で荒川の流れを渡し船で渡った。
  高い堤防を登ってみると河川敷は野球など運動施設で占領され、「ああ、この
  辺りでわたったのか」と思うしかない。

   すぐ隣には東武線、常磐線、千代田線と鉄道の橋梁が走っているが、人は
  通さないので、仕方なく北千住駅まで戻って、東武線小菅駅で降り、東京拘
  置所の土手を登って対岸の千住側の渡し場跡を眺めた。
  
   道は6万坪という広大な拘置所の敷地の沿って東南に進み、その外れで北
  上する。
   東京拘置所は明治11年「小菅集治監」、その後「小菅刑務所」となり、昭和
  20年に拘置所が併設され、45年には刑務所が廃止され、東京拘置所となった。
   1997年から建替えが始まり、2006年に北塔が完成している。
   指紋認証システム採用など、全国7箇所の拘置所の中でも最先端の施設に建
  替えられる。
   冷暖房完備、必要なカロリーを考えたバランスよい食事付き、ちょっと不自由だ
  が、先ずは健康的な規則正しい生活。ワーキングプアが増える中で、死ぬような
  苦しい人生を強いられる位なら、いっそ刑務所に入りたいと思う人がいても不
  思議ではない。ただし、多分「入りたい刑務所」の希望を聞いてくれる仕組み
  にはなってはいないと思うので、゛「外れ」となる確率は高い。

   刑務所入りを希望する人に聞かれたときのために、写真でも撮っておこうと
  思ってカメラを向けた途端、「ダメダメ、撮っちゃいかん」とえらい勢いで制止さ
  れた。しかも50mも離れているのに、飛んできそうな勢いだった。脱獄のプラン
  作成資料にするとでも思っているのだろうか。事大主義だ。アメリカでは刑務所
  の建設・運営も民間に入札で任せているというのに。民間人に知られたくない
  後ろ暗いことがあるに違いないと勘ぐるぞ。

   
   
   
      千住側渡し場    小菅側から千住を望む  アメリカにジエットコースター   蓮昌寺で一休み
                                  と笑われた高速道

    街道は綾瀬川に架かる「水戸橋」を渡り、常磐線に向かって住宅街を北上
  する。この道は大曲といって常磐線をちょっと見てすぐにまた曲がって線路か
  ら離れる。

   西亀有3丁目から亀有2丁目に向けて進むと、途中の道上小学校の先に
  「曳舟川」(葛西用水跡)の碑がある。平成元年に曳舟川は埋め立てられて、
  現在は「曳舟古上水堀公園」となっている。昔は亀有と四つ木の間を、遊び
  客を乗せた船を綱で引いて往復していたのである。

   やがて道は「環七」を横切り、中川を渡る。

       
    
曳舟川跡           古上水公園        亀有上宿の碑

   新宿(亀有)は本陣、脇本陣はなかった。中川の渡し場があったが、川が荒
  れることがなかったのだろうか。川留めがあれば何日か滞在を余儀なくされ
  るので本陣、旅籠が必要と思われるが(一般人の旅籠はあった模様)。

   新宿は上宿、中宿、下宿の三つに分かれていた。中川を渡ると道は直角に
  右折し、ここに高札場、問屋があった。ここまでが上宿。その先、日枝神社あ
  たりまでが中宿、次いで北上したところ、帝釈天道までが下宿といった。

   やや宿場らしい雰囲気が残った道を南下すると改築中の新宿日枝神社に
  行き当たる。境内は国道6号に接している。道は少し歩くとすぐに国道6号と
  別れて北上する。ここで佐倉街道が分かれる。
   なぜこんなに鋭角に曲がるかといえば、その昔「生け洲」といわれる大きな
  池や湿地があって迂回せざるを得なかったようである。

   あちこち寄り道もしたので1時になり、持参のおにぎりで昼食をとった。
  石仏が立ち並んでいるが、ここで右へ行く道が帝釈天道である。

       
       中川橋         日枝神社         帝釈天道の石仏 

   道は更に北北東に進み、金町から柴又帝釈天に向かう京成電鉄の線
  路を横断する。
   やがて金町交差点の先で常磐線のガードをくぐり、歩道橋をわたり、
  「葛西神社」前に出る。

   江戸川に沿って葛西橋まで堤防を歩く。河原のゴルフ場で楽しそうに
  プレーしている人、サイクリング道路を行く人、そ知らぬ顔で水戸街道を歩
  く人、人様々である。

   途中で次女の家に立ち寄ったので既に時刻は4時を回っている。秋の日
  は釣瓶落とし・・・、5時前には松戸駅に着きたい。

   葛飾橋を渡り、角町に入ると祭礼の神輿に出会った。道筋の各町内で
  それぞれ染め分けた法被を纏い、若者中心に神輿を担ぎ、鉦を叩き、笛
  を吹き、太鼓を打ちながら行列が進む。秋の風物詩である。

       
      葛西神社          江戸川            葛飾橋


       

     松戸のご祭礼      

  (第三話終わり)
   
   この度の街道歩きでは 山本鉱太郎著「新版 旧水戸街道繁盛記」を
   参考にさせていただいている。(2008.1.31初版発行)
   


  

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木犀(金)酒を造る

2008年10月11日 | その他

金木犀が満開
 一足早く咲いた銀木犀は、はやくも老残の身をさらしている(可哀想なので
 敢えて画像は載せない。)。
 一方金木犀の方は、咲き始めて3度目の雨の中まだ香りを失わず満開状
 態。

 20年ほど前に一度だけ「木犀酒」を造ったことがある。すでに記憶が茫漠
 の彼方に去ってしまったので、造るからには正当な造り方で臨まねばと、
 ネットで検索したものの、意外と皆さんお造りになっていませんな。レシピは
 一つもありませんでした。

 花酒とはいえ、梅酒やかりん酒など果実酒と基本は変わらないはずと手探
 りで取り組みました。

<木犀酒製造工程>

 (1) 9月28日の「金木犀」はこんな状態でした。まだ花芽です。

    
   
  (2) 10月5日から旅行で花を摘むことだ出来ず、旅先で金木犀に会うたびに
   やきもきしていました。
  (3) 10月6日は関東地方は雨だったとか。雨に会うと香りが飛んでしまうので
   今年も諦めなければいけないのかと心配でした。 
  (4) 10月8日(誕生日)。朝方少し雨が残って、花はじっとりと雨滴を含んでお
   り到底花を摘める状態でない。

    

  (5) しかし花の状態はまだ完全に開ききってはいない様子。
   10月9日は晴れたので、思い切って花摘みを行った。なるべく日当たりが
  良くない、つまり開きが遅れているところを中心に採った花はおよそ50グラム。
  30分以上掛けて摘んだのに、こんなもんです。
   
     

  (6) 花だけ摘むのは大変です。花柄も一緒に取れてしまうので、これを丹念に
   取り除きます。できるだけ雑物の香りが移らない様に。マーマレードを造るとき
   にも種と種の子供のような小さな粒々を丁寧に取り除きました。あの要領で
   す。

    
 
 (7) 今年も梅酒を造ったので丁度いい容器が出払っていて、やむなく 1Lの
   広口ガラス瓶に、氷砂糖を250グラムを用意し、先ず半分を底に敷いて、次
   いで清潔なガーゼに包んだ金木犀の花を入れ、その上に残りの氷砂糖を
   入れました。

     

 (8) アルコール度数35%の果実酒用焼酎を注ぎ、出来上がり。これを冷暗所に
   おき寝かせます。1年は待ったほうがいいのかな?

        

 (9) 2日経ちました。少し花の精分が抽出できたようです。
        木犀の芳香成分にはオスマン、オレアノール酸、アルソール酸といったものが含まれ、
   癒し効果、疲労回復効果があるそうです。

    

 (10) もしこの木犀酒がうまくできたら、来年はもう少し早い時期の花を摘んで、
    つよいかほりを出してみたいと思います。

    金の粒集めてつくる木犀酒     大東由美子

    木犀の花に先立つかをりかな   庄中 健吉

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世界遺産:紀伊山地の霊場と参詣道を訪ねる(その3)

2008年10月10日 | 国内旅行
空海・弘法大師の高野山へ
  南紀白浜からは条件がいいと四国は徳島県の海岸線・山並みが見える。朝
 ホテルの窓からそれらしき島影が見えて感動した。
 昨日は本州最南端串本(「♪ここは串本 向かいは大島♪仲を取り持つ巡航
 船~♪)を通った。これも感動ものである。

  今日は田辺から日高川沿いに龍神街道を経て、龍神荒野スカイラインにのって
 高野山に向かう。およそ100km。山の中、羊腸の道を行くことになる。
  
  高野山は真言密教の開祖空海・弘法大師(774~835年)が根本道場として
 開いたところ。標高およそ900~1000mの、山に囲まれた平坦地に多くの寺
 院・伽藍が立ち並ぶ。その広さには驚く。

  今回は仏教に詳しい現地ガイドさんが付き、1時間ほど懇切丁寧な解説を受
 けた。なんと数珠の持ち方、焼香の仕方まで教わった。
  一の橋から奥の院までおよそ2キロの参道脇には歴史上の人物(家康、秀吉、
 伊達政宗、石田三成、明智光秀、武田信玄、上杉謙信、熊谷直実等々)が敵
 も味方もごっちゃ混ぜで、供養塔、墓が並んでいる。皇室も別格の扱いで墳墓
 がある。企業の墓もある。何と関東でも少数派である我が一族「○○家」の大
 きく立派な墓があって驚いた。しかもここには仏教各宗派はもちろん、キリスト
 教もイスラム教もお構いなし。すべての人々を公平に受け入れていることは弘法
 大師のお考えに即したものという。

  高野山では檀家はいない。殆どが寄進によっており、拝観料など余計な心配
 はしないでも良い。しかしそれでは如何にも申し訳ないと、お線香を買って何が
 しかの足しにしてもらうことにした。

        
    参道ガイドマップ      現地ガイドさん    立ち並ぶ杉の古木 前田利長墓所

     
   苔むした五輪塔          大門


  「奥の院」とは弘法大師が承和2年(835)入定し50日目にその定身を収めた
 霊窟のことである。
 弘法大師は自ら入定の日と時刻定め、身を清め、食を断ち、室に籠り、50日
 たってその定身を窟に納めたという。
 (残念ながら奥の院は撮影禁止で画像はない。)

  高野山を後にして、山を下ることおよそ100キロ。羊腸の道を和歌山方面に向
 かい、阪和自動車道で新幹線新大阪駅に向かった。

     
    JR西日本ご自慢の「レールスター」
           先頭車両(8号車)にはコンパートメントが4室ついている。
     普通の予約では受付けないし、なかなか取れないらしい。 

  
(以上第3日目終わり)
  

  
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